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ハンセン病:韓国台湾訴訟、25日判決 両手足も家族も奪われた−−小鹿島の療養所
◇長時間労働、けが絶えず
植民地だった韓国と台湾に日本が開設した二つのハンセン病療養所を巡り、強制収容された入所者142人が、隔離政策による被害補償を国に求めた訴訟の判決が25日、東京地裁で言い渡される。入所者たちは「植民地支配下で、職員による暴力など本土の療養所を上回る人権侵害があった」と訴えているが、国は「日本の療養所ではない」との理由で争っている。判決を前に韓国の施設を訪ねた。【江刺正嘉】
朝鮮半島南端にある韓国全羅南道の「小鹿島(ソロクト)」。この小島に朝鮮総督府が1916年、「小鹿島慈恵医院」(現・国立小鹿島病院)を開設した。日本の旧癩(らい)予防法と同じ内容の「朝鮮癩予防令」を公布し、施設を拡張しながら全土の患者を次々と強制収容し、40年には入所者が約6100人に達した。現在は約750人が暮らす。
「この島に強制的に連れて来られ、両手足だけでなく家族まで奪われた。日本はなぜ責任を取らないのか」。原告の朴任淑(パクインスク)さん(79)は強制労働で建設にかかわった島の船着き場に義足で立ち、無念の思いを語った。
朴さんは、慶尚北道の農家で生まれた。5人兄弟姉妹の3番目の二女。9歳でハンセン病を発症し、間もなく日本人の警察官が訪ねてきた。「小鹿島に行けば必ず病気が治る」と何度も勧められ、13歳の秋に入所した。
しかし、療養所とは名ばかり。来る日も来る日も長時間の労働に駆り立てられ「明け方、星を見ながら作業に出かけ、星を見ながら帰った」。施設の拡張工事に使うレンガ作りや、物資を輸送する船着き場の建設など、肉体労働でけがが絶えず、両手の指を失い、両足まで切断した。
作業を怠れば、日本人の職員から棒などで殴られた。入所者の大半はキリスト教徒だったが、神社参拝も強要された。本土と同じように断種・堕胎が結婚の条件とされたが、規律違反者らには、本土でもなかった懲罰としての断種が行われた。
小鹿島に来て66年、朴さんに結婚の経験はない。「病気を治し、帰って結婚する」と考えていたからだ。病気への偏見から、古里には一度も帰っていない。両親は亡くなり、兄弟との連絡も途絶えたまま。帰郷するのは「空の星をつかむような難しいこと」という。
病気で左目の視力を失ったが、右目は見える。「日本政府に謝罪してもらいたい。一度でいいから古里の景色に触れたい」。海の向こうの小島から、朴さんは祈っている。
◇「補償法」対象めぐり対立
01年のハンセン病国賠訴訟判決を受けて施行されたハンセン病補償法。戦前・戦後の時期や国籍、居住地を問わず、一度でも日本の療養所に入所経験があれば補償の対象としているが、その対象者について「国立ハンセン病療養所その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所に入所していた者」と定義しただけだった。具体的な対象施設は関連の厚労相告示に列挙され、全国13の国立ハンセン病療養所や前身の施設、本土復帰前の琉球政府の療養所、私立の療養所などが掲げられているが、韓国、台湾の2施設は記載がない。
国は、ハンセン病国賠訴訟で違憲とされた「らい予防法」(53年制定)によって設置された現在の国立ハンセン病療養所をまず補償の対象とし、その範囲は国立療養所と連続性や代替性のある施設までに限定されるべきで、戦前、日本の統治下にあった地域の施設は含まれないと主張する。
これに対し、韓国の小鹿島病院と、台湾の楽生療養院(台北県新荘市)に強制収容された入所者ら原告側は、補償法制定時の国会審議で、植民地時代の施設について、当時の厚労省幹部が「今後、歴史を検証する中で考えていくべきだ」と答弁したことを挙げ、「補償法はすべての隔離被害者を対象としており、告示は対象施設の例示にすぎない」と反論する。【江刺正嘉】
毎日新聞 2005年10月22日 東京夕刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20051022dde041040073000c.html
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