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(回答先: このような投稿は 投稿者 日 日時 2005 年 6 月 19 日 01:56:21)
そういえば日さんは、「怒り」がご自身の行動の原点というか、エネルギーとされているといったようなことを仰っておられましたよね。
>怒りについて誤解されています。
怒りは最悪の精神活動。
怒りというよりは不安。
不安があるから怒る。
不安は確実に現象し、ちぢこまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギー。
>私憤は頭、怨恨は胸、公憤は腹で怒ります。
俺は例えば、腐った魚のこれが頭、これが腹、これが尻尾と分類するつもりもない。
腐った魚は、腐った魚です。
世界は、単純です。
▼
イラクの悲惨な写真に公憤を激しく覚えます。
あなたの娘さんがこうなったら、怒るはずです。それは私憤でも正当なものです。
では、無関係な場合怒りませんか?
怒りを十羽一絡げに否定されないでください。
公憤を行動に結び付けられる、その習慣の中で生まれた私憤ならば、その行動もまた制御可能になります。
▲
もういちど、田口ランディのコラムを貼り付けておきます。
これはもちろん、俺の答えではなく、そもそも答えなんて誰も持っていない。
http://www.melma.com/mag/26/m00001926/a00000010.html
▽
私は悲惨な事件についてときどきコメントするが、そういう時、読者から「あ
なたも自分が被害者だったらそんなエラそうな事を言えないでしょう」という
厳しいご意見をもらう。それはたぶん、私が「悲惨」から距離を置きながら、
でもアシリ・レラさん達のように「悲しみとして受け止める」には至っていな
いので、エラそうに見えるのだと思う。
いまだ、現世的価値観を生きる私は、どこかで「もうひとつの世界」の存在を
感じながらそれを拒否している。悲惨な事件に遭遇すると、それを個として引
き受けてしまい、被害者の方に過剰共鳴して復讐心に燃えたりしてしまう。
そうならないために、一歩引くので、表現が中途半端になるのだ。それが自分
の限界である。事件から距離を置くことで冷静にはなれるが、うまく悲しめな
い。のめり込むと、悲しまずに怒ってしまう。この堂々めぐりだ。
△
俺自身もこれが限界だとしか言えませんがね・・。
怒りに留まるのは、あなたの自由でしょうね。
あなたに「そこから出ろ」とは俺は強制できない。
怒りを持てと、あなたは俺に強制できない。
ただ俺は、怒りを選択していない。
それは怒りに留まれば、利己的な意味ですら自分がどうなるかを「知って」いるからです。
幸いなことに人間には、「怒り」の対極に位置するものを選択できる自由がある。
その対極にあるものを人は「愛」と呼ぶらしい。
選択なんです。
人は怒り(不安)に留まるか、愛に留まるかというごく単純な選択の中で生きている。
それぞれがそれぞれの選択を生き、それぞれがその結果を経験する。
社会も一緒です。
そこに暮らす人々の大半が怒り、不安を選択して生きているなら、それは確実に現象する。
その現象のひとつとしては、無垢な人々を殺し、引き裂き、破滅させるという結果も想像できる。
「戦争」はその「選択の結果」の一現象でしかないと、俺は思うからです。
人殺しに加担したくないから、俺は愛を選ぶ。
都会暮らしはとっくに武装解除している、とっても安全な生き物で〜す。(爆)
だからおりょうさん、早く出てきて拙者とちちくりあいませんか?(爆)