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http://www.bund.org/interview/20040725-1.htm
聖域なき改革? 道路・ダムのかわりに都市再開発すすめる小泉政権
景観なき画一化都市は精神の拷問にも等しい
法政大学教授 五十嵐敬喜さんに聞く
参院選で有権者の厳しい批判を突きつけられた小泉政権。得意分野であったはずの「無駄な公共事業カット」の裏で、都市再開発が進んでいる。何が起きているのか。公共事業見直しを訴え続けてきた五十嵐敬喜さんに聞いた。 無制限になった超高層ビル建設──最近、超高層オフィスビルやマンションが増えているように感じます。★バブル崩壊後不況が続く経済を立て直さなければいけない、しかし公共事業への批判も強まっている、という中で再開発にターゲットを当てたのが小泉政権です。これは事実上、第2の公共事業です。 小泉政権が発足して間もなく、首相を本部長とする都市再生本部というのが作られます。都市再生本部が進めた政策は、容積率(敷地面積に対する建築物延べ面積の割合)の徹底的緩和、つまり建築基準を事実上無制限にすることでした。中曽根時代にも規制緩和が続きましたが、容積率を600%から700%に、800%から1000%に、という具合に数字による制限を上げていくものでした。しかし小泉は、その制限自体をとっぱらってしまった。企業が持ってくるプロジェクトならば、容積率1500%だろうと2000%だろうと何でもよろしい、と。それまで不十分ながらもあった建築規制をなくすために成立したのが、2002年の「都市再生特別措置法」です。 その結果、現在東京は超高層ラッシュになっています。まずは東京湾岸地域を開発するということで、臨海副都心、幕張メッセ、横浜みなとみらい21を競争させた。しかしキャパシティを遥かに超えた計画をするものだから、うまくいかない。まず幕張メッセが倒れ、みなとみらいが倒れ、臨海副都心も倒れ、ドミノ現象が起きました。フジテレビの新社屋だけを見るといかにも華やかで、計画倒れという実感は湧かないかもしれません。でもモノレールに乗って最終地点まで行ってみてください。茫漠とした死んだままの空間が、半分以上残っています。最近、日産本社移転が話題になったみなとみらい地区も、多くが草地のままです。 それでターゲットは汐留に移った。「汐サイト」と一時騒がれましたが、行ってみると現代の孤独というか、殺伐とした風景が拡がっています。さらに今では東京駅周辺と六本木、品川・大崎まで再開発の波が来ています。それでも収まりません。山手線の各駅ごとにすべて超高層ビルが構想されていて、これから次々とのっぽビルが建つことになっています。当面の利潤を求める企業のやりたい放題、というのが日本の都市計画の現状です。 空室問題、果ては公的資金注入か 一つひとつのきらびやかなビルを見ていると、いかにも日本経済は復活しているように見えます。しかし、現実としてパイはもう増えない。一番期待していたパイは証券会社や金融機関など外国企業の参入でしたが、今は逆に日本から撤退している状態です。日本のマーケットは、海外の金融・保険業界から見ると全く魅力のないものになりつつあるからです。そこで地方のエネルギーを東京に吸い上げることで、辛うじて穴を埋めている。しかし、これもそのうち行き詰まるでしょう。地方の県庁所在地を見てください。商店街がみんなシャッター通りになってしまっている。東京の高層ビル群と好対照です。 2003年問題は実際に発生しているのですが、ほとんど報道されないため、過ぎた危機のような印象を受けるかもしれません。しかし実際には、絶えず大きな緊張関係をはらんでいます。丸の内、品川、大崎、六本木、その他山手線各駅前に建てられている超高層ビルも、やがて空室をカバーしきれなくなります。近い将来、まるごとテナントが入らず不採算となる超高層ビルも出てくるでしょう。オフィスビルだけでなく、東京湾沿い埋め立て地の晴海・豊洲マンションラッシュも、深刻な空室問題を抱えることになる。相互競争の激化はピークに達し、値引き合戦も始まっています。 しかし資本の側は、それを知りながら自転車操業を続けている。ひとつ止めれば倒れてしまうから、とにかく一過性の利益を求めて毎日こぎ続けているのです。その結果生まれる現象については誰も責任をとらない。金融機関にたまった不良債権を国民の税金で埋める、という事態がまた起きることは目に見えています。 ──小泉改革の「公共事業カット」とは全く逆方向ですね。 ★小泉政権というのは言葉を非常に巧く遣います。都市再生本部のプロジェクトには、住民の反対や不採算問題で長期間立ち往生していた大規模公共事業を推進する内容が含まれています。代表的なのは成田空港の2本目の滑走路完成、不採算が確実な神戸新空港、北九州空港、首都圏環状道路の整備などです。また、道路公団民営化は決まったものの、無駄な道路を造り続けるシステムはそのまま残っています。「反道路」のイメージがある小泉政権ですが、実態をよく見れば大規模公共事業のカットなどしようとはしていない。ダムや高速道路などの大型公共事業、とりわけ諫早の干拓事業などは何の意味もない無駄な事業として大きな反対がありますから、少しブレーキをかけるポーズをとっているだけです。 批判の多い大規模公共事業に替わるものとして、小泉はこの都市再生を位置づけています。彼等から見れば、政府財源を使わず民間に自由にやらせるわけだから一石二鳥。しかもビル建設は鉄、ガラス、コンクリートなど基幹産業を動かすことになり、それなりに経済波及効果もあります。一過性的には、いかにも市場が活性化したような幻想を与えることができるわけですね。 こうした裏表を使い分けているものだから、国民の側も幻惑されてしまう。ダメなのはマスコミで、ほとんど高層建築ラッシュ歓迎とさえ言える論調が見られます。回転ドア事故で少し評判が悪くなった六本木の森ビルについても、事故以前は日本経済復活のイメージを大々的に宣伝していました。 土地所有者の自由、制限した欧米──「都市計画」ならぬ「都市破壊」がまかりとおる背景は。 ★日本の都市計画には、欧米と大きく違う点があります。 少し歴史的な説明をすると、フランス革命を頂点とする近代化の流れの中で、封建制──王権もしくは宗教権力者が土地を所有し、そこで働く人々をないがしろにしている体制──を打破するために「土地所有の自由」の概念が登場しました。この概念は近代のひとつのシンボルです ところが近代的都市が発達するにつれて、様々な不都合や利益衝突が起きてくる。それを防止するため、都市計画が必要になってきました。始まりは、イギリスで住宅地域で工場からの汚染が蔓延し、コレラなどの伝染病が流行したことです。衛生の観点から工場と住宅を分離する、いわゆるゾーニング制度が生まれました。さらにはどこに道路をつくり、河川をどう扱うか。こうした計画には、土地所有の自由を制限する必要があります。 典型的には1960年代のヨーロッパ。自動車と人口の都市集中が激しくなり、そこで大きな改革が行われます。土地所有権の中身である「使用・収益・処分」のうち、少なくとも土地使用の仕方について所有者の自由はない、と決めたのです。原則的に土地の所有者には、そこに何を建てるかを決める自由は全くない。当該都市の住民参加で決めたマスタープランの枠内でのみ、建築物を建てることができる。法的には「建築の不自由」と呼ばれます。これは封建制から近代土地所有への移行に次ぐ大変革でした。 こうして60年代に確立した「計画なくして開発なし」という考え方で、各都市の都市計画が進められました。それから40年、私が「美しい都市」と呼ぶものが欧米各国で保障されているのを見ることができます。高層建築はビジネス区域にまとまって建てられ、住宅街や歴史的遺産の残る地域には見られません。静かで平和で美しい都市が欧米各国にあり、全世界から観光客が訪れています。 ところが日本では、近代のシンボル「土地所有の自由」がそのまま絶対的権利として残っているのです。欧米で土地所有権に関する大変革が起きた60年代からすこし遅れて、日本で都市集中が起こります。最初に都市政策を作ったのは田中角栄で、彼のうたい文句は東京一極集中を解消するというものでした。田中角栄の『日本列島改造論』(1972年)や当時の自民党の都市問題対策大綱を見ると「一極集中を排除し国土の均衡な発展を目指す」と書いてある。 一見いいことのように見えますが、これが土建政治と結びついたため、全国津々浦々で公共事業を進めると同時に、ゼネコンの自由な都市開発を野放しにすることになってしまった。欧米が規制をかけた「土地使用の自由」を、日本は無限大に解放したわけです。 その一番の典型が1970年の「容積率」の採用です。例えば住居地域は20メートル、商業地域について31メートルが上限という高さ制限によって、旧銀座などはそれなりに美しい商店街を造っていました。細い路地に入ると柳の木があって、通路の両脇に高さの揃ったお店が並んでいる。そこには歩くことを楽しめるコンパクトな空間が保たれていたのです。しかし高さ制限からボリューム制限へ、建築基準が大きく変わりました。これが超高層時代の夜明けです。以来、全国にとんでもない建物がたくさん建つようになりました。都市空間を自由に使って開発を進めることで、戦後日本の産業資本活性化を図ろうとしたのです。 拍車がかかったのは中曽根康弘首相の時代で、もともと緩かった日本の容積率(ドイツの4〜5倍)をさらに緩和し続けました。当時、日本は圧倒的な対米輸出過剰国で、アメリカから市場開放を迫られました。それでも不十分だというので、再開発活性化によって日本の内需を拡大しようとなった。 そこで中曽根は「アーバン・ルネサンス(都市再生)」を提唱しました。テレビや自動車のような単品商品では、いくら作っても基幹産業まで十分には活性化できない。建築ならば、鉄・コンクリート・ガラスといった基幹産業から畳や電気設備、屋根瓦まで、ずっと広い裾野で活性化できる。それによって産業全体を活性化させよう、というわけです。規制緩和に加えて、旧国鉄用地に代表される国有地を「民活」の名の下にディベロッパーに放出し、税制面でも優遇して大規模開発させた。そこでは住んでいた住民が住宅を奪われる、いわゆる地上げがあちこちで噴出しました。都市は人が住むところではなくなり、まさに商品市場の対象となってしまったのです。 行政の美句に幻惑されない──先の国会では景観法が成立していますが、どう評価されますか。★官僚はそれなりに利口です。今の「都市再生計画」の構造に対しては批判があり、いつまでもごまかしきれないことを官僚は知っている。そこで大きな3つのフェイントをかけています。 ひとつは自然再生推進法。3面張の護岸コンクリートをはずして自然石で埋め直すとか、コンクリートで真っ直ぐにしてしまった釧路川を蛇行させてみる、など公共事業で痛めつけた自然を再生する事業を進めています。これにはゼネコンだけではなくてNPOも市民も参加してください、といっている。 もうひとつは今年に入って成立した景観法。無鉄砲な都市計画の結果、いくらなんでもこの町並みはどうしようもない、となったことに対して「景観も重要ですよ」と言い始めた。実はこれは、都市再生と裏表の関係にあるものです。都市圏では超高層ラッシュですが、地方に超高層を建てたってテナントが入らないのは明かです。そこで都市再生の裏バージョンとして「地域再生事業」を進めている。お城の周りをきれいにする、街頭をおしゃれなデザインにする、ガードレールをカラフルにするなど。そういうプロジェクトを住民の側からたくさん申請してください、お金はどんどん出しますよ、というわけです。 フェイントとは言っても、それ自体は悪いことではありません。しかしゼネコンがダミーのNPO法人を立ち上げて公共事業代わりに参入したり、山を崩して自然石を採ってきて川に入れるといったことが、新たな環境破壊として問題になっています。表面だけで評価せず、実際に行われていることの中身をよく見なければなりません。しかしマスコミの論調は官僚の策略にすっぽりはまってしまって、超高層も賛成、景観法も絶賛といった状態。市民の側から見るとわけが分からない。政府側は非常に巧い具合に第2の公共事業を進めている格好になっています。 ──環境権などは、与党の改憲論にも出てきています。 ★言葉のレベルでは、すでに環境権も景観権も政府ですら使っています。日弁連が最初に環境権を提唱した1973年当時は、政府はにべもない対応、完全な無視という状態でした。それが市民権を得てきたことは、市民側の大きな勝利でもある。 しかし実際のレベルで見ると、行政に巧くパクられているというほかない。「美しい都市をつくる権利」「美しい町創り」など私たちが使い始めた言葉が、国土交通省のホームページにも全部使われています。都市にはカネ儲けの論理だけではなくて、美しさというものも必要だ、という私たちの主張を、行政側も認める格好をとっている。景観法が成立したり、自民党の改憲案に環境権が入っていたりしているのをみると、良い方向に進んでいると錯覚してしまいます。しかしここは環境派市民の踏ん張りドコロ。事実を見てほしいのです。 一度、臨海副都心でも汐留でも品川でも行ってみてください。毎年1000万人以上の日本人が海外に出掛け、各地の建物や都市の風景を見ているわけですから、日本の都市と比べてみてほしい。なにかすごく違うと感じるでしょう。秋田空港とか岡山空港に降りても、あるいは新幹線の各駅前を見ても、何の特色も感じられない。都市計画だけでなく住宅の造り方も含めて、何もかも画一化された。これは精神の拷問とさえ言えると私は思います。文化とか歴史とか、自民党の政治家は最近いろいろと言いますが、歴史や文化を感じられる都市が日本にどれほどあるでしょうか。 「街のすがた」は住民が決める 小泉政権が進める都市再生は、きれいな言葉の裏で毒薬がまかれていく。民間のプロジェクトにも強制収用が適用できるようになりましたし、強制収用の手続きも簡略化されています。かつてよりも政府の権力は強まっていると考えられるのです。 私自身、世田谷区深沢の都立大跡地開発に建設中の超大型マンションと喧嘩している最中ですが、並の手段では倒せません。かつて日照権の問題が注目された時期など、少しは近隣住民とも話をしようという姿勢が見られました。しかし最近は、ディベロッパーの側に譲歩の余地が全くない。相手は長谷川工務店という、銀行から債権免除を出してもらって生き延びている建設会社です。工事しているという実績だけが生き延びる条件になっているから、とにかく工事を続けること以外何も考えられない。建築と住環境をめぐる裁判はたくさんありますが、裁判所も住民の側にはたたない。ひとつだけ、国立市で景観を壊す高いマンションを弾劾した画期的な判決がありましたが、全体的には住民側はほとんど勝てないのが現状です。 環境権や静穏権、景観権といった言葉をいくら乱発して行政に突きつけても、もはや政府も言っている言葉だから相打ちになってしまい、なかなか実を結びにくくなっています。まずは市町村のレベルで、住民の側が「町のすがた」に関する意志決定システムを手に入れていかなければなりません。どのような町作りをするかは、本来そこに住んでいる住民が決めることです。各地それぞれ独自のアイディアと文化をもつ都市を創るために、政府と喧嘩してでも新しい条例づくりを進めていく必要があります。 中央政府となると話が大変ですが、市町村レベルならば住民が頑張れば変化させることも可能でしょう。そこから手をつけていかなければ、、私たちの住環境を守ることはできないと思います。