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最近でも、りそな銀行に対する公的資金注入──とはいっても無償供与(贈与)ではなく株式買い上げ(投資)です──がいろいろ議論されています。これには複数の政策目標がありますが、最大の目的は中小企業経営者の救済による社会不安の沈静化です。
不良銀行を潰して債権整理をする場合、不良銀行から借金をしていた経営者は他の銀行に借り換えなければなりません。でも、不良銀行から借金をした当初に比べて経営環境は悪化し、銀行の審査も厳しくなっていて、借り換えは簡単じゃなく、多くは倒産します。
倒産すれば、例外なく個人保証に入っている中小企業経営者は、預金や債権や家や土地を巻き上げられ、路頭に迷うことでしょう。それどころか、倒産を防ぐべく、また個人保証分を補填して家族に迷惑をかけないように、保険金目当てで自殺する人も出てきます。
中小企業の倒産をめぐる波及効果は、計り知れないほど大きいんです。でも、ここで考えていただきたいことがある。なぜ波及効果がかくも大きいのかということです。他の国ではこれほど大きくないのに。理由は、日本の金融機関が、非常に特殊なものだからです。
どこが特殊なのでしょうか。今の話に直接関わる範囲でいえば、中小企業経営者が個人保証に入っている点が特殊です。会社の負債を、経営者個人が補填しなければいけない無限責任が特殊です。他の先進国は有限責任で、無限責任制度は反社会的だとされています。
では、なんでこんな反社会的な制度がまかり通っているのか。それを知るには、戦後の金融機関の歴史を振り返る必要があります。戦後の銀行は、敗戦直後から始まる傾斜生産方式を出発点としています。傾斜生産方式の言葉は教科書で見たことがあるでしょう。
●傾斜生産方式と護送船団方式
戦後は戦後復興が課題でした。でも資本と労働力が圧倒的に不足していた。だから資本と労働力を基幹産業に重点的に配分する必要がありました。労働力については、欧州が移民労働力を頼ったのに対して、日本は農村から都市に労働力を軒並み引っこ抜きました。
資本については傾斜生産方式です。まず、勝手に起債することを禁じ、企業が運転資金を得ようとすれば、銀行からお金を借りる以外にあり得ないようにしました。これを「間接金融制度」と言います。これだけでも国際的に非常に特殊なあり方です。
加えて、債権については国が全体の起債枠を決め、枠内で石炭産業と鉄鋼産業と電力その他一部の基幹産業に重点的に(=傾斜をつけて)配分しました。流通産業などは一切配分されませんでした。これが傾斜生産方式です。
間接金融制度も同じように機能しました。銀行を自由に設立できないようにして、数少ない銀行を国(大蔵省の役人)が徹底的にコントロールする。その枠内で大企業にお金が貸し付けられ、傘下の中小企業にお金が回るようにする。「護送船団方式」と言います。
傾斜生産方式も間接金融制度も護送船団方式も、他の先進国にはあり得ない制度です。非常に特殊です。この特殊さゆえに、日本の銀行は、諸外国の銀行と違って与信能力ありません。信用創造能力とも言いますけど、それがないわけです。
他国の銀行であれば、僕が会社を起こそうとすれば、どんなアイディアを持つのか、大量の書類を提出させて厳密に審査する。銀行で足りなければ、傘下のシンクタンクに分析させて、宮台という人間に金を貸す意味があるかどうかを評価させるわけです。
ローリスクならば融資するのは日本と同じですが、日本ではあり得ないのは、ハイリスク・ハイリターンであれば支店長決済で融資することです。もしその会社が成長著しければ、支店長はバイス・ブレジデントになる。これが銀行の世界標準システムです。
日本ではもともとアイディアに対してお金を貸してはいけないことになっていました。それが政府の政策でした。お金は既知の分野の既知の企業に傾斜的に配分されなければならず、例外はもともと資産のある奴にだけ貸す場合だけ。これが「土地担保主義」です。
こうしておけば、余計の分野の起業は抑制できます。アイディア勝負の新規参入業者は基本的には金を持っていませんから。あるのはアイディアだけという奴には資本も労働力も回さない。アイディア勝負の新規参入が可能なのは、既に成功して担保を持つ奴だけ。いずれにしても、銀行は一切のリスクを追わなくていいというやり方です。
●金融システムと記者クラブ制度の相似形
このシステムがもたなくなっていることはかなり前からわかっていました。しかし金融利権は七一年の田中角栄の登場まではもともと自民党保守本流。当然手を突っ込まない。田中角栄以降の、地方に金とコンクリをぶち込む図式も、護送船団方式をそのまま使いましたから、当然手を突っ込まない。それで回ってきたわけです。
構造改革という概念は行政にも財政にも使われますが、コアは産業構造改革です。国際競争力のない時代遅れの図体の大きい産業には退出してもらい、身軽でアイディア勝負の新規参入を促すということです。そういう観点で見ると、日本には実は銀行が存在しない。
日本にあるのは、競争力のない時代遅れの図体の大きな産業に、信用実績があるという理由で無担保融資する金貸屋と、アイディア勝負の身軽な新規参入者に、実績と担保がないという理由で無限責任で個人補償に入らせる金貸屋だけ。信用創造する契機は皆無です。
構造改革か景気回復かなどと不良債権の処理スキームばかり話していますが、いま申し上げたような本質的な議論はまったくなされていません。たぶん、みなさんもご存じないのではないかと思います。
この制度は昔からあったわけではありません。傾斜生産方式と護送船団方式は、別名「官製談合システム」とも言い、社会学者はこれを「世界最高の社会主義的システム」「市場を利用した社会主義のシステム」として、皮肉ではなく評価してきました。
戦時体制を除くとかつてはありえなかったことですが、役人が、資本と人の配分を全面的に決定し、役人の決めた枠内で各人が創意工夫して競争してくださいという、戦後復興に向けた非常に効率的な「市場社会主義」のシステムだったわけです。
それがあまりにもうまくいった。でも「失敗は成功のもと」の逆で、「成功は失敗のもと」。社会環境や経済環境が変われば今までのシステムでは通用しなくなり、新しいシステムが必要になったときに、新しいシステム構築に必要なリスクテイカーを支援できない。
官僚が根幹をコントロールし、国民に文句を言わせないという点では、戦後のメディア政策も金融政策も同じです。記者クラブ制度と護送船団方式は、抽象的に見た場合にアーキテクチャーが相似形です。
他の先進国ではあり得ないこうしたシステムが存在するのは、基本的に、日本型社会主義システムの貫徹が長らく成功を収めてきているからです。そこに巨大な権益がへばりついていて、新しい環境に対応してシステムを再構築しようにも、どうにもならないのです。
●成熟社会下における人材枯渇
国民にものを考えさせ過ぎてはいけない。ものを考えるのは基本的には役人で、役人が決めた大目標を効率的に遂行してもらうために国民がいる。そういう従順で勤勉で器用な国民を養成するために近代学校教育のシステムを機能させる。
日本の戦後復興、ひいては明治維新以降の近代化は、こうした戦略によって進められてきました。従順さ・勤勉さ・器用さは「与えられた課題を一斉に素早く達成する度合」によって計られ、そこに向けた訓練がなされてきました。
従順さ・勤勉さ、器用さは兵隊さんに求められるものと同じです。兵隊さんには更に勇敢さが加わるけれど。そこで、軍事教練のプログラムを流用する形で「号令一下、規律正しく集合的身体行動をとる」ための訓練が反復されてきました。それが、一斉カリキュラムや一斉体育に象徴される、いまでは日本独特の学校教育です。
いまでは、と言いましたが、こうした近代学校教育は、もともとは日本以外の後発近代化国や旧連合国の一部でも採用されていました。すなわち、第二次産業中心の富国強兵段階の──近代過渡期の──近代国家は、基本的にこういうシステムをとるのです。
しかし、こうした国々でも近代過渡期が終わりました。第三次産業中心のグローバリゼーション段階の──近代成熟期の──近代国家では、役人が物事を決め、思考停止的な国民が従順についていくのでは、国際的に生き残れなくなりました。
経済のみならず、政治も同じです。システムが複雑になり、中央が一手に決定を掌握するのでは、決定キャパシティが不足し始めます。企業システムなら、末端まで小回りの利く創意工夫が必要になり、行政システムなら、地方分権化やNPO(非営利組織)化が必要になります。
このことは、近代過渡期に続く近代成熟期──成熟社会──にとって、どんな学校教育システムが要求されるのかを既に示しています。周りが何を言おうが従来の制度がどうあろうが、思考停止に陷らずに自力で考えてそれをコミュニケートする国民が必要なのです。
そこで、日本以外の先進各国は、近代成熟期を迎えた七〇年代に、教育システムの抜本的改革を進めました。従順な工場労働者や思考停止の小役人を養成する時代は終わったというわけです。社会の変化にともない、学校に対する要求も変化してきたという自覚です。
それなのに、日本だけが社会の変化に反応せず、従順な工場労働者や思考停止型の小役人を養成するタイプの教育を、今に至るまで続けてきているわけです。かくして政治家にも役人にも経済人にも、成熟社会を生き残るのに必要な人材が枯渇する状態になりました。
●なぜ今エリート教育が必要か
世代的人材分布を考えれば、今後二、三十年間は、人材の枯渇に苦しむことが、既にはっきりしています。僕がいろいろな場所で「エリート教育が非常に重要だ」と言っている意味も、そこからわかっていただけると思うんです。
これから訪れる「空白の三十年」を短縮するのは難しいです。二十年前には既に教育システムを変えた先進国に比べて大きなハンデがあるのに、他国の国民に勝る「思考停止に陥らない国民」を育てなければいけないからです。
メディア・リテラシーで言えば、メディア・リテラシーを持つ国民を育てるには時間がかかります。どうしても代替わりを待たなければいけない部分があります。代替わりには時間がかかります。
ならばせめて、上級官僚になる人間の政策立案能力や、メディア発信者側に回る人間の情報発信能力を上昇させる必要があります。それがなければ、代替わりによる変化さえ望めなくなります。それが僕なりのエリート教育論の根拠です。
エリートについてもう一つつけ加えます。日本でエリートっていうとどんな人物が想像されますか。せいぜい官僚エリートか財界エリートではないでしょうか。でも、そういう先進国は日本だけなのです。
ところが日本以外の先進国では、ガバメント(政府)セクターや、エスタブリッシュメント(体制)セクターのエリートとは別に、もう一つのエリートが存在します。それが、市民エリートというポジションです。
市民エリートとは、NGO(非政府組織)やNPOのリーダーのことです。アメリカでは、ハーバード大やMIT(マサチューセッツ工科大学)を首席で卒業した奴が、政府セクターに行くのか市民セクターに行くのかが毎年話題になります。
アメリカにはポリティカル・アポインティー制度、すなわち政権交替にともなって指定職以上の大規模な人事異動が行われる猟官制があります。このため、政府セクターにいる人間が政権交代で市民セクターに移動し、NPOやNGOのリーダーになったりする。
アメリカに限らず、日本以外の先進国では普通にあることです。イギリスは議員内閣制ですが、日本とは違ってポリティカル・アポインティーが機能しています。だから同じようなことが起こるようになっています。
難しいことを言っていると思われるかもしれないけど、簡単なことです。例えば、変な法律を通そうとしている政治家や役人がいるとします。そのときに「おかしいだろ、その法律は。こう直せ」と、瞬時に言える能力がある連中がいないとダメだってことです。
日本にはそういう人がいますか。何かというと「絶対反対!」を叫んで国会周辺でデモをする思考停止的な左翼は溢れています。でもそれで政策を動かせますか。議員も役人も「きょうは道が混んでるね。えっ、デモなの?忙しいのに困ったな」といった調子です。
「絶対反対」にはたいてい実りがありません。「条件付き反対」=「条件付き賛成」でなければ有効な政策変更はできません。「絶対反対」を言うと、反対勢力は少数ですから、無修正で原案が通ります。むしろロビイングして、法案を逐条的に変えてもらうのがいい。