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世の中には様々な常識と言う物が存在する。
一概に「常識」を規定するのは危険でもあるのだが、ここでは法律系に明示の無い「暗黙のルール」と一応のイメージを対象として話を進める事にしたい。(法律系は違反すると罰則があるので常識ではなく、規則になります。)
常識と言うのは「一種の憑き物」だろうと思うが、それでも、社会生活を営む上では、知っておいた方が良いし、守るべき物だと認識している人が多いだろう。しかし、一方で「常識なんか知った事か?法律に書いていなければ守る必要など認めない」と考える人もいるだろう。
結果として後者が増えると「法律」ができあがり、住みにくい世の中になるのかもしれない。暗黙のルールであった内は「のっぴきならない場合は、緊急回避的にできた事」ができなくなった訳である。
例として上げると。「走行中携帯電話の使用の禁止」などを思い浮かべる事ができる。恒常的、習慣的に使用するのは論外だろうが、緊急の連絡を取る必要があっても「使用できない」のである。場合によってはその人もしくは周辺の人の生命に関わっている連絡であっても、規則ができればOUTである。
走行中は危険なので「運転に集中」するのは当たり前である。他人を乗せていればその人の命もあずかっているのだし、どこかに突っ込めば突っ込まれた方の人は大迷惑である。当然ながら咄嗟の時の制動距離も長くなるので人を跳ね飛ばす確率だって高くなる。
論理的に考察すれば「走行中の携帯電話使用は最小限(本当に必要な場合にできるだけ短く)が常識」なのだと判断できると思うが、そんな事も分かろうとしない者の「目に余る恒常的、習慣的使用」が規則を作らせてしまった訳で、規則になってしまうと「使用はいかなる場合でも禁止」とのデジタル思考(使用可・使用不可の二者択一)の世界で判断される事になるのである。
日頃「企業論理の押し付けを規制する法整備」を唱えるKがこのように書くと「自己矛盾」していると思う人がいるかもしれないので書いておくと、「個人を縛る為の法」と「企業を縛る法」は別だと思っている。もっと正確に表現したならば法による規制が必要ならば「より大きな集団を縛る為の法」から「少ない集団(最終的には個人)の規制」という整備の順番で作る必要があると思っている。現行は逆である。まず最初に個人を縛る方向である。しかも、そこでお終いなのである。個人が一方的にリスクを背負わせられるのが現状である。「個人の責任を追及する前に企業責任を追及すべきであり、その為の法整備をしろ」という主張は矛盾ではないとKは考えている。
本論に話を戻す事にする。
「常識」は「一種の憑き物」とKは思うと書いたが、論理的な思考の末の物もある。そのような種類の「常識」を守らない人が多くなれば「法律」で規制される結果を招く、場合によっては「マナー違反者」がこれから守らないであろう(まだ現象の確認されていない)事まで含めての法整備が行われる。個人は益々雁字搦めに縛られる事になる。
つまり、倫理的に考えて「できるだけ行わないような事が良い」という事は社会問題化しないように「最小限度」に抑える事も常識なのである。そうでなくとも「他人のアラ探しをして法規制する事が生き甲斐」という人もいるのだと思う。最悪の存在としては「そんな暇な仕事で食っている奴」もいるのである。
そんな種類の「常識」は守る必要があるだろう。
上記以外の常識は基本的に「憑き物」である。
例えば、歓迎会において「先輩に勧められた酒は断らないのが常識」と言われたとして「飲んだら乗るな」という常識の上の法律との板挟み状態はどこにでもあるのだろうとKは思う。最近は「飲ませた者への法整備」も進んでいるが、順番が逆なのである。
「これから乗るものへは飲ませないのが常識」という法整備が後でできるから、悲劇がおこるのである。法整備は上(力の強い者)から順番に進めるべきなのである。
まあ、ここは話しを進める。
「先輩の言う事は聞く」という常識を守る必要があるか?である。勿論、業務上の命令系の物ならば大体は「必要有り」との事になるだろう。それを拒否するのは「あきらかな法律違反」でもなければ(場合によってはあったとしても)難しいだろうと思う。
では、プライベート面では?
多くの場合は論理的な思考をすれば「守る必要性など無い」のだと思う。
問題は「だからと言って守らないで生きていけるか?」である。
常識という物は「自分が作り育てる物」ではないのである。
それがどのような種類の常識であっても周りの人が高い確率で「憑かれている現象」を常識というのである。それは論理的に判断して「自分では納得できなくとも」常識は常識なのである。
それを守らないと「周囲から白い目」で見られるのである。
人間は個人主義だけで生きていける物ではない。何かを犠牲にして対価報酬を得る事によりその報酬を生活費に当てて「食べていく」事をしないと生きていけない。
「自分の常識」を信じる事で生きていくには「それができる環境整備」が必要となる。具体的に言えば経済能力である。これから一生食っていける見通しがあれば「他人が信じる常識など無視してもやっていける」のだろうと思う。
しかし、大多数の人はそうではないのが現実なのだろうとKは思う。
つまりはやはり「常識」は守る必要があるのだろうと思う。
しかし、あまりにも「自分の価値判断と異なる常識」を守りたくないのも当たり前である。
人間は言葉という通信手段を持っている。それを利用して「その常識は憑き物です」と言うのは有効かどうかは結果論であるが方法論としてはある(結果的には状況の悪化を招く可能性は否定できない)。
とすれば、法整備を訴える事が必要な場合もあるだろう。
達観してその状況に適応するのも一つの方法論だろう(Kは認めないが)。
常識を無視してもそのリスクを負うのは自分である。
常識と戦ってもそのリスクを負うのは自分である。
その常識が周囲が勝手に作って自分に押し付けて来るという不条理極まりない物である場合においては何故リスクを負う必要があるのだろう?とKは思うがKがどう思った所でそれが「現実に生きる者の存在リスク」なのだろうとも思う。
結局、常識に捕らわれない生き方は不可能に近いと思うざるおえない。
その上で「気づきを促す啓蒙こそがリスクが少なく未来に期待を託す最良の手段ではないか?」とKは思う。
「達観して適応するのは、何の根本解決にも繋がらない。」だろう。そこには何の期待もなく、結果的には諦めた状況である。個人的なケア以外には有効ではないし、そのような思考が蔓延れば、その常識は益々図に乗って人々を苦しめる事になる。
宗教的な達観など、現実に暮らしこれからの世界に生きていく者には毒になるだけでなんの価値もない考え方なのだろうと思うが、せめて、周りの人を巻き込まないでもらいたいものである。