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「良い悪い」「善悪」等の価値判断というのは、あくまで主観的なものであり、人それぞれです。
また価値判断の基準となるものは、その人が受けた教育や生活環境等において自分自身をその価値基準へとマインドコントロールした蓄積された結果です。
元来、物事にはある特定の価値判断というものは無く中立的なものであり、それに我々が価値という意味付けをして判断しているに過ぎません。
例えば、何か食物を食べるとき「まずい」「うまい」という好き嫌いの価値判断が発生します。
肉を食べるとき、「これは柔らかくておいしい肉だ」という表現はよくします。
ここで「柔らかい」「肉」というのはここで言う価値判断ではなく、「おいしい」というのが価値判断です。
「柔らかい肉」というと高価な霜降り肉を連想するように、日本人の大多数的にはそれが「おいしい」という価値基準となり、それに従うように自分の中で自分をマインドコントロールして「柔らかい」=「おいしい」という価値基準を確立し、肉を食べながら何度も自分の中で繰り返してそれを確固たるものにしているのでしょう。
そして「おいしい」という行動をすると、それが自分の中では「喜び」「幸せ」という感情に結びつき、「おいしい」=「喜び」「幸せ」、「まずい」=「悲しみ」「不幸」という図式が成立してそのマインドコントロールを強化しているのではないでしょうか。
「良い悪い」「善悪」等の価値判断がないと、「生きて行くこと」ができないのでは、とも思われます。
何かを食べるという行為そのものは、「食べる」=「良い」、「食べない」=「悪い」という価値判断ではなく、自分の身体が食物を食べないと「生きることができない」という信号を送ってきているから、それに従ってその行為をしてみたに過ぎなく、仮に食べなくて死んだとしても、それは死という状況であり、それそのものは「良い悪い」というものではないです。ただ我々が「悪い」という価値判断をしているだけです。
つまり「生きる」は「良い悪い」でなく、「死ぬ」も「良い悪い」ではない。ただ、今「生きている」が現状であるから、「生きている」行為を継続しているに過ぎないということです。
つまり「食べる」という行為それ自体もそれは「生きている」から「食べる」という選択をしたのであり、価値判断ではない行動です。
勿論、「ある行為をすること」、「生きて行くこと」が、良い悪いという価値判断にはなりませんので、「ある行為をしない」でも、「生きて行かない」でも良い悪いということにはなりません。
「幸せ」になるために前向きに物事を考えようというのはよく聞かれることです。
「まずい」ものを食べると「不幸せ」を感じますが、それでもこれはネガティブ的な感情だから前向きに考えるために、「まずい」けど「幸せだ」というようなボジティブ的に感情を変えようとするのはよく見られます。
何かを「うまい」とすれば、必然的にその反対の「まずい」というものが存在することになります。
つまり根本の「まずい」「うまい」という価値判断を無くさなければ、いつまでもその「ネガティブ」を「ボジティブ」な感情に変えるという行為を悪戦苦闘しながら繰り返す現実が続くだけです。
それは「幸せ」になるものではなく、いつまでたっても「苦痛」の現実からは逃れられないのが現実ではないでしょうか。
もし、いつまでも「幸せ」でありたいと思うのなら、その感情の原因となっている物事の価値判断を無くすことが大切であり、その時はじめて、どんな行為にも、どんな結果にも「幸せ」でいることができるのだと思います。
ただし「幸せ」という感情も「不幸せ」という感情があって、はじめて成立するものですから、「幸せ」のみで存在し続けることはあり得なく、その状態はすでに「幸せ」とは呼ばないのかもしれません。
価値判断を無くすことができたのなら、価値判断を拠り所にする感情の変動が無くなり、常に物事に左右されない、自分の思い通りの感情で居られることができ得るのではないかと思っております。
ただし究極的には、それは感情を無くすという結果になるものだとも思います。