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長いこと投稿してなかったんだけど、たまたまネタがあるから久々にやってみよう。
とてもおしゃれなコピーレフトのサイト『JEALOUS GAY』で拾わせていただいた恐ろしい資料。
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/barry_chamish.html
これはバリー・チャーミッシュというイスラエル人ジャーナリストの、イスラエルのスファラディ系ユダヤ人が『どこかで聞いたことのあるような手口』で『同胞たち』によって激しく虐待されてきている事実についてのテキストの和訳。
フランキズム関連の資料を探していて見つけたもの。
ただ、こちらのチャーミッシュの資料に出て来るフランキズムについての解説には、『開祖フランクが自分の信者約2000人を引き連れて集団でカトリック式の洗礼を受けたのは、最初からカトリック教会の内部からの破壊が目的だった』という事実の説明や、実際現在のカトリック教会の上層部にフランキストが浸透していることを示す事実への言及がないので、フランキズムの理解を目的に読ませてもらうには少し不充分な所感を受けました。
ともあれ、この虐待、殺戮の手口、どこかで聞いたことがございませんでしょうか。
いかにもどこかの誰それがやりそう、といったような?
イスラエルの体制側って、もしかしてその『誰それ』からこういったやり口を習得したわけ?
それとも彼らは・・・・
ではまた、ごきげんよう。
(引用開始)
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『10万人への放射線照射』──番組を見て
バリー・チャミッシュ
8月14日の午後9時からイスラエルのテレビ局“10チャンネル”で放映された番組は、これまでのすべての因習を打ち破り、この国の創建を担った“労働シオニスト組織”の最も醜悪な秘密を暴き出した。つまりイスラエル政府がスファラディ系ユダヤ人の子どもたち殆ど全員に、意図的に大量の放射線を浴びせて健康被害を及ぼしてきた事実を、暴露したのである。
この暴露騒動のきっかけを作ったのは、『10万人への放射線照射』と題するドキュメンタリー番組の放映だった。この番組は最後に司会のダン・マルガリットが進行役を務める討論で終わっているが、彼は“体制派”べったりのテレビ文化人としてつとに評判の悪い人物だったから、こういう仕事をしているとは驚きだ。
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番組の詳細:『10万人への放射線照射』(ディモナ・プロダクション、2003年)
プロデューサー:ドゥーディ・ベルグマン
ディレクター:アッシャー・ハミアス、ダーヴィッド・バルロセン
パネル討論の参加者
“しらくもX線照射被害者補償委員会”代表のダヴィッド・エドリ氏[←David Deriの誤記の可能性あり]とモロッコ人歌手、それに厚生省スポークスマンのボアズ・レヴ氏。
番組内容の骨子:
1951年、イスラエル厚生省の総指揮を執っていたハイム・シェバ医師は米国に飛んだ。そして米軍から供給された7台のX線照射装置を祖国に持ち帰った。
これらの装置は原子力艦系の大規模な人体実験を行なうために用いられた。スファルディ系ユダヤ人の子どもたち全員が、まるごと1世代にわたってこの実験のモルモット代わりの実験台にされたのだ。イスラエルに住むスファラディ系ユダヤ人の子どもは、誰もが許容量の3万5000倍もの強力なX線を頭部に照射された。この大規模実験を行なうに際して、米国政府がイスラエル政府に年間3億イスラエルリラの資金を供与していた。当時はイスラエル政府の厚生予算が総額6000万リラだったわけだから、この資金援助がどれほど大きなものだったかが分かる。米国政府がこのX線照射事業のためイスラエル政府に供与していた資金は現在なら数十億ドルに相当する。
スファラディ系の子どもをX線照射実験に連れ出すため、親たちをだます策略としてインチキな「遠足」がデッチ上げられ、いったん子どもたちにX線照射が行なわれると、あとで親には「お子さんの頭皮に巣食っていた“しらくも”[=子どもの頭皮に生じる白癬菌感染症の病変]を治療するためでした」とウソの告知を続けていた。こうしてX線照射を受け、その直後に死亡した子どもたちはじつに6000人に達する。それ以外の子どもも多くは癌になり、すでに死亡したか現在死にかけている。いまも生存している被験者たちだって、癲癇[てんかん]・健忘症・アルツハイマー病・慢性頭痛・精神病など、各種の障害に苦しんでいる。
そう。まさにこれが、問題のドキュメンタリー番組の主題であり、番組は淡々と事実を伝えたのだ。それに劣らず画期的だったのは、この実験の犠牲者たちが実際に画面に登場したことだ。許容線量の3万5000倍ものX線を頭部に照射されたモロッコ人の女性は、当時の様子をこう語った──「大声で泣き叫びました。泣き叫べば頭痛を忘れることができると思って。頭痛から逃げ出したかった。頭痛をどうにかしたかった。でも頭痛が楽になるなんて、一度もなかったんです」。
背中がすっかり曲がってしまった顎髭の男が街頭を歩きながらこう語る──「まだ50歳を過ぎたばかりですが、みんな私を70歳を過ぎた老人だと思ってるんですよ。こうやって前かがみで歩かないとひっくり返っちゃうんでね。あのX線のおかげで若さをすっかり奪われちまった」。
何千人もの子どもたちにX線照射を行なっていたという老女が証言する──子どもたちは一列に並ばされて、まず頭の毛を剃られてヒリヒリするジェル剤を塗られます。つぎに足の間にボールを挟まれて「これを落とさないように」と命令されるんです。これで子どもたちはその場にじっと立っていなきゃならない。子どもたちの体は、照射部位以外はなんら保護されていませんでした。鉛入りの防護ベストを着せるなんてことも全くありませんでした。私も“しらくも”退治で子どもたちを助けているんだと聞かされていましたしね。あの子たちが危険な目に遭っていると知っていたなら、ぜったいに協力なんかしなかったんですよ。絶対に!」
子どもたちは全身にX線を浴びたため、遺伝子に突然変異をこうむり次世代に悪影響が及んだ事例も多かった。我々は、顔が歪んでしまった女性から、こんな話を聞いた──「子どもが3人いるんですが、どの子も同じ癌に罹[かか]りました。親が罹ったのと同じ癌にね。これでも“偶然の一致だった”なんて言えますか?」
現在50代のスファラディ系の女性たちは、たいてい頭髪にまだら状の濃淡が見られる。それを隠すためにヘンナで頭を染めていることは、誰もが気づいている。我々はたいてい「スファラディ系人種の女性は頭にそういう“模様”ができるものなんだ」と信じ込んでいて、これを疑問にも思わない。この女性は野球帽をかぶっている。一枚の写真を差し出すと、そこには流れるような黒髪が美しい十代の可愛い少女が写っていた。「これ、私なんですよ。治療を受ける前のね。だけど今はこう!」 そう言って帽子を取ると、無惨な瘢痕[はんこん]で頭部にまだら状のハゲができていた。ヘンナの赤い毛染めではもはや隠せないほど酷い状態だった。
この実験の犠牲者は、圧倒的多数がモロッコ系の移民だった。それはイスラエルに移入したスファラディ系民族のうち、モロッコ人が最も多かったからだ。彼らは一世代にわたって丸ごと健康被害を負わせられた。おかげで今やイスラエルの経済的な最底辺の階層となり、もっとも犯罪者が多い集団になってしまった。この状況が改善される見通しは全くない。理不尽ここに極まれりである。実際、フランスに移住したモロッコ人は経済的に豊かな生活を享受し、進学の機会にも恵まれているのだ。移住先がフランスかイスラエルかでこれほどの違いが出た理由として、たいてい持ち出されるのは「フランスは裕福な国だから移民に対しても“そつなく”行なえるからだ」という理屈である。だがフランスに移住したモロッコ人の子弟はだれ一人としてガンマ線[←訳注:X線の間違いではないかと思われる]で脳細胞を焼かれたことなどない、というのが本当の理由だろう。
この番組を見てただちに分かるのは、偶発的なめぐりあわせでかくも大量の児童に放射線照射が行なわれたのではない、ということだ。この事業が実施される40年も前からX線の危険性は知られてきたのである。X線治療の際に医師が遵守すべき注意事項を記した1952年当時の公式指針を読むと、イスラエルでは児童への最大許容線量は0.5ラドだった。間違いが行なわれたわけでは全くない。子どもたちは故意に健康危害を加えられたのだ。
ダヴィッド・デリ氏はスファラディ系の子どもたちだけがX線照射を受けたことをこう告発する──「授業中だったんですが、男たちが突然教室に入ってきて私らを遠足に連れ出したんです。それから私らは名前を聞かれました。ところがアシュケナージ系の子どもらだけ教室に戻るように言われたんです。こうして有色人種の子どもだけがバスに乗せられたんです」。
番組では歴史家が登場し、まず優生学運動の歴史をざっと説明する。その後に、この学者はきっぱりと断言する。「しらくも退治」の名目で行なわれた放射線照射事業は、じつは「イスラエル社会の足手まとい」と見なされた血統集団を根絶やしにするための一種の優生学事業だったのだと。ここで番組はユダヤ社会からのスファラディ系人種排除を主張していることで有名な2人の指導的人物ナフム・ゴルドマンとレヴィ・エシュコルの発言を紹介する。ゴルドマンはホロコーストが行なわれていた当時スイスで生活していた。だがスイスではユダヤ人難民の安全が保障されないことを思い知らされて米国のニューヨークに移住し、そこでサムエル・ブロンフマン率いる世界ユダヤ人会議の指導的立場に就いた。カナダの作家モーデカイ・リチラー氏によれば、ゴルドマンはヨーロッパからのユダヤ人がカナダに移住できないようにするためマッケンジー・キング首相と取引していたという。
だがレヴィ・エシュコルがホロコーストで果たした役割は、「他人の命を救う」などというものでは到底なかった。彼は「他人の命を救う」どころか、むしろ「命を奪う」側の仕事で大忙しだったのだ。イスラエル政府のウェブサイトに掲げられた彼の略歴には、次のような記述が見られる。
「1937年、レヴィ・エシュコルはメコロト水資源会社[=現在のイスラエル国営水道企業]の創設に中心的な役割を果たした。これによりドイツ政府はユダヤ人が僅かばかりの所帯道具を抱えてパレスチナに移住していくのを認める決意を固めたのである。ユダヤ人が移住の際に所持していたのは、主にドイツ製の品物だった」。
1930年代、世界中のユダヤ人社会がナチス・ドイツのボイコットを行なっていた最中に、エルサレムの“ユダヤ機関”[=世界シオニスト機構から拡大して創られた機関でパレスチナへのユダヤ人入植を進めてきた]はヒットラーを支援していた。すなわち彼らは「移送協定」と呼ばれる協定を結んでナチスと取引を行なった。この協定の下で、ナチスはドイツのユダヤ人たちをパレスチナの土地に追い払い、一方、“労働シオニスト組織”はパレスチナに逃れてくるユダヤ人移民に圧力をかけて、彼ら移民の資産でむりやりドイツ製品だけを買わせたのである。そしてエルサレムの“ユダヤ機関”は、自らが欲していたドイツ系ユダヤ人を手に入れると、今度はシャブタイ・ツヴィやヤコブ・フランクが唱えた反ユダヤ主義をひそかに吹き込んで洗脳を行ない、ナチスの関心をヨーロッパ全域のユダヤ人の放逐へと仕向けた。いわゆる「ホロコースト」とは一種の優生学事業だったわけだが、レヴィ・エシュコルはその重要な役割を果たしたわけである。
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★補注
●シャブタイ・ツヴィ(Shabtai Tzvi)──その名は、サッバタイ(Sabbatai)/サッベタイ(Sabbetai)/シャッベサイ(Shabbethai)/シャッベタイ(Shabbetai)・ズビ(Zvi)/ツヴィ(Tavi)とも音訳表記されてきた。1626年7月23日に生まれ1676年9月30日に死去したと伝えられる歴史上有名な自称「メシア」であり、カバリストである。彼は「サッバティアン(Sabbatian)運動」──いわゆる「サッバティアニズム(Sabbatianism)」──を創始したが、これはユダヤ教の教義に近いもので、彼の死後もヨーロッパでの普及が続いた。一方、オスマン帝国ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教の各要素をこね合わせた教義を信奉する「デンメ(Donmeh)派」として存続した。
(デンメ派は17世紀末にギリシア北部の港湾都市サロニカに興った隠れユダヤ教徒の一派で、イスラム教に改宗したユダヤ教徒シャブタイ・ツヴィを救世主として信奉し, イスラム教徒を自称しながらユダヤ教的風習を受け継いだ。デンメ派の信徒はギリシアのサロニカとトルコ西部のイスタンブル、イズミル、エディルネに集中している。)[参考:http://encyclopedia.thefreedictionary.com/Sabbatai%20Zevi]
●ヤコブ・フランク(Jacob Frank)──本名はヤコフ・ベン・ユダー・ライプ・フランコヴィチ(Yakov ben Judah Leib Frankovich)。1726年に(当時はポーランド領、現在はウクライナの)ポデリアにユダヤ教ラビの息子として生まれ、1791年に死去。青年時代に中東を旅し、トルコでは「フランク」の名で呼ばれていた。1755年にポーランドに戻り「フランキスト(Frankist)」というユダヤ教の異端的なセクト運動を興したが、これはシャブタイ・ツヴィの神秘主義思想に感化されたタルムードの教えを否定する教派であった。
その後、彼は神から直接の啓示を得たと言い出すようになり、フランキストの信者たちに“きたるべき救世主の教え”を受け入れるための準備としてキリスト教を信奉するようにと熱心に説くようになる。こうして1759年にフランキスト集団は、ポーランドのルヴォフ(現在はウクライナのルィヴィフ)で“集団洗礼”を受け、当時の社会では奇行として話題になった。だがヤコブ・フランクはキリスト教会から異端勢力であるとの指弾を受け、1760年に投獄された。13年後に釈放されると、彼は自ら“メシア”と名乗って12人の「使徒」を選び出し、オーストリアのブリュン(現在のチェコ共和国のブルノ)に拠点を移し、そこでオーストリア大皇妃マリア・テレジア(1717〜80年)の庇護を獲得した。マリア・テレジアはヤコブ・フランクを“キリスト教の護教論者”として利用したわけである。
1786年にドイツのオッフェンバッハという町に拠点を移し、信者からの寄付で裕福な晩年を過ごした。91年に彼が死ぬと、フランキスト派の実権は娘のエヴァ・フランクに移譲されたが、ほどなくカトリック教会に吸収されてしまった。ヤコブ・フランクは“サッバティアニズム”の存続普及に貢献したが、その党派的な閉鎖性や独善性を改めて、ユダヤ教からの自己脱皮を促した。フランキズムは、オスマン帝国やフランスやアメリカで続発した18世紀の革命運動の思想的な原動力のひとつだったと言われている。[参考:http://www.kheper.net/topics/Kabbalah/Jacob_Frank.htm, http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Frank]
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先ほどのモロッコ人の女性が登場してこう語る──「あれはまさにホロコーストでした。スファラディのホロコーストよ。なのに何故だれも止めようとしなかったのか、私はそれが知りたい」。
ダヴィッド・デリ氏が今度は討論会の一員として登場し、自分の子ども時代の医療記録を入手しようとした際の不愉快な経験を語った。
「私が知りたかったのは、自分が何をされたか、それだけだったんです。あんなことを認可したのは一体だれなのかが知りたかった。当時の指揮命令系統をはっきりさせたかった。ところが厚生省はもうあんたの記録は紛失していて残ってない、というのですからね」。
厚生省のボアズ・レヴ報道官は、番組の中でこう繰り返すばかりだ──「ほとんどすべての記録書類はすでに焼却処分してしまいましたから」。
だったら我々はデリ氏に加勢して当時の指揮命令系統を追及してやろうじゃないか。だがその前に私[=バリー・チャミッシュ]自身の体験を、この番組紹介のなかで紹介しておく必要がある。6年ほど前のことだが、私は4500人もの子どもたちが犠牲になった誘拐事件のことを調査したことがある。これはイスラエル建国直後に起こった事件で、誘拐されたのは大部分がイエメンから移住してきた家庭の赤ん坊や子どもたちだった。私は、誘拐イエメン人児童救援運動で指導的な活躍をしていたウズィ・メシュラム師と“面会”した。当時彼は真相究明の活動に言いがかりをつけられて投獄されていたのだ。その後、彼は釈放された。「植物状態」の廃人となって帰宅したのだった……。メシュラム師はいまだに「植物状態」のまま回復の兆しはない。
まだ健康だった獄中の彼は、私にこう語ってくれた。誘拐された子どもたちはアメリカに移送されて、核実験に用いられ[←原文直訳では「核実験」だが、これが核爆発の被爆被験者として使われたか放射線被曝の被験者として使われたかは、この文章からは不明である]、無惨な最期を遂げたという。アメリカ政府は自国民の人体実験を禁じていたから“人間モルモット”が必要だったわけだ。そこでイスラエル政府は資金や核兵器の極秘技術情報を供与してもらう見返りに、こうした“人間モルモット”をアメリカに提供するという契約を結んだわけである。イスラエルの核兵器開発事業を始動させたのは、当時の国防長官シモン・ペレスに他ならない。
エルサレムのダヴィッド・セヴィリア師からも、この犯罪の確証を得ることができた。そればかりか後に私は、この誘拐事件で生き残った数少ない子どもたちに放射線照射の証拠となる瘢痕[はんこん]が出来ている様子やカゴに入れられた赤ん坊たちがアメリカに陸揚げされている様子を撮った写真まで見ることができた。
ちょうど5年前になるが、私は自分が得た確信をインターネットで発表した。つまりイスラエルを建国した“労働シオニスト組織”はイエメン人や他のスファラディ系の子どもたちをモルモット代わりに使って原子力開発のための生体実験を行ない、何千人もの命を奪った──という確信である。そして3年ほど前には自著『イスラエルを救え!』にもこの確信をはっきりと書いたのだが、当時は荒唐無稽の妄想を書いているといって笑いものにされたものだった。……けれども私は正しかったことが、今や歴然としている。
ドキュメンタリーの話に戻ろう。米国は1940年代に法規制を定めて囚人や精神薄弱者などへの放射線照射実験を禁じてきた、という話が一種の“常識”として伝えられてきた。けれども現実にはアメリカの原子力事業はどこかから人間モルモットを調達してくる必要に迫られ、イスラエル政府がその供給役を担ったわけである。
「しらくも退治」の名の下に残虐行為を指揮した当時のイスラエル政府の大臣は、次の連中だ。
ダヴィッド・ベン=グリオン首相
エリーゼル・カプラン大蔵大臣
レヴィ・エシュコル植民大臣
モーシェ・シャーレット外務大臣
ヨセフ・ブルグ厚生大臣
ゴルダ・メイヤ労働大臣
アモス・ベン=グリオン警察大臣
その他、閣僚ではないが最高位の政府高官としてシモン・ペレス国防長官も、この陰謀に関与していた。
この大規模生体実験事業はアメリカ政府からの数十億ドルの供与金の見返りとして実施されていたわけだが、財政的な困難を抱えて外貨を欲していた建国当時のイスラエルの首相が、この事実を知らなかったとは言わせない。ベン=グリオン首相自身がこの恐るべき事業に関与し、だからこそこの事業への妨害を排除しようとして息子のアモスを警察大臣にまで据えていたことは疑いようがない。
他の共謀者たちについても、ざっと見ておこう。まず財務大臣のエリーゼル・カプラン。この男は大規模生体実験事業で手に入れた利益をじかに扱う立場にあった。その甲斐あってレホヴォト[=イスラエル中部のテルアヴィヴ南東にある地方都市]に自分の名を冠した“記念病院”が立ち、こうして彼の“栄誉”は永久に記憶されることになったほどだ。しかしそのとんでもない“栄誉”に与[くみ]したのはカプランだけではない。“しらくも退治”の事業組織を運営していたのは、人種差別主義に凝り固まったハイム・シェバ医師であったが、彼ものちに自分の名前がついた“記念”総合病院を建ててもらった。地方医師会にひとかけらでも“良識”というものがあるなら、これらの病院名を変えるべきであろう。……言うまでもないことだが。
そしてヨセフ・ブルグ。誘拐イエメン人児童救援運動の指導者たちは、この男こそ彼らの子どもをさらっていった犯罪の最大の下手人だと糾弾している。なるほど彼は厚生大臣として“しらくも退治”児童大量虐殺事件で中心的な役割を確実に果たした。彼の息子アヴラハム・ブルグは父親の立場とは正反対の平和活動家になったわけだが、どうしてそういう劇的な親子対立が起きたかも、これで説明がつこうというものだ。
当時の外務大臣モーシェ・シャーレットも忘れてはならない。この男は1944年にシリアのアレッポでヨエル・ブランド師を逮捕した張本人だが、その理由はブランド師が[当時の第二次大戦下に]ハンガリーで囚われの身となっていた80万人のユダヤ人同胞を救い出そうとして実現可能な方策を提案したから、というものだった。シャーレットはこんな迷言を吐いて有名になった人物だ──「シモン・ペレスの奴が入閣するような事態になったら、私は着ている服を破り捨てて大声を上げて嘆くだろうね」。誘拐イエメン人児童救援運動の何人かの活動家から聞いた話だが、シャーレットはこの迷言を吐いた際に、イエメン人児童の誘拐事件について言及していたという。
ほかにも在野の歴史研究者たちから聞いた話だが、レヴィ・エシュコルは自分がシャブタイ・ツヴィの教義を信奉していると、堂々と宣言したことがあるという。ただし私自身は、この件の真偽について情報の裏付けを得ようと試みたが、そうした発言記録を見つけることがまだ出来ていない。とはいえエシュコルがこの放射線照射実験の当時、まず植民大臣に就き、その後、エリーゼル・カプランの後継として大蔵大臣になったことは周知の事実だ。彼の略歴にはこう書かれている──
「1951年にエシュコル氏は農業開発大臣に任命され、1952〜63年の10年ほどの間に移入民の編入と1956年シナイ戦争という財政的困難を乗り越えながら未曾有の経済成長を実現させた人物として特筆すべき活躍をした。1949〜63年には大蔵大臣を務め、そればかりかユダヤ機関の入植部長も務めた。イスラエル建国当初の4年間はユダヤ機関の収入役として主に祖国の開発や大量に押し寄せる移民の編入事業や軍備に必要な資金獲得の主導役を担った」。
要するにエシュコルはイスラエルに移住してきた人々の最高責任者だった。放射線照射の虐待部屋に移民たちを送り込んだのも彼だが、その責任を負わねばならないのも彼である。
最後に控えしはゴルダ・メイヤ。この女性閣僚が具体的にどんな役割を担ったのか私はまだ解明できていないが、彼女も確実にこの陰謀に加担し、その報酬を得ていたのである。この時期以降、メナヘム・ベギンが首相に就任した1977年までの歴代イスラエル首相たちの顔ぶれを見ればいい。この陰謀仲間たちが順ぐりに首相の椅子を手に入れてきたのだ。さらにもう一つ注目すべきことがある。それは今日言うところの「右派」勢力が、スファラディ系児童のこうした大虐殺に一人として関与していなかったことだ。現時点で判明している事実から次のような歴史の皮肉を知ることができる。すなわちオスロ合意の「平和」を我々イスラエル国民にもたらしたのは、こうした虐殺者たちの末裔に他ならないということ。そしてこうした連中が、いまやユデアやサマリアやガザの入植民を決然たる態度で一掃しようとしていること。その決然さたるや、50年まえに「肌の黒い劣ったユダヤ人」に対して手を下し、彼らスファラディ系ユダヤ人を危機に追い込んだ時の態度と変わっていないのである。
もしあなたが1952年当時、イスラエル政府の閣僚だったなら、イエメン人入植者の赤ん坊たちを最終的には殺す目的でアメリカに送るか、それともここイスラエルの地で殺すかを、論じることになったはずだ。魔王のごとくに傲慢で悪辣きわまるサッバティアニズムにかぶれた我らの建国の父たちが、国の重要な政策課題を論ずべき場所で、そういうろくでもない謀議にうつつを抜かしていたのである。
ドキュメント映像をひととおり放映したのち、番組司会者のダン・マルガリットが今まで見てきた事実について好意的な解釈を試みていた。今しがた見た事実は、いずれにせよやむを得ない事情だったと釈明しようとする態度が丸見えだった。粛々と彼は説明するのである──「でも当時はわが国も貧しかったのです。来る日も来る日も、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです」。だがこれ以上、彼は二の句が継げなかった。スファラディ系ユダヤ人の子どもたちに行なった残虐行為には、もはや釈明の余地がないことを、彼とて心得てはいたのである。
だが番組に出演していたモロッコ人歌手が放った一言が、この経験の重みを何よりも的確に言い表していた──「苦しいことだろうけど真相は明らかにしなきゃだめだ。それができないかぎり、いつまでたっても傷は癒えないのですよ」。
この児童虐殺活動に加わり、真相を知っている人物がただ一人、いまでも生きている。野党の指導者で今ではパレスチナ和平の提唱者のシモン・ペレスだ。真実を明らかにして和解と癒しを生み出すには、シモン・ペレスがイエメン人乳幼児4500人の誘拐やスファラディ系ユダヤ人の青少年10万人以上を対象に行なった大規模放射線被曝活動でどのような役割を担ったのか、彼を捜査することから始めるしか方法はない。
だが現状では、それは到底無理だろう。そもそも『10万人への放射線照射』が放送されたこと自体が奇跡といっていいほどなのだ。だがそれにしても、結局は妥協を強いられたとはいえ、この番組を世に出そうとして闘いが続けられてきた。そしてわが国では昨今一番の視聴率をとっている『スター誕生』と同じ時間帯にぶつけて、その裏番組としてひっそりと放映されたのである。翌日の新聞には『10万人への放射線照射』についての批評記事はただの一言も載らなかった。『スター誕生』で生まれた新人スターの写真は新聞一面の半分ものスペースをとってでかでかと載ったというのに……。
イスラエルではこうして真実が葬られ、こうして誤魔化しのトリックが発動されている。ラビン氏暗殺のときも、これと同じ仕掛けが働いて、真実が闇に葬られた。
けれども十万人かそこらの国民は、この放送を確実に見ていたわけである。彼らはこの事実をけっして忘れないだろう。ラビン氏を暗殺しても“労働シオニズム組織”を永久に葬り去ることができなかった。だが『10万人への放射線照射』には最終的にそれを成し遂げるだけの潜在力がある。
番組紹介記事はここで終わり
「しらくも[=リングウォーム]ホロコースト」の惨害をめぐる事件の概要は、下記の『ハアレツ』記事(2004年7月30日付)で読むことができる。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/458044.html
原文:100,000 Radiaciones - Una Revisi?n
http://www.animalweb.cl/n_o_imperial/zionismo/holocausto_sefardita.htm
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バリー・チャミッシュ
バリー・チャミッシュはイスラエルのジャーナリスト。これまでイスラエル政府の腐敗を、強力な調査力と内部告発の力を借りて数多く行なってきた。
バリー氏は、1971〜75年当時にカナダで3冊の小説と短編集1冊を発表した。その後イスラエルにわたり、ヘブライ大学で修文学修士号を取得し、兵役に就いた。1982年にはレバノン戦争で戦っている。その後は執筆活動に精進し、500本以上の記事を『アトランティック』『ナショナル・レビュー』『ハリウッド・レポーター』『ニューヨーク・ニューズデイ』などに発表した。
だが92年に“物書き”としての彼の人生は予期せぬ転機を迎えた。きっかけは英国のキャノンゲイト出版社から出した『イスラエルの凋落』である。これはイスラエル政界の腐敗を手厳しく暴露した本だったが大好評を博し、やがてジョエル・バイナーマンと共同で『インサイド・イスラエル』というニューズレターを創刊した。当初は政界汚職などを暴露していたが、やがてイスラエルの政治体制そのものが抱えている犯罪性が見えてきた。なにしろイスラエル政府の上層部は“新世界秩序”づくりを画策する勢力、とりわけ外交問題評議会(CFR)に取り込まれていたのだから。こうした事実を知り、彼は政界の闇をさらに深く追及することになり、その成果は2冊の著作『約束の地で暗躍する売国奴と渡り政治屋』『誰がイツハク・ラビンを殺したか?』として発表された。
Barry Chamish E-mail chamish@netvision.net.il
原文:http://www.pushhamburger.com/barry.htm
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(引用終了)