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(回答先: イスラエル政府、ポーランドへの青少年の「巡礼」の内容の変更を検討[Haaretz] 投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 5 月 29 日 22:26:37)
1994年末、現地で、ポーランド人がイスラエルの横柄さを嫌い、修学旅行の群れを不愉快そうに指差すのを、見てきた。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-8.html
『アウシュヴィッツの争点』
(その8)第1部:解放50年式典が分裂した背景
〜「四〇〇万」が「約一五〇万」に訂正されたアウシュヴィッツ記念碑〜
一九九五年一月二六日、『マルコ』廃刊決定の直前に開かれたアウシュヴィッツ現地の解放五〇周年記念式典は、戦後史上はじめてふたつに分裂していた。なぜだろうか。
ポーランドでの記念式典開始の前日、「ポーランド政府の姿勢にユダヤ人協会が反発するなど不協和音も顕在化」(産経95・1・25)しているというベルリン発の報道があった。「ユダヤ人の組織『国際アウシュヴィッツ委員会』のゴールドシュタイン氏が『ワレサ大統領はアウシュヴィッツ虐殺のポーランド化を狙っている』と非難」しているというのだ。
結果として、「二十六日午後、ポーランド政府主催の式典とは別に、ユダヤ人諸団体がアウシュヴィッツ収容所と隣接するビルケナウ収容所跡で独自に式典を開いた」(毎日95・1・27夕)。だが、この記念式典の分裂の意味を深く追及した大手報道は皆無だった。
前年の一九九四年の一二月七日にわたしは、右のユダヤ人諸団体が記念式典を行った場所を訪れていた。元ビルケナウ(アウシュヴィッツ第二キャンプ)収容所は、アウシュヴィッツ博物館があるメインキャンプの跡からは三キロほどはなれている。位置関係は前頁の地図(Web公開では省略。原本p.50)のようになっている。そのビルケナウのだだっ広い収容所跡のいちばん奥に、戦後に建造されたモニュメントとヨーロッパ各国語の記念碑がならんでいる。
写真(1.Web公開では省略。原本p.52)がモニュメントで、写真(2.Web公開では省略。原本p.53)が英語版の記念碑である。碑文の中の「犠牲者」の数は「約一五〇万人」になっている。
「歴史の真実」と題する朝日新聞(94・5・10)のコラムでは、この間の事情を、つぎのような書きだしでつたえていた。
「ポーランド・アウシュヴィッツの元ナチス強制収容所の碑に刻まれた犠牲者の数字が、今年中にも改められる予定である」
これまでの碑文では「ユダヤ人ら四〇〇万人の犠牲者」となっていた。それが「約一五〇万人」にあらためられた理由は、同記事によればつぎのようである。
「数年前にここの収容所博物館のポーランド人研究者が精密な論文を発表した。(中略)結論は『百十万人から、最大でも百五十万人を超えない』だった」
つまり、碑文には論文の数字の上限が採用されたわけである。
現地でわたしは、「大学教授のヴォランティア」と自己紹介する老人の案内役の解説を聞いた。かれが碑文の「約一五〇万人」を知らないはずはないのだが、なぜか、二度もくりかえして「一二〇万人」と説明していた。これも一応、論文の範囲内の数字である。それにしてもさしひき約三〇万人の差は、大きい。
「約一五〇万人」への改訂は、「同博物館を支える国際評議会の決定」だというのだが、なぜ「数年」もかかったのだろうか。
わたしがその後に日本国内でえた耳情報では、つぎのような事情だった。
この「数年」の期間もふくめて四十数回もアウシュヴィッツにかよったという日本の研究者によると、この「数年」にわたってポーランド政府はイスラエルからの厳重な抗議をうけていた。外交関係の断絶にまで発展しかねず、当局の判断はゆれにゆれつづけていたというのが真相らしかった。シオニストの妥協の条件の一部とおもわれるものは、当の朝日新聞の記事にも、つぎのようにあらわれていた。
「『四百万人』には、他の収容所の犠牲者も混じっており、従って六百万人といわれるユダヤ人犠牲者全体には変わりはない、としている」
こうやって当面、「六〇〇万人」を維持する気なのかもしれないが、四〇〇万人から引くことの約一五〇万人、さしひき約二五〇万人の数字の員数不足は、どこの収容所で帳尻を合せるつもりなのだろうか。その説明はどこにもない。
数字いじりだけの説明自体にも、まだまだ疑問があるが、「四〇〇万」と「一五〇万」の相違には、質的な問題がはらまれていると直感すべきだろう。また、基本的には、推定できる「移送者数」から「生存者数」をさしひくという研究の結果なのだから、犠牲者の死因までがすべて明確にされたわけではない。
わたしは、碑文の改訂を自分の目で確認した翌日、八日の午前一〇時、アウシュヴィッツ博物館のインフォメーション窓口で、「収容所博物館のポーランド人研究者」こと、歴史部主任のフランチシェク・ピペル博士に面会を申しいれた。わたしが窓口にさしだした名刺には「フリージャーナル代表」とあるが、実態は、まったくの個人営業のフリーランスである。それでも、すぐに面会の予約ができた。一一時半に元収容所の建物の中にある研究室にきてくれというのだ。わたしはそれを、昼休みまでの三〇分は会ってくれるという意味だと解釈し、焦点をしぼったみじかい質問をいくつか用意した。
ピペルは、わたしが最初にいきなりはなった「ポーランドとイスラエルの外交上の紛争があったと聞くが」という趣旨の直接的な質問にたいして、別によどみもせずに答えた。くわしい内部事情を語りながら、ときおり唇をうえにゆがめ、フランス人がよくやるように、両手のてのひらを広げて肩をすくめてみせた。両国政府の間にはさまったピペルらの「数年」の苦労の表現である。
ピペルによると、数字の問題のかげにあったイスラエルの要求は、犠牲者の中のユダヤ人の比率を九〇%にせよということだった。
ピペルの研究報告は、ドイツ語でA5判二四八ページの本にまとめられている。博物館の売店では、このドイツ語の本と一緒に、B6判六八ページの英語版抄訳を売っていたので、両方とも買った。英語版は帰国の途中で通読した。ドイツ語の方も、めくるだけはめくってみて、写真版になっている原資料の利用状況をたしかめた。概略の判断をいうと、これまでの諸説と移送者名簿などの部分的な原資料を照合しながら、結果として中間的な数字の平均を採用しているようである。何ヵ所かでは、たかい数字とひくい数字を切りすてている。いわゆる「妥当」な数字のだしかたという手法である。この問題について、こういう研究方法が正しいかどうかは、おおいに議論の余地があるところだろう。
[後略]
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