★阿修羅♪ > 原発 劣化ウラン フッ素3 > 276.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
Yahoo!ニュースからhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050930-00000066-mai-sociより引用
<JCO臨界事故>「無知が原因だった」 唯ーの生存者語る
茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所で99年に起きた国内初の臨界事故から、30日で丸6年。「スペシャルクルー」として現場で被ばくして入院した3人の一人、横川豊さん(60)が、毎日新聞の単独インタビューに応じ、事故の状況や当時の心境を語った。【須田桃子】
「バシッ」。99年9月30日午前10時35分ごろ、JCOの転換試験棟。デスク作業を始めようとしていた横川さんは、薄い壁1枚を隔てた部屋から鋭い音を聞いた。同時に開けていたドアが青白く光り、臨界警報が鳴った。隣の部屋では同僚の篠原理人さん(当時39歳)、大内久さん(同35歳)が沈殿槽にバケツでウラン溶液を入れる混合作業中だった。
臨界が起きると青い光と音が出ることは知っていたので「もう助からないな」と思った。横川さんは部屋から出てきた篠原さんと大内さんに「臨界だ。すぐ外に出ろ」と叫んだ。
千葉市の放射線医学総合研究所に運ばれて間もなく、隣り合ったベッドの上で大内さんと言葉を交わした。「久、頑張れよ」「横さんも」。それが最後の会話になった。99年12月に大内さん、翌年4月には篠原さんが亡くなった。「独りぼっちになった感じ。話したことに相づちを打ってくれる人がいなくなった」。たった一人、「臨界の体験者」として生きる重さと孤独がのしかかった。
◇ ◇
事故の約1年前にスペシャルクルーの副長になり、燃料用ウラン溶液の製造に携わるようになった。既にバケツの使用をはじめ「裏マニュアル」による違法な作業が常態化していた。「こんな作業がうまくなっても、自慢できないな」「泥棒がうまくなるようなもんだ」。仲間と冗談めかして語り合ったが、事故を招くとは夢にも思わなかった。
「事故原因は『無知』だった」と言い切る。事故前には、それまでに経験のない高濃度ウラン溶液を扱うようになったが、会社から臨界の危険性についての指導はなかった。「ウランが液状なら、大量に沈殿槽に入れても大丈夫と思い込んでいた」という。
退院して数カ月後に職場に復帰。還暦の誕生日を迎えた昨年11月末、JCOを定年退職した。シルバー人材センターに登録。平日はJCO敷地内の芝刈りに通い、2カ月に一度は大内さん、篠原さんの墓前に足を運ぶ。
「『原子力の電気』がいるかどうか、国と事業者がリスクをすべて明らかにして住民と議論すべきだ」と横川さん。事故から6年。原子力を巡る国内の議論はまだ進んでいないと感じている。
【ことば】JCO臨界事故 99年9月30日、茨城県東海村のJCO東海事業所の転換試験棟で、沈殿槽に作業員がウラン溶液を大量に投入。核分裂が連鎖的に続く臨界になり、JCO社員や周辺住民666人が被ばくし、2人が死亡した。水戸地裁は03年3月、業務上過失致死罪などで同事業所元幹部ら6人と法人としてのJCOに有罪判決を言い渡した。
(毎日新聞) - 9月30日15時6分更新
▲このページのTOPへ HOME > 原発 劣化ウラン フッ素3掲示板