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□ロス疑惑報道の95%はウソだ!三浦和義氏(1)(2) [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1430756/detail
ロス疑惑報道の95%はウソだ!三浦和義氏(1)
【PJニュース 10月08日】− 第1回:ロス疑惑報道のあらまし(全6回)
1984年のロス・保険金殺人疑惑で、妻の一美さん銃撃事件の殺人容疑で起訴されていた三浦和義さんは98年7月、控訴審判決で無罪判決を受けた。当時のすさまじい偏向報道のために、今でも三浦さんを犯人視する人も多い。反論の機会をほとんど得られなかったその三浦さんに、銃撃事件の無罪判決と殴打事件の実刑判決、そしてマスコミから受けた報道被害について聞いた。
事件概要と経緯
1984年1月19日発売の週刊文春で、81年米カリフォルニア州・ロサンゼルス郊外で三浦さんと当時、妻の一美さんが巻き込まれた銃撃事件を、「疑惑の銃弾」という連載記事を始めたのが「ロス疑惑」報道の発端だ。三浦さんが保険金詐欺を目的に一美さんの殺害を企てたという特集記事だった。
この記事をきっかけにマスコミは、三浦さん犯人説を連日連夜報道した。マスコミ報道を受けて、警察は捜査を開始し、三浦さんの知人の矢沢美智子さんが81年ロスのホテルで起きた一美さんへの殴打事件犯行の自供調書を取り、85年に矢沢美智子さんと三浦さんを殺人未遂で逮捕した。起訴された三浦さんは懲役6年、矢沢さんは懲役2年6カ月の判決が言い渡された。
また、88年10月には、三浦さんと大久保美邦さんが銃撃事件の殺人容疑で逮捕、起訴され、第一審の地裁判決では大久保さんは無罪、三浦さんは無期懲役が言い渡された。これに対して三浦さんは控訴し、98年7月東京高裁で逆転無罪判決を受けた。
ロス疑惑報道の95%はウソ:三浦和義さんインタビュー
−ロス疑惑の無罪判決を得て、最初に言いたいことは。
「ぼくに言わせると、ロス疑惑の95%がウソの報道です。そもそもお金に困ってなく、夫婦仲の良好な人間が妻を殺害して保険金を騙し取るなんてありえませんよ。それなのに、ぼくの場合は、『だから、悪質だ』と検察側の主張でした。その論理そのものがどうかしていた」
─マスコミ全体が三浦さんを保険金詐欺の殺人犯視する強い論調だったが、家の購入は約1億5500万円の保険金を当てたのか。
「ぼくは輸入雑貨の会社を経営していて、会社はえらく儲かっていました。月に150万円ほど給与があり、そのうちの65万円を家のローンに当てていました。『保険金で建てた』とマスコミは大騒ぎしていましたけれど、全部ローンです。口座のあった東海銀行で調べれば、簡単に確認できることです」
─当時、月々の保険金の支払額はいくらか。
「毎月支払っていた保険料は2万8000円です。給料の中から毎月40万円を女房に渡していました。酒は飲まないし、ビジネスの交渉ごとで食べたり飲んだり、ときには女の子と遊んだ費用なんかは経費で落としましたが、150万円の給与で何の不自由がなかったのです」
─受け取った保険金は。
「受け取った保険金1億5500万円は、全部娘の名義で株式や国債に変えてしまいました」
─銃弾事件では三浦さんの無罪が確定したが、殴打事件では実刑判決が下った。今も無実を主張しているのか。
「この2つの事件はわずか3カ月しか間がありません。銃弾事件で無罪が証明されたということは、殴打事件でもそのような事実はないと解釈されるべきです。弁護団は2つの事件を同ケースと捉え、現在、再審の申請を準備しています」
─殴打事件の実刑が下った根拠として「三浦さんに頼まれて一美さんを殺害しようとした」という矢沢さんの供述については。
「殴打事件は当時ぼくの知人だった矢沢さんの証言だけが重要視されています。彼女は最初、『一美に保険がかけられていたことを知らなかった』と調書に残しています。また、ぼくが彼女に『レンタカーを借りてホテルに来るようにと指示された』と証言しています。法廷で『あなたは運転免許を持っていないじゃないですか』と問われ彼女は何も答えられなかった。このように彼女の証言は一貫性がなく信ぴょう性に乏しいものばかりです」
─ホテルの部屋で矢沢さんが一美さんに傷を負わせた殴打事件については。
「ぼくは矢沢さんが女の嫉妬で『三浦があなたと別れてわたしと結婚すると約束している』といったようなことを言いながら、一美と口論になったのではないかと想像しています。一美は頭部から血が出る傷を負ったのは事実です。1週間ほどで完治するような軽傷ということで、呼んだ救急車が帰ってしまった。ぼくは怒り、無理を言って日本人医師を呼んでもらって手当てを受けさせた。この事実は何人かの証言で法廷でも認められています」
─頭部の傷跡から矢沢さんに殺害の意志が証明されたのか。
「検証結果は一美の頭部の傷跡は下から上にぶつけられたものと示されています。これも、矢沢さんの『上から下に振り下ろした』という証言と食い違っています。2人がもみ合っているうちに、矢沢さんが一美を突き飛ばした拍子で頭をどこかにぶつけてケガをしたのではないかと。一美は一度その部屋から矢沢さんを残して出ており、もどっているのです。殺そうとしている相手のいる部屋へ誰がもどるでしょうか」
─三浦さんの言うことが正しいとしたら、なぜ矢沢さんはウソの証言をしたと思うか。
「ぼくを苦しめるためならと、矢沢さんは彼女を取り巻いていた人たちに言いくめられたのではないでしょうか。それと、警察でのやりとりで、本人は執行猶予になるというようなことで誘導された。しかし、結果は法廷で実刑判決を下された。ぼくの弁護団は『彼女は愛情があるゆえに、三浦さんを許せないのではないでしょうか』と言っています」【つづく】
パブリック・ジャーナリスト (PJ)コーディネーター 佐藤学【東京都】
この記事に関するお問い合わせ先:public-journalism@livedoor.net
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1431743/detail
ロス疑惑報道の95%はウソだ!三浦和義氏(2)
【PJニュース 10月09日】− ロス疑惑報道の95%はウソだ!(1)からのつづき。
報道被害で、476件の訴訟に。8割は勝訴
─証拠不十分の逆転の無罪判決が出たが、今でも三浦さんを犯人視する人たちに対して、どのように思うか。
「当時、マスコミでは『三浦に対しては、悪いことならでっち上げてもかまわない』『何もなければ、三浦さん』とまで言われていました。マスコミによって作られたイメージと名誉毀損は取り返しようがありません。発言する機会などほとんどないに等しかった」
─当時、マスコミ報道を毎日チェックしていたか。
「当時ぼくは記事を読んでいませんでした。自分に対しての記事なんてどうせウソに決まっているし、読んでもばかばかしいと思っていた。刑事裁判についての資料を弁護士の先生に渡し終わったころから、当時どんな報道があったかを国会図書館や大宅文庫に手紙を書いて5−10枚、コピーを取り始めました」
─どんな印象を。
「あまりにも、でたらめでひどすぎると思いました。刑事弁護で手がいっぱいの弁護士団の先生に相談すると『三浦さんの訴訟は1000件を越すことになるかもしれません。『本人訴訟』でやってみたらいかがですか』とアドバイスを受けた。そのとき初めて『本人訴訟』という、弁護士を立てずに、自分で訴訟を起こすことを知りました」
「東京の書店に40万円ほど送って、『名誉毀損とプライバシーの侵害等のタイトルがついた本を全部送ってください』と頼みました。そうした本を読みながら1年ほど勉強しましたら『これだったら、自分でも出来そうだな』と思い、訴状を書き始めたのです」
─訴訟の数と勝訴率は。
「5年10年たつうちに、自分で起こした訴訟が476件になっていました。そのうちの80%は勝訴です。そのほか、重要な判例になるものや、申請に従って高裁段階で新たな判断が出る可能性のあるものは、弁護士にフォローをお願いしました。5%はぼくの完敗。『三浦さんの名誉感情はわかるけど、名誉毀損には当たらない』というもの。残り15%は時効で法廷に退けられました」
共同通信と裁判対決、共同の謝罪で決着
─三浦さんが起こした大きな訴訟の例を。
「ニュース配信元の共同通信社と、配信先の地方新聞社を相手にした訴訟がそのうちのひとつです。共同通信社と地方新聞社が一緒に訴えられた例は、それまでありませんでした」
「当時、個人の社会的評価が低下するということで名誉毀損が発生した場合、共同通信が地方新聞にニュースを配信しても、地方新聞社には名誉毀損は成立しませんでした。メディアに載らなければ、名誉毀損は成立しないのですから、載せた新聞社にも責任があると僕は考えました」
「その地方新聞に責任があるかどうかについては、東京地裁と東京高裁で、ぼくが勝った割合が約5割。共同通信が勝ったのが約5割。負けた分に関してはお互い最高裁に上告しました」
─共同通信に対してどのように戦い、勝訴したか。
「報道した内容に、真実に足りる相当理由があったかどうか、という報道側の誤信相当性を突きました。共同通信は立証できなかった。そのため、共同は負けることを知っていながら、地方新聞を巻き込むわけにはいかなったのです。なぜなら、お客さんに売った記事に間違いがあって、買ったお客様までもが責任を追及されるとなると、共同通信は立場がない」
─共同通信からの圧力は。
「共同通信は全力を挙げて戦ってきました。あらゆる機会を通して、社内誌や新聞労連の機関紙でも『最高裁は大法廷を開いて慎重に審議すべき』などとさまざまな圧力をかけてきました」
「『2004年の3月19日、最高裁で口頭弁論の開催を開く』ということで、三浦敗訴の分は全件差し戻し、共同敗訴の分は全件上訴棄却。僕の全面勝訴が確定したのです」
─その後の共同通信の対応は。
共同通信の方から途中で「全面和解してください」と言ってきました。ぼくの方も、最高裁で明確の判断が示されているし、ここで和解してもかまわないと。これから、2年3年また時間をかけるより、相手が謝罪してきているので受け入れることにしました。ニュースの配信元とその記事を掲載する新聞社の両方に責任があるという初めての判例となりました」【つづく】
パブリック・ジャーナリスト (PJ)コーディネーター 佐藤学【東京都】
この記事に関するお問い合わせ先:public-journalism@livedoor.net