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(回答先: 市場・貨幣そして貨幣の「他者支配力」 投稿者 あっしら 日時 2005 年 8 月 04 日 03:40:48)
あっしらさん。 どうもありがとうございます。 あっしらさんにはあまり意味のない会話かもしれませんが。
(あっしら)
【市場は、(不特定)多数者が貨幣を含むあらゆる財と貨幣を交換する場で、個々の取引で実名を問われることなく交換取引(売買)に参加できるところだと考えています。
市場参加者は“誰”であるかは問題ではなく、非人格的存在である貨幣と財(ある貨幣に換えうるあらゆるモノ)が行き交うことで成立します。】
【貨幣もしくは財(使用価値)を市場に投じるという行為が人格(思惑)に支えられているとしても、市場において人格は意味を持ちません(捨象できます)。市場参加者の人格は“市場の外”でのみ意味を持ちます。
このレベルで定義した市場であれば、共同体外部に由来するという必要はないし、利潤の発生も予定されているわけではありません。(共同体内の市場であれば、ある特定の市場参加者が利潤を得るとしても長期的にはそれは誰かの損失に負っていると言えます) 】
これは了解しました。
市場の歴史的成り立ちにおいて、共同体外部の交易、投機商人と、利潤、貨幣が通じているように見えるという観察はさておき、このような水準の理解は十分に論理的に理解できます。
あっしら
【貨幣を媒介とした交換(売買)の歴史的発生は、共同体内の自然発生ではなく、共同体間交易に起源があると考えています。】
【遊牧民を代表とする移動生活民が商人の“元祖”であり、貨幣の“祖先”は遊牧民の家畜だろうと思っています。】
このあたりは非常に重要なポイントではないかと考えます。
財やサービスの交換というのは、つまるところ人間関係です。
一般貨幣を媒介とし、労働力と貨幣との交換による貨幣獲得を生存条件とする社会では、人間関係は貨幣に収斂していきます。
しかし、このような経済社会が共同体内部での自然発生からの成長によってもたらされると考えることは違和感を持ちますし、歴史的にも証明はされていないと思います。
あっしら
【商人と取り引きする相手も、その“媒介物”であれば、商人がそのとき持っている財に欲しいものがなくても余剰物資を手離し、その代わりに“媒介物”を受け取り次の機会を待つことができる便宜性を手に入れます。
当初は疑心暗鬼であっても、受け取った“媒介物”が別の機会に使えて欲しい財が手に入るという経験を積めば信頼するようになります。】
信用が媒介物に化体するわけですね。
ここも重要なポイントだと思います。
あっしら
【ここでのポイントは、政治権力(支配層)が徴税権を有していることです。
納税を自らが発行した貨幣で行うことを義務付ければ、貨幣の流通拡大に拍車がかかります。
そうなれば、長年の使用で磨耗した貨幣も新品と同じ価値を持つようにもなります。
(強力な政治権力が支配しその領域内で商取引が完結するのであれば、紙切れ(紙幣)でも同じという状況を意味します。商人が他の国家領域でも商売しているのならば、商人は紙幣を受け容れません)】
確かにそうなんですが、紙幣がそのように帝国内部で発生した前例があるでしょうか?
残念ながら経済史の知識も乏しいので良くわかりません。
思考実験であるとすると、もちろんローマ帝国の紙幣など他共同体の手工業者が受け取るわけはありません。
紙幣の起源は、帝王が度量衡を定め、帝国内での流通を保証した貨幣ではなく、貨幣あるいは金銀の預かり証とか、決済用の信用状ではないとか思いますが。
あっしら
【非生産者である政治権力者は、商人と似ていますし、商人を超越した経済的権能を持っています。
それは、自分が発行した貨幣を使って財を手に入れるだけではなく、徴税権を行使して支払った貨幣を回収することができることを指します。(穀物などで徴税した分は余剰を商人に売りますが、効率性を考えて貨幣納税を押し付けるようになっていきます)
徴税権は、反対給付がないまま貨幣を手に入れることを意味します。】
【商人と政治権力者のこのような関係は、商人と金融家の分化を促すことになったはずです。
面倒な商業活動を媒介とせず「貨幣で貨幣を稼ぐ」金融家が跋扈する時代の始まりです。】
なるほど
あっしら
【全面的市場経済の成立には、活動力(労働力)を販売して生活する“人種”が多数を占めているという条件が不可欠であり、そのような“人種”を買い入れて供給活動をすると判断させる経済条件(そうすれば儲け=利潤を得られる)が不可欠であり、それで行われる供給活動の成果がほぼ全量売りに出される必要があります。
余剰物資の交換では全面的な貨幣経済に至ることはありません。
全面的貨幣経済に至るためには、貨幣を使うことなしでは生存を維持することすらできない層が社会を広く厚く覆っており、生産活動の目的が自家消費ではなく市場への供給でなくてはなりません】
この点も違和感はありません。 そのとおりだと思います。
要するに大量の「奴隷」を必要とするわけです。
農村から都市へと溢れて手工業家に雇用されていく人たちは、紛れもなく奴隷です。
我々(のほとんど)が奴隷の末裔、つまり奴隷であることも疑いの余地はありません。
あっしら
【どんな財でも手に入れることができる手段である貨幣は、より豊かにより楽しく生きていきたいと思っていなくともただ生き続けたいと思っている人が多数であるならば、貨幣を“余剰”に所有している人に他者を支配する力を与えます。 】
そういう意味ですか。
あっしら
【生産活動の主体の座を失った人が多数で自分の活動力を他者に売るしかない人で満ちている経済社会は、活動力の交換さえできずに他者の支配に甘んじるしかない人で溢れかえっていることを意味します。】
もちろんこれは奴隷です。
しかし、労働者が労働市場を通じて自己の活動力を販売し、貨幣と交換することで糧を得るしかないという説明も可能で、
この説明は、労働者がマクロ的には奴隷であることを意味していると考えます。
なぜなら、労働者は、あれこれの資本家を選択する自由はあるが、いずれの資本家も選択しない自由はないからです(無職で暮らせる人の多い現代日本は、まだしも恵まれた方です)。
あっしら
【近代貨幣経済社会は、継続的な貨幣媒介取引であるがゆえに、実質である“奴隷制”が見えにくくなっているだけです。
豊かな生活だと思うことと生きる(活動する)主体性を失った“奴隷”であることとは両立するのです。】
資本家から見ると、一夜限りの快楽後に縁切りのできる売春と、ずっと生活の面倒をみなくてはならないお妾さんの相違みたいなものですか?
貨幣の起源が家畜だとい説明がありましたが、
「奴隷」の起源がむしろ家畜ではないですか?
今回は、共同体外部における交易とその共同体内部への浸透の説明を読みまして、ほとんど違和感がなくなりましたので、これくらいにしておきます。
次回はもっと噛みつきたいと思います(笑)。