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(http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/810.html)【風のようにさん、俺も人を詮索しようって悪趣味は、さらさらないですが・・。】に対するレスです。
都会暮らしさん、レスありがとうございます。
もちろん私は、都会暮らしさんが人を詮索するタイプの人間であると言っているわけではありません(別に人を詮索することは悪いことではありませんが)。人を詮索しない人間でありたいと私が自分に対して求めていることであって、都会暮らしさんに対して求めていることではありませんが、思わぬ誤解を招いてしまったみたいで申し訳ございません。ただ都会暮らしさんの本音を覗けたという意味では、私にとっては良かったかもしれませんが・・。
▼都会暮らしさん
【だからなんでしょうが、「わかりあいたい」という欲求が、風のようにさんの仰る“方程式”に陥るとは、どうしても思えないのです。
あの時、俺の周りの大人たちは、無条件で俺を受け入れてくれた。
「わかってほしい」と訴える俺を、「わかってるよ」と丸呑みしてくれた。
俺の渇きを癒し、飢えを満たしてくれたのは、土方焼けしたおっちゃん連中でした。
そんな経験を経てきたんで、自分をカヤの外において、人生とか、愛とか、ましてや“法則”とかを語ることは、少なくとも俺にはできない。】
都会暮らしさんが多感な青春時代に味わった【周りの大人たちは、無条件で俺を受け入れてくれた】という状況を、都会暮らしさんが「解り合っている」と感じたように、「解り合っている」という心の状態は、「わかってほしい」という欲求にあるのではなく、その主張をしている自分を認めてもらえる状況であり、「わかってるよ」と受けとめて貰える寛容さにあるのではないでしょうか。
人は意見や主張が食い違うと、「解り合っていない」と考えます。そして「解ってほしい」と要望し、それを期待するものです。結果的に、その期待に答えてもらえないと、悲しみ・孤独感・裏切り・失望・攻撃・排除となっていくのが人間の心の変化であり、現在の社会の諸問題(と言われること)へと繋がっているのではないでしょうか。
意見や主張が食い違うのは、自然なことです。完全に同じ生き方・経験をしてきた人がいないように、人は全く同じ考え、主張を持ち合わせることはできません。
『君とは意見が違うかもしれないが、君がそれを言うことは理解できるし、受け入れているよ』と言われれば、考え・主張は違えども「解り合っている」と感じます。真に「解り合う」とは、その自然な状態(意見や主張が食い違う)を認めてあげる(もらえる)ことではないでしょうか。
私は、考え・主張・意見は、個性だと思っております。それは、身にまとう衣装であり、大地に輝く色とりどりの花々であり、風になびく木々のゆらめきだと思っております。それらが違うからといって、どうだというのでしょう。自分と同じにならないからといって自分の「存在意義」を否定されていることになるのでしょうか。それらを同じに合わせることが人生の目的であり、“一体感”の追求になるのでしょうか。
また、人に「解り合う」ことを求めるのではなく、自分に「解り合う」ことを求めることが、大切なことであると思っており、そして人に「解り合う」ことを要求するということは、自分がその人を「解ってあげていない」ということを意味しているものだと思っております。
ここで言う「解ってあげる」とは、意見を鵜呑みにするとか、相手に合わせるということではありません。意見は違えども、相手がそれを言う事(選択する事)を理解してあげる、その思考を束縛・制限せずに自由にさせてあげるということであり、これが無条件の受け入れであり、“愛”であると私は思っております。
また、体験(経験)は、人生や愛という哲学的概念を知る上では、都会暮らしさんの言われる通り、欠かす事ができないことだと思います。ただそれは自分にとって必要なことであって、他人にとっては、必ずしも自分の経験というものが必要になるわけではないと思っております。経験はあくまでもその人の行為と結果に基づくものであって、それは万人に通ずるものではありませんし、その経験から万人が概念を知ったことにもなりません。他人の経験話から、自分もそれを経験したと考え、ある概念に対して思い込みや先入観で接し、真に経験できるであろう新たな視野を塞いでしまうことにもなり得ます。またそれを主張した相手に対する思い込みや固定観念といった新たなカテゴリーを設けることにもなるかもしれません。
ただし、相手に理解して貰おうとするときに、比喩的に自分の経験談を述べることは、相手の理解の速度を速めたりすることはできます。ただし、私は自分の事の話をすることが好きではないので、それは緊急的に対処しなければならない状況や、相手自身の経験の中にはない概念で、相手が想像することが容易でなく、その概念に対して理解できずに盲目的になってしまっているときや、相手からそれを求められ、興味本位ではなく相手にとって必要性と思われるときだけにしようと、なるべく考えているだけです。(比喩的なものであれば、他人の物語を引用したり、創り上げたりすることでも可能です。)
また経験は過去であり、思い出です。経験からは学ぶことはできますが、経験が本質(真理)ではないとも思っております。経験に固執すれば、経験に束縛され洗脳され、経験の奴隷となってしまいかねないと私は思っているからです。
もちろん味気ない会話と言われればそうなるのかもしれませんし、ましてや都会暮らしさんにそれを要求している訳ではありません。