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先生はワイマール期に主要な関心がおありとはいえ、何回もドイツに滞在されておられ、ドイツの政治に精通されておられます。ところが、ホロコーストに関してはほぼ完黙といって良いほどです。やっと見つけたのが下記です。加藤先生のホームペイジといえばその情報の多彩さと質の高さで知られています。それだけになんとも合点がゆかない思いです。
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以下ホームペイジ、ベルリン日記より。
http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Homef.html
かつて20世紀に共に「勤勉」といわれ、世紀の前半に同盟を組んで世界制覇をもくろみ敗れたドイツと日本、それが世紀の後半で、どうしてこんなにもライフスタイルが違ってしまったんでしょうか? こんな感想を持ったのも、ケルンに飛ぶ直前に、ベルリン郊外ザクセンハウゼンの強制収容所跡を訪ねていたから。1936−45年に、ユダヤ人や反ナチ活動家20万人を収容していた、ホロコースト遺跡です。その入口の標語は、アウシュヴィッツもブーヘンヴァルトも同じで、「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由にする)でした。「労働を通じての人間の自由」──それが死に至る館に掲げられたのは皮肉ですが、ナチスの正式党名は国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)、「労働」は柱の一つでした。事実、ナチ時代のドイツ経済はワイマール期を上回る成長を見せて、後に「ナチズムの近代化効果」という問題になります。ナチスと敵対し、「プロレタリア独裁」を掲げた旧ソ連も同じでした。「労働者こそ主人公」とされ、「労働英雄」をつくるスタハーノフ運動や「土曜労働」奨励、さらには「人民の敵」を鉄道・運河建設に強制動員する「収容所列島」が集権的計画経済にビルトインされていました。猿が人間になるにあたっては「労働の役割」こそ決定的だった、資本主義の「疎外された労働」は社会主義では克服され「労働が喜びになる」というイデオロギーをも伴って。ザクセンハウゼン収容所は、戦後も存続されました。1945年から50年まで、ここは、ソ連軍に占領された旧東独地区であったため、ナチスのユダヤ人収容所が、そのまま旧ソ連に反対したり社会主義・共産主義の批判をした約6万人の「政治犯」を収容し、1万2千人の命を奪ったのです。入口の「ARBEIT MACHT FREI」は、そのまま掲げ続けられました。「労働」は、本当に人間を自由にするのでしょうか? そもそも「労働」は、本当に人間の本質で、不可欠の社会的紐帯なのでしょうか? ナチスのホロコーストと、旧東独社会主義の経験をくぐって、ドイツの民衆は「ナイン(ノー)」という回答を、実践的に見出したように思われます。「滅私奉公」が「天皇」から「会社」へと乗り移り、いまなお「IT革命による(バブル?)景気回復」を夢見る日本とはちがって。