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人間は誰しも、多かれ少なかれ犠牲者意識の虜になっております。
「私がこうなってしまってのは、誰々のせいだ。何々のせいだ。」
「この仕事がうまくいかなかったのは、誰々のせいだ。」
「私が苦労するのは、会社のせいだ。家族のせいだ。」
「私がこうなってしまったのは、日本のせいだ。諸外国のせいだ。」
「私がこうなってしまったのは、総理のせいだ。政党のせいだ。」
なぜ、犠牲者意識というのは生まれるのでしょう。
それはある問題の責任を、自分の外側の何かへと転嫁させ、自分を防御したいという意識であり、また自己という枠組みをはっきりと際立たせ自己と外側の分断を明確にするという意識であり、そして自分以外の何かが変われば自分が変わることができ幸せになれるという依存する意識から芽生えます。
それは結果として、自分の中で「自分には自分を幸せに出来る力を持ち合わせていない」と定義し続けることになり、自分の力を他へ依存し、その奴隷となり、そして自分自身を見失っていき、「支配―被支配」の関係構造へと埋没していくことになるのだと思います。
今、自分が抱えている問題のすべては自分が選択した現実です。
外側の何かに責任があると自分が感じるのなら、その外側との付き合い方を止め、新しい付き合い方のできる外側と、やり直すことは可能です。
発注先を変えることは可能です。会社を辞めることも可能です。恋人や家族と離れることも可能です。日本と離れることも可能です。
しかし、離れられないのは何故でしょう。
その決断にも、何か(誰か)との依存を断ち切ってしまうことへの、不安・恐怖・愛着・執着が自分を抑え込みます。
そして延々と続く犠牲者意識の連鎖が始まるのではないでしょうか。
その縁(契約)が切れないのは、自分がそれを選択した結果です。
自分がその関係に、ある自分の意図した目的を見出す為に、今の繋がりを保っているのではないでしょうか。
その結果として起こり得る問題は、自分の意図した目的の為にそこに存在しているのです。
犠牲者意識は、一時的には問題を解決することができるかもしれませんが、根本の意識を変えない限り、長続きはせず、同じ問題の繰り返しになると思っております。
自分がその問題に犠牲者意識を感じることが無くなった時に、初めて自分のもっている力をその対象となる外側から自分に戻す事ができ、解決の糸口を自らが見出し、出口を見つけることができるのだと、私は思っております。