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ゼネコン問題とも掛け合わせて考えながら読んでください。
http://www.kangaerukai.com/shinopo2001terao.htm
ただいまご紹介に与かりました寺尾でございます。時間の関係もございますので、私も大方先生のように少し飛ばしてお話をしたいと思います。
私がこういうテーマに関心を持つようになりましたのも、もうだいぶ前からのことなんです。20年くらい前に、初めて外国に留学する機会があって、アメリカのハーバードだったんですけれども、そこに2年間住んで日本に帰ってきましたら、カルチャーショックを受けてしまったのです。外国に行くとカルチャーショックを受けるわけですが、外国でしばらく暮らすと、そこに住んでいることで当然だと思っていることが当然と思って帰ってきますので、自分の国に帰ってくると、またそこでカルチャーショックを受けるというわけです。
私がカルチャーショックを受けましたのは、日本では人間の基本的なところを、衣・食・住といいますが、もう20年も前だったのですが、着る物はアメリカに負けていない、食べる物もアメリカには負けていない、むしろ日本のほうが上かなとさえ思ったくらいなんですが、“住”―住むところだけはどうしようもなく、日本は惨めだなとしみじみ思いました。
また、その後結婚して子どもを育てながら仕事を続けたのですが、子どもが小さいとき、特に日本の住環境はひどいと思いました。子どもを安全に豊かに育てたいという視点からすると、まったくなっていないんです。まあ、国立はすばらしい街並みだと思いますけれども、私の住んでいるようなところは、子どもと一緒に買い物に行くときなどに通るような通りというのは、すごく狭くて、車も通っていて自転車も通っていて、そんなところを小さな子どもの手を引いて通らなければならない。歩道というのはなくて、ただ道路に白い線を引いて、車道と歩道を分けているだけのそういうところを歩いていかなくてはならないわけです。子どもって、ちょっと大きくなると、親の手を払って行こうとしますけれども、「だめよ。ちゃんと手をつないでなくっちゃ」としょっちゅう叱りながら、あるいは自分でトットと行くようなことがあると、いつも、「車に気をつけて」と叫び続けながら子育てをしなくてはいけない。なんという国だと思ったわけです。
今日は、都市計画、あるいは土地利用についての法の話をしに参ったわけですが、私がこの分野で仕事をしておりまして発見しましたことは、日本の都市計画の問題というのは、土地所有といいますか、所有権というのが非常に強いということです。先ほど大方先生のお話の中に「そもそも、ぶかぶかの服で始まったので後からきつくすることが大変だ。」とありまして、「ああ、なるほどなあ」と思ったわけですが、そのように非常に土地所有が強く保護されております。つまり、「私(わたくし)」というのがすごく強いんですね。それが日本の都市計画といいますか、「よいまち」を作っていくうえで、大きな障害になっているということは、その分野の行政に携わっていらっしゃる方も、都市計画の方面でいろいろなさっておられる学者の方々も、あるいは法律の分野でこの問題に携わっている方々も、みな共通に持っている認識のようでございます。ただ、それがどのくらい国民レベルの認識になっているかいうところでは、むしろ皆さんにお伺いしたいと思うのです。とにかく、私的な土地所有というのが強く存在しておりまして、その反作用として、公共的な制限、あるいは介入が非常に弱くなっているというのが、日本の土地の在り方だと思います。
では、どうしてこのようなことになったのか、あるいはどうしてこのようになっているのか、これは大きな問題です。ある先生は、こういうふうに説明するんですね。「日本あるいはアジアというのは、混沌が好きである」と。「アジアの小都市に行くと、大体皆そうである。ヨーロッパ的なものと対比するところのアジアたるものというのは、このカオス(chaos)がよいのだと日本人が思っているから、こんなふうにしているんだ」というわけです。
しかし、例えばこのすばらしい街並みである国立は、おそらく不動産価格がとても高いだろうと思います。それは何を意味しているのかといえば、日本人が皆このようなよい街並に住んでみたいと思っているからなのです。だから業者はここにマンションを建てて売ろうとするわけです。すなわち「日本人が混沌とした街並みが好きだと思っている」ということにはならないのだと私は思うのです。
そうすると、どうしてなのか。経済学者の先生の話なんですが、その先生が北欧の美術係の大学で講演なさったとき、学生から手が挙がって、「日本という国は、美術品にしろ、あるいは工芸品にしろ、あんなに美しいものを作るのに、日本の街並みはなぜあんなにヒドイのか。」という質問を受けて絶句したそうです。
それはどういうことなのかと私なりに考えてみますと、日本人は一人で作れるもの、あるいは自分の身内と一緒に作れるものについてはすばらしいものを作る。会社で作るものも身内の拡大と考えれば同じことがいえるわけです。ところが、市民が一人一人横に繋がって、そういう意味で皆で作るというところにおいては、欠けているというか、非常に未熟といいますか、あるいは昔あったものがなくなったというのかもしれませんが、そんな部分がどうもあるのではないかなと思うのです。
先ほどの行政訴訟の問題を云々という話に移ってくるのですが、それはどういうことかといいますと、私は最近、英語でいうと“public”“private”という言葉は、―日本では普通「公(おおやけ)」、「私(わたくし)」と訳されていますがー、日本における「公」「私」と、外国―例えば私の知っておりますアメリカにおける“public”“private”とは、ずいぶん違うんじゃないかということに関心を持っております。そして、この違いを我々は十分に認識するということが日本の土地の問題、あるいは都市計画、まちづくりの問題を解決するうえで、非常に大事ではないかなあとこの頃勝手に思っているのです。
それで、次はそのことをお話させて頂きます。先ほど、白井先生が、行政訴訟については日本には大きな問題がある、つまり市民が訴訟という手段を通じて行政をコントロールしていくというルートが、非常にいろいろな問題を抱えているんだというお話をなさったと思いますが、そのことと、これからお話する“public”と「公」の違い、あるいは“private”と「私」の違いというのは関係があるように私は理解しております。ちょっとその点についてお話をしたいのですが、私はアメリカ英米法というのをやっております関係から、しょっちゅう英語でものを読むんですね。特に商売柄、裁判所の判例といいますか、裁判所の意見を読むわけですが、そしてそれを日本に紹介するときに翻訳というのをするのですが、その時、「あれえ、困ったなあ。」と思ったのが、この“public”という言葉であります。“public”というのは形容詞ですが、これに“the”を付けると“the public”というふうになります。形容詞に“the”を付けると名詞になるということは、皆さん受験英語かどこかで聞かれたと思いますが―それを思い出して頂きたいのですが、“the public”というと「publicなるもの」ということになるんですね。これは、アメリカではしばしば人々を指す言葉として使われます。したがって翻訳しようとすると、「公衆」という言葉になるんですね。
ところが、日本語では、この「公衆」というふうに“the public”を訳すと、ずいぶん違うんじゃないかというのが私の感じでありまして、いつも“the public”が「人々」という意味で使われているときに、それを「公衆」と訳すことに非常に抵抗を覚えておりました。しかし他にいい言葉がないので、そのように訳してきたのですけれども、どうしてかというと、日本語のなかの「公衆」という言葉はすごく惨めな使われ方をしているからなのです。どのように惨めかというと、まず「公衆」という言葉が主語になっている文章というのに、翻訳文でない限り、お目にかかったことがないのです。それから、それが目的語になっている言葉すらないんですね。あるのは「公衆便所」「公衆電話」「公衆衛生」なんていう行政の業界用語でおしまいです。“the public”というのが主人になってものをいう、あるいは「公衆」というのが行政の働きかける客体として、しかし、市民のほうにこそpublic性があるんだと認識されることがないために、こういうことが起きているのではないかなと私は思います。
アメリカでの判例を読んでいますと、しばしば出てくるのが、“the public”というのはそういう意味で、主権者であるところの人々、あるいは市民であるところの人々なのであって、政府というのはその代理人だと、“agent”であると。ですからagentは“the public”のことを常に考えて行動しなければいけないのです。本人であるところの“the public”から「publicであるということを許されている存在」として政府があるわけですから、そのことを十分に自覚して行動せよ、ということでアメリカでは行政訴訟というのはたくさんあるわけです。市民が政府のやっていることが、自分たちの認識していることと違うことをしているのではないか、というのをチェックできるのが当たり前、それからいろんな情報を公開するのも当たり前ということでずっとやってきているわけです。
しかし、日本の「公」というのはどうもそういうものではなかったようであります。そのことをよく示している言葉、つまり“public”という言葉、「公」という言葉が一部重なっていて、それをその通り訳しても、それで意味が通じることはあるわけですが、逆に全然通じない、逆の意味にすらなってしまう例というのをちょっとご紹介します。
日本語で「公用車」という言葉があります。「公用車」という言葉を直訳すると“car for public use”。これは英語では、「誰もが乗れる車」という意味なのです。ところが日本では、「誰もが乗れない車」が「公用車」なのであります。しかし日本人は、それを「公用車」と呼んでそれを全然おかしくないと思っているわけです。
皆さん、アメリカ系のファミリーレストランに行くと、廊下などに“private”と書いてあるドアがありますね。あれはお店の人が使っている空間だから、お客様には開かれていませんよ、という意味なんですね。つまり“public”というのはその逆で、皆が使ってよいもの、皆が入ってよいところ、それが“public”なのであります。ところが日本では「公用車」というのはそういうものではなくて、時々黒い旗を立てて走っていたりします。そういう車を(公用車と)呼んでいるわけです。
時間の関係もありますので、どうしてそうなってしまったかというところは飛ばしますけれども、日本では「公」というのは、ずっと「お上」が独占してきました。つまり「官」が独占してきたわけです。そして日本では、「官」は「民」のことを「私」といって、私的な利益を主張するようなことには耳を傾けなくて、「公」だけを考えて行政をしていればいい。しかし、そのときの「公」というのは、「市民」とはずいぶんかけ離れたところにある「公」なんですね。そのことが日本の地方自治的な構造、地方自治が非常に貧しかったということと結びついていると思います。
これからの話ということになりますが、日本において私たちが望んでいるような、皆でまちを作っていけるような仕組みを育てていく、そのことによって、子どもたちに今よりはよい「まち」を、親として残していけるようになるためには、この問題を解決しなければなりません。この問題を解決するのにとても大事なのは、地方分権だと思います。今まで、例えばこの国立というまちを守るうえで、必要というか有効な法的な制限をビシッとできなかったのは、日本に地方分権がなかったからなんですね。ですから、住民たちがいくら言っても、条例でそこまで決められない、できないというような解釈がありましたが、それは最近の地方分権法で変わりましたので、先ほどの大方先生ではありませんが、市民がやる気になれば、前よりできることがすごく増えました。しかし、問題は多くの市民はまだそのことに気がついていないし、そもそも日本人の多くは市民としての自覚を持つ機会が非常に少ないと思います。
そこで、市民とは何か、ということになろうかと思いますが、例えば、私がこういう話をしますと、自治体からきている職員の人とか、大学院の学生さん達がおっしゃるには、「そういう問題が起きたとき、『地区計画というものがあるから自分たちでなさったらどうですか』と言うと、普通はそれで帰ってしまう。つまり自治体、市役所のほうにマンション反対って来るけれども、球を打ち返されると、もうそれで『それはお上のやること』として住民が自分たちでしようとしない」という話ですから、「不甲斐ない日本の市民」というイメージを多くの自治体側の職員さんは持っておられるようです。
もっといえば、日本の地方自治体というのは、不甲斐なくてやってきたわけで、今度の地方分権で分権を喜んだ自治体というのは、すごく元気のある、やる気のある自治体なんですね。ところがやる気のない自治体は、今までは住民から文句を言われると、「上からそう言われているから仕方ありません」と言えていたことが言えなくなるので、かえって困ると言う声があったくらいです。やはり、そういったところから変えていかないと、日本の民主主義というか、日本の政治というのはよくならないと思います。
皆さんのやっておられることというのは、そういう意味ですごく広がりのあることで、単なる明和のマンションがどうかというところだけでなく、もっと普遍的なところに繋がっていく話だと、あるいはご活動でいらっしゃると思います。特に、先ほど、小さな将来の大人になる国立市民のお子さん二人が…という場面があって私は非常に感動したのですが、私たち大人は子どもたちに対して責任があると思うのです。日本の民主主義をより育てて、しっかりとしたものに鍛え上げていくために、皆さんがやっていらっしゃる活動というのは、非常に有意義な意味のある活動であろうかと思います。当面のことで終わってしまわないで、それを広げていかれること、つまり「自分たちがおかしいと思うことがなぜまかり通るのか」ということを突き詰めて、そしてその和を広げて考えていかれることを、私も「市民」の一人として強く希望する次第でございます。
そろそろ時間なんですが、先ほど、事務局長の方が時代劇の悪代官の話をなさいましたが、それに引っ掛けて、ひとつ話をしたいと思います。日本のヒットする番組の中に「水戸黄門」という番組がありますね。「水戸黄門」で葵(のご紋)の印籠が出てくると、皆が「へへえ〜」といって恐れ入ると。あれが日本ではやっているうちは、日本はよくならないと私は思います。つまり葵の印籠を持っている人が、たまたまよい人であればそれで正しいこと、つまり“justice”が行われて、そうでなければ“justice”は行われない、―そんな頼りのない話はないわけであります。
アメリカは自由とか権利とかということをいう国でありながら、アメリカのまちのほうが、環境権とか景観権といわなくても、ずっとすばらしい「まち」になっているんですね。それは市民たちが、自分たちで自分たちのまちをどうするか、ということを下のレベルから必ず決めるからです。ですから、先ほどの話でいえば、用途地域の変更があるとそのプロセスに市民が必ず噛むんですね。市民の了解なくそんなことできないようになっているのです。そこがすごく違うわけで、つまり、市民たちは、ある意味自分たちの自由を縛ることで、よりよい環境、または現在のよい環境に住み続けることができるのです。自由というのを確保できる仕組みっていうのが地方自治なんですね。ですから、日本人が「お上」を自分たちの自由を縛るものだと捉えている限り、自由はなるべく多いほうがよいんだから制限は嫌だ、というふうになるわけです。
しかし、そういった「嫌だ」という自由、あるいは「入ってこないで」という自由は、ちょっと自閉的な自由でありまして、ブロック塀を立てて、自分の庭の中はいくらでもきれいにするけれども、ブロック塀の外は知らない、という自由にしか過ぎないわけです。それをブロック塀を取り壊して垣根にして“public space”を市民と、あるいは周りの人たちと共同で作り上げていくという動きになっていかないと「いいまち」というのは生まれてこないだろうと思います
アメリカ人たちがそのようにやっている基盤には、自分たちのまちは自分たちで作っていくんだという自立した、自分の足で立って行動する市民たちというのがあってこそ、そのことがありますから、皆さん方のやっていらっしゃるご活動というのは、そういうアメリカ人達の姿とダブって私には感じられまして、非常に感銘を受けた次第でございます。
そういうことで「がんばってください」というのが最後の言葉なんですが、ちょっとまとまりがつきませんでしたけれど、これで終わりにさせて頂きます。