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暇ラヤ山脈さん、レスありがとうございます。
(http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/192.html)【糞のように(「風のように」さん、「たけ(tk)」さんへ)】についてのレスです。
▼暇ラヤ山脈さん
【私は、「動物的な本能に従った生き方」のみを奉じている。
私は、「動物人間」です。人間からよりも、野生動物の生き方から学んできたことの
方が多い。
あなたは、私を価値観の権化のように思われるかも知れないし、そうであればそれを
否定することもできませんが、「存在するだけ」というあり方を追求した結果、一個の「動物」にならざるを得なくなった。
私は、世界一不幸な人間(形態)でしょう。自信をもって断言できます。
にも関わらず、心の底から明るい。それをよく人は、「馬鹿」と呼びますが、動物で
ある私は馬と鹿の合成であることに途方もない価値を感じてしまう。】
私が定義している「動物的」というのは、肉体的(物質的)な欲求を満たすという性質の概念だと考えております。
動物は「動物的」です。人間も動物ですから「動物的」な側面は当然持ち合わせております。しかしその「動物的」な側面を「法・罰則・罪悪感・価値感」等で制限し抑圧すると、それは強調され偏ったものに変質し「支配―被支配」の関係における洗脳に用いられる要因となると考えております。
「執着意識」、「私物化意識」、「犠牲者意識」、「依存意識」、「優越意識」、「不足意識」、「必要意識」等々はすべて動物的「感情」が抑圧されたものから変質して生み出されたものだと考えております。
暇ラヤ山脈さんが「動物的」かどうかは、提示された文章からは把握できませんが、“抑圧されない”自由な行動を持っているように思え、それは「支配―被支配」の関係に埋没しない一つの要素だと思います。
また暇ラヤ山脈さんが「動物的」だからといって「価値観の権化」なのかどうかは判りません。野生動物の生き方を「正しいこと」「良いこと」「完全なこと」等の価値判断をしてそれを追及し行動しているのであれば、それは何らかの感情を抑圧している意識状態であると考えます。
つまり自分が自分を抑圧し「野生動物的人間」以外の自分になることを絶対に許さないと制限し、抑圧し、そうなってしまった自分に罪悪感を感じるという状態でしたら、それは「価値観の権化」に繋がる状態だとも考えます。
ただし、自分が「ただ存在する」という状態から自然に選択した自分らしい自分に正直な行動であるのであれば、それは「価値意識」ではない生き方に繋がるものだと考えております。
提示されたものをそれぞれ私の定義する「動物的」であるかどうかを私なりに簡潔に再定義してみます。(あまり詳細には書いてはおりません)
【・夫婦共仕事をしてない、いつも新婚気分でへらへらしている】
仕事をしないことだけでは「動物的」とは考えておりません。ちなみに野生動物も仕事(狩り等)をしております。ただ単に肉体を動かすのが辛いということで何も行動しないのであるなら、それは「動物的」だと考えております。
【・10代の娘2人が学校に行っていない(10代後半の上の子は、ゲームや漫画を買
うためにごくたまに日雇いのバイトをする)】
子供を一人の生命ある人間として自主性を重んじて、自分の私物として束縛し制限しないという意味においては「動物的」ではないと考えております。私物化すれば、「動物的」です。
【・貯金をしていない】
貯金をしていないからといって一概に「動物的」であるとは言えないと思います。もちろん動物の世界には金はありませんが、食料はあります。そしてリス等の食料を蓄える動物もおります。それは生きて行くための充分な食料が得られない場合に蓄えます。貴方の言う貯金をしないことが、生きて行くために充分得られる日々の収入や食料が確保されているのであれば、それは「動物的」であると考えます。生きて行くことに執着しないで、蓄えない場合は「動物的」ではないと考えております。
【・保険に入ってない(強制加入以外)】
蓄えという観点から、残された家族が生きて行くために保険に入るのは「動物的」と考え、保険に入らないのは「動物的」ではないと考えます。
【・医者や教師などの偉い人のいう事や社会の通説はきかないで、好き勝手、本能の赴く
ままに行動している(妊娠中酒を飲んだり、煙草を一日80本吸ったり、何にもしない
で寝腐ったり)。】
種を維持し、縄張りや組織を維持するための規律を守り継承し、その規律に自分を従わせるのでしたらそれは「動物的」であり、あくまでも個人主義を貫くのでしたらそれは「動物的」ではないと考えます。ただし酒等の肉体を麻痺させ、それに依存する行動は「動物的」であると考えます。
【・ジェンダーギャップやジェネレーションギャップが全くない、野放図な暮らしをしている】
肉体的価値判断によるジェンダーギャップやジェネレーションギャップの場合に、それを持つことは「動物的」であり、全く無い場合は「動物的」ではないとなります。
つまり、暇ラヤ山脈さんの提示されたものを表面的に推測し、私の定義する「動物的」という概念にあて嵌めると、暇ラヤ山脈さんは比較的「動物的」ではない生き方であると考えております。
また私は、人間が何を考えどんな行動をするかということについて、絶対的に「正しい―間違っている」「良い―悪い」ということは無いと思っており、そこには一つの態度(選択)とそれに伴って一つの結果があるだけだと思っております。
▼暇ラヤ山脈さん
【あまりにも対極なため、相互理解が生まれることは奇跡的なことだと思いますが、ご祝福を
お祈りします。】
どの部分で対極しているのかは、暇ラヤ山脈さんの文章からは把握できませんでした。私は野生動物的な生活をしようとは思いませんが、「動物的」な考え方の要素は持ち合わせております。
少なくとも私と対極している部分として表面的には、「仕事をしている」「子供は学校に行っている」「貯金がある」「煙草を吸わない」という点でしょうか。
ただし私の生き方は絶対的に「正しいー間違っている」とは考えてはおりませんし、暇ラヤ山脈さんの生き方を否定も肯定もしませんので、その是非については私とは議論に結びつかないものと思っております。