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(回答先: Re: 電車男を「掲示板宣伝」と「思想改造」の手段として考えた場合 投稿者 南雲和夫 日時 2005 年 8 月 21 日 06:16:23)
以下、当方のブログより転載。
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「電車男」への「便乗」−鈴木淳史の著作をめぐって(1)
相変わらず若い世代による「電車男」への共感がかまびすしいが、当方が見るところこの問題に関してすぐれた見識を述べた論考はほとんど見られない。むしろ、電車男の「便乗本」を出版し(それが最初に便乗を意図したものであるか、そうでないかにかかわらず)、その中で「2ちゃんねる」の存在を肯定的に述べることによって、自分は「世間」様のように君たち(いわゆる「2ちゃんねらー」)をバッシングなどしていませんよ、ということを暗に(すなわち、「犯罪の温床」とまで一部で非難されている「2ちゃんねる」に、私は敵対などしませんよ、ということをいいたいがために)ほのめかし、それによって自分の存在をアピールしたい、という意図がどことなくちらつく単行本が見受けられる。
中央公論新社が出した鈴木淳史『「電車男」は誰なのかー”ネタ化”するコミュニケーション』をよむと、結局この著者もこうした風潮に心なしかなびいているのではないかと思わざるを得ない。以下、原著から引用しながら論じよう。
「『電車男』はいろいろな切り口で読める本である。・・・脱オタク・マニュアルともいえるし、読者のほかに主人公を見守る観客のようなものをもつ多重構造的な作品にも見える」(同2頁)
はたして『電車男』が、「脱オタクマニュアル」と言えるか否かについてここで「ツッコミ」を入れるのは「大人気ない」(この本の著者から見れば当方は「オジサン」ともいえる年齢である)として先に進むにしても、次のような記述を見ると、やはり「オジサン」としては「?」と首を傾げざるを得ない。
「わたしは2ちゃんねるにあるのはコミュニケーションだけだと思っている。あとはそれを成立させるための道具にすぎない。」(3頁)
ここでコミュニケーションの意味をもう一度考えてみよう。英語のcommunicationという言葉は、元来commune(親しく語り合う、または名詞で懇談、交際を意味)という言葉から派生したものと考えても間違いではないだろう。しかし、実際の2ちゃんねるを見れば分かるように、寒々とした罵倒・差別表現のオンパレードであったり、ある特定の個人を誹謗・中傷することばの羅列であったり、ネタとする人物をパソコンのキーボードを活用した「似顔絵」(?)で嘲笑したり、無断で写真やイラストを引用して叩くなど、およそ「親しく語り合う」、「懇談」(をする)場に相応しい場とはいえない状況である。それをかくもあっけらかんと「コミュニケーション」などと言い切ってしまう神経には、「オジサン」としてはあきれ返ってしまうより他はない。
さらに、
「…インターネット掲示板、とくに2ちゃんねるというものの背後にはどのような文化があるのか少し書き留めておきたかったのである。世間でボロクソにいわれている2ちゃんねるを位置づけすることは必要だと感じたわけだ」(同)
というにいたっては「やれやれ、助けてくれ!」といわざるを得なくもなる。
いま、2ちゃんねるは果たして「世間でボロクソに」いわれているのか、そのように扱われているのか。
ご冗談でしょう。もし本当に「世間」(世の中)でボロクソにいわれているのであれば、数々の犯罪事件を誘発し、また名誉毀損訴訟そのほかで莫大な慰謝料支払いの判決が出ているのに、なぜかくも延々とスレッドが乱立し、利用者がひきもきらないのか、説明がつかないであろう。つまり、一般社会で鈴木が言うほど、2チャンネルは「ボロクソ」になど扱われてもいなければ、言われてもいないのだ。それを鈴木のように、あたかも擁護する人間が少数者であるかのごとく言うことは、結局は2ちゃんねるが持つさまざまな犯罪性を否定し、結局は「2ちゃんねる」および「2ちゃんねらー」の持つ犯罪的役割を過小評価し、結局は彼らにこびるものとなっているといわれても弁解の余地はない。(この項続く)