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(回答先: で、あなた自身の答えはどっちなんですか? 投稿者 都会暮らし 日時 2005 年 6 月 17 日 22:59:22)
>都会暮らしさん どうもです。
Kの考え(答え)でしたら、Kの過去の主張の中で示されていると考えていますし、「公平でない比較表現」と用いている事からも分かるだろうと思われます。
都会暮らしさんが指摘された「見捨てる」に鍵があります。
Kがあえてそのような表現を使ったのは「個人を尊重して、好きにさせる」でも「個人の自由意志を尊重する」でも、「説得は続けるが、最終的には個人に任せる」でも、結局は「見放した」事には違いがないだろうと思うからです。それなら、ストレートな表現の方が分かりやすいでしょう。
【もう少し多岐に渡る日本語の表現を磨いて下さい】
とおっしゃる、都会暮らしさんでしたら、どのような表現を使われるのでしょうか?
是非、Kより素晴らしく、かつ、分かりやすい表現をお示し下さい。
【<個人の意思を尊重する>ことが、どうして<見捨てる>に繋がるのか俺自身のみならず大方の人には到底理解不能】
との事ですが、どうしてそのように思われるのか、良く分かりません。
「はみだしっ子」三原順さん作のマンガの中で主人公のひとり、グレアムは少なくとも2回は「自分の意志を無視」されます。
一回目は隻眼のグレアムに死を間近にむかえる父が目の移植を求めますが、グレアムは断固として拒みます。しかし、グレアムの回りの協力もあって、結局はだまし討ちの形で眠らされてしまい「移植手術」は決行されます。
二回目はグレアムは自殺を全知全霊を掛けて計画しますが、それを養父と最大の友人であり、義理の兄弟でもあるアンジーなどの連合に阻止されます。グレアムの最大の望みはグレアムの理解者達によって台無しにされてしまいます。
これは所詮はマンガです。今回のKの例題が「命を扱っていて、頻繁に起こることではない」というのは確かでしょう。しかし、命ではなくとも、「個人の意志の尊重が、その個人の不利益と判断できる事柄」など、それこそ星の数ほどあるでしょう。
例えば「旅行に出かける人が、ゲームに夢中だった」として「もう、止めないとバスに間に合わない」と言っても、「もう少し〜! 始めて、ここまで来たので一段落してセーブしてから」とか言っていたら、いきなり電源を抜いて上げるのも選択手でしょう。勿論「勝手にしな!遅れて泣くのはお前だからね!」と【見捨てて】しまうのも選択手です。
【他の人々にはそれぞれに、命を賭してでも守らなければならない「何か」がある。】
との事ですが、イメージとしては分かるような気もしますが、もう少し具体的に書いて貰いませんとピンときませんね。
Kが自分に当て嵌めて思うところで、「自分の命を賭けても良い」ようなものは「自分の極近しい仲間の生命を守りたい場合」以外には考えられません。
少なくとも、「自分の信念」とか「プライド」とかのあやふやな感情や自分の所有物よりは「自分の命」の方が大切だと思います。
また「国土・領土」「宗教・思想」等は命を賭してまで守るものではないと言うのは、Kの持論ですから、問題外です。ただし、これはKの意見であり、そうは思わない人もいるのは事実だと認識しています。
実は、都会暮らしさんのご指摘は「核心」に迫るものです。
Kは「自分らの利益や財産や既得権を守るために、他人に誤った思考、信念を植え付けるような洗脳をする者達がいる」と思っています。
「愛国心」「宗教信念」「生命より大切な物」・・・
それらは、刷り込まれた「反証不能の妄想」と言えるべき物です。
例をひとつ上げましょう。第二次大戦の戦争末期に国民は「鬼畜米英が来たら女は全て強姦され、男は皆殺し」と言うイメージを持っていました。ですから「それを阻止するためには命が賭けられた」のでしょう。
しかし、結果を見てみると「早く、降伏した方が被害は少なかった」だろうと言うのが正しいでしょう。少なくとも戦中より戦後の方が「国民は幸福」になった。と思われます。
支配階級は思想集団や宗教集団を含めて、そこに所属する末端の人達を「自分の利益の盾」と考え「そのように洗脳」しようとしているとKは思っています。
で、実際にその洗脳が深く入ってしまった人もいる気がします。そんなのは妄想と言う意見もあるでしょう。しかし、第二次大戦では多くの人が実際に特攻という手段まで使って死にました。現在イラクで「自爆テロ」も行われています。Kに言わせればイラクの人たちは「早くあきらめた方が結果的には良い」と思います。自爆テロをする人たちが守ろうとしているのは「宗教信念とか仲間の生命」なのだろうと思いますが、実際には「早くあきらめた方が被害は少ない」だろうと思います。彼らが現在実際に守っているのは「支配階級の利益と支配体制」だろうと思います。
人間は誤った価値観という物に「憑かれやすい」側面も持っています。Kはそれを「落としたい」と思っていますし「誤った価値観に陥る『臭いの元』を断ちたい」とも思っています。それを「余計なお節介」と思うのは自由です。が、それによって「助かるかもしれない人もいる」可能性はあります。
Kの主張は「間違っている」と決めつけて、芽を摘むような主張をされるのはどうなのでしょう?