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Kは自己本位の思いに陥る考察になる人は「自分に、生きている喜びがない」からだと思っています。他人の親切が煩わしく感じ、親切そうな人の裏には「打算」を感じ、もしくは偽善か愚かさを感じ取るようになっているのでしょう。一種の人間不信です。
そこで、自分本位の考えで「自分の欲望を満たすことにより、精神の均衡を保とう」とします。そうでなければ、生きている事がつまらないからです。
欲望系は食欲・性欲などの本能系と知識欲・名誉欲・金銭欲といった計算系があります。しかし、これらは一時的な満足しかもたらさず。真の満足感には達しないため、それに気付けば絶望感と孤独感からの自殺に至りますし、気付かなければ餓鬼道の無限地獄に陥る可能性が高いです。
パトス(情感)と言うのは、知識(人間が発達させてきた能力)と本能(生物として持っていた能力)とは別の存在なのではないかとKは考えています。
計算系(知識系)と本能系の満足では人間は感動をしないのです。唯一の例外は「他人の作った予期せぬ作品とか考えに触れた時」です。
パトスを揺り動かされた時、人は「感動の涙を流すことがあります。」
おそらくですが、これは「唯脳論」的にも「唯物論」的にも説明は困難でしょう。
感動の涙(喜びの涙)を流す時には一つの方向性がある事をKは指摘します。
計算されたサスペンスや、斬新なSFの作品などに触れても「面白い、楽しい」までです。パトスが揺り動かされるには「人と人の魂の触れ合い」的要素が不可欠です。
無償の愛でも、真実の愛でも、報われない愛でも良いのですが、本能も知能も無い場合にだけパトスは反応を示します。
本当の自我(真我)は、表面的な脳の活動(意識レベル)とは別の物を求めているのでしょう。
Kの考えでは、それは個人主義とは真逆の物だと思っています。他人に干渉しない事を決めた人は、今後、本当の喜びには出会えなくなる可能性が高いはずです。
それでも「本当に困った時」に他人に助けられたら、きっと感謝と感動に触れるかもしれません。
都会暮らしさんは「少女漫画系の名作」に触れたことはあるでしょうか?
心が洗われるような素晴らしい作品が一部にあります。一般的には男子系の作品の方がレベルが高く「面白い作品」が多いのでしょうが、パトスに訴えかけるような作品は少ない気がします。
そこに鍵があるとKは思っています。
おそらく、人間は繋がり合い、助け合い、その中に自分の存在価値を見いだす事が「本当の幸福」だとKは思います。
個人の幸福は「個人では見いだせない」気がします。