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改革左派と反シオニズム・ホロコースト
再建共産党の日刊紙Liberazioneに掲載された記事をBellaCiaoから訳出・転載します。
参照 反グローバル、ネグリ、マルチチュード
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051220
記事
反セミニズムと左翼 これは愚か者のリヴィジョニズム(BellaCiao)
by Rina Gagliardi 05年11月7日
”左翼の反セミニズム” そのようなものは本当に存在するのだろうか?
まるで恐怖のショアーの後に生まれた者たちに対する不寛容の攻撃のごとく、
鉄槌ふるって繰り返される政治論争は、過激なナチズムとラチズム(人種偏見)
否定の中で育ってきた。 例えばテルアビブ政府のパスダラン(イラン革命
防衛隊 比喩)に対して。またあの政府の政治的・軍事的選択を批判する際に、
「2つの国家と2つの人民」が実現するまでは中東に平和が来ないと繰り返し
ながら精力的にパレスチナ人の人権を擁護している穏健派の知識層の多くは、
じゅうぶんに反ユダヤの偏見をもつ’容疑者’といえる。
ユダヤ人コミュニティーの多くもまた、しばしばこれを容赦なく用いる。
イスラエル政府と指導者クラスのやり方と、イスラエルの存在とユダヤ人が
ステート・ネーションを持つ権利をもはや区別できないかのようだ。 まるで
尋常ではない真実を述べるアハマディジェジャド大統領のホメイニ的な狂気の
ごとく、人類のハルマゲドンが本当に戸口を叩いているかのごとく。
このような雰囲気の中では、おそらく反セミニズムの弾劾は度を越えたもの、
劇的政治状況を超えたアイデンティティの衝突だったのかもしれない。 実際
いまや左翼は裁定にかけられるまでになった。 左翼というだけで、ユダヤ人
への憎悪に巻き込まれ、ゆえに反シオニズムの’烙印’の根源となる。 これは
新しい説ではない。 ”愚か者の社会主義”と意味深いタイトルでさきほど
フランスで出版されたアレクシス・ラクロワの本に再浮上し、改革左派
(Riformista) の熱狂的な批評で迎えられた。
ユダヤ人は、マルクス、プルードン、ジョレスら多くの者によって資本主義・
富裕層・金銭と同一視されていることから、彼らと戦う、いや消滅させる’必要’
が生じる。 またここから、1世紀を経て、左翼はアラブの民やパレスチナ人を
新プロレタリアと同一視し、’当然ながら’イスラエルとその指導者達との対立
が生じる。 結論として、罪は偶発的では全くなく根源的なものだった。 帰結は
明らかに、異論を認めない要求だ。 ユダヤ人であることと左翼であることは
’両立せず’と宣言し、ユダヤ人のアイデンティティと左翼のそれに決定的な
亀裂をつくる。
ラクロワの本(や、Giuliano Ferraraのキャンペーン)のおかげで、キリスト
教の’文明度’に主役をみた数世紀に渡る長く残酷なユダヤ人狩りから逃れんと
する態度、歴史の見直しが想像もつかぬほどの下レベルに達したのは事実だ。
異教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒を無差別に虐殺した信心深い者たちによる
十字軍、ロシア正教徒のツァーによるポグロム、ローマのゲットー、ユダヤ人を
隔離したキリスト教徒の町々からの逃避。
逃避はショアーからだけではない。 おそらく近代史上に留まらぬ人類史上
最大の罪のディテイルは、それがキリスト教欧州で最も文明的な国を中心と
して起きたことだ。 そして彼らの立場に何が残っているか?
ユダヤ人革命主義知識層である ”ユダヤ人問題によせて”を著した若い
マルクスの反セミニズム口調は、家系とアイデンティティとの闘いで生まれた。
左翼とはほとんど関係はないにしても、プルードンのさらに激しい口調。
同列に扱うのは困難であろうが、ユダヤ人のイメージを金貸しで表現した
シェークスピアの反セミニズム口調も燃焼に手を貸した。
しかしラクロワと改革左派(Riformista)は、キリスト教が何世紀も金融商売を
禁じていたばかりか、ユダヤ人にはこれと小さな商売、手仕事しか許されて
いなかったことを知っているではないか? 労働者運動に生を与えたユダヤ人の
根本的な役割を我々は知っているではないか? 彼らは真のシオニズムが何で
あったか、イスラエル国家誕生にキブツの社会主義ユートピズムがどれほど
決め手となったかを知っている。 いずれにしても、理想と共感、文化と歴史的
事実を同一次元に置くのが不条理なのだ。 左翼間の紛糾、左翼とユダヤ的主観、
我々が肩に背負う2世紀は、幸いなことに力強く充実したものであった。 そして
第二次世界大戦の悲劇とナチ・ファシズムとの共通の闘いを通じて強化された。
ここで再び繰り返さねばならないのはばかげたことのようだが、反シオニズムの
理論は、特にシステマチックなユダヤ人殺戮は、右派に属するものだ。
ユダヤ人排除が、イスラムではなくキリスト教思想に属していたように。
いまいちど繰り返さねばならないのは些か行き過ぎのように思えるが、歴史は
プロパガンダの利用による単純化を否定する。 まさに我々があらゆる十字軍的
命令法、あらゆる文明の闘いの呼びかけを否定するように。 巨大な世界的悲劇、
悲劇的国民投票を減じる試みを否定するように。
http://bellaciao.org/it/article.php3?id_article=11034