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すみちゃんの「あっしらさんに質問!【世界経済を認識する基礎】について」( http://www.asyura2.com/0505/hasan41/msg/695.html )へのレスです。
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あっしら:【事象的には、多くの人々が通貨の獲得を目指して経済活動を行い、獲得した通貨で生活に必要な物を手に入れるという経済社会である。
その前提として、自己の生存を支える基本的な生産手段を保有していないために、自己の活動力(労働力)を財として通貨と交換しなければならない人が多く存在している社会である。
「近代経済システム」の発展は、通貨の役割を強めるとともに、自己の活動力を他者に販売しなければ生存できない人をより多く生み出していく。】
すみちゃん:「これは「一般通貨」ですね。 このようなシステムは、通常は「市場システム」「市場経済」と呼ばれることが多いと思うのですが。
歴史的に徐々に明確化されてたきように、一般通貨は本質的には「価値表示媒体」です。もっと突き詰めて言うと、交換可能な財やサービスの価値を数量的、一般的に表示する媒体である。
そう考えますと、一般通貨による財やサービスの交換を可能とする市場が経済生活の全面を覆うにいたったシステムであると考えるのが普通のような気がします。
ここから「資本増殖活動」を根源的なものとして取り出す理由が良く分かりません。」
「一般通貨による財やサービスの交換を可能とする市場が経済生活の全面を覆うにいたったシステム」と考えたほうがいいのは、歴史的に実在したことはありませんが、土地(自然の一部)と人間的活動力を自己のものとして占有する自営農民・自営手工業者・自営商人といった経済主体が存在し、それぞれの活動成果を商品化し、それらを交換する手段として通貨が使われる経済社会だと思います。
(自営農民が活動成果をすべて商品化するという事態は考えにくいので理念型としてご理解ください)
構成内容は別として諸家族が自立した経済主体として生存維持活動を行い、その成果をより高める(好ましい生活条件を得る)ための手段として他者と活動成果(商品)を交換するという社会であれば、提示された定義の適合性が高いと言えます。
しかし、現存する近代経済社会を「一般通貨による財やサービスの交換を可能とする市場が経済生活の全面を覆うにいたったシステム」と捉えると、表層的理解はできても、その本質が見えなくなると考えています。
近代経済社会は、上述のような経済構造と異なり、銀行家と労働者(活動力販売者)が大きなウエイトをもって存在しています。
近代経済社会の通貨は、政治的統合主体である政府部門が財や用役を手に入れるために発行することではなく、[中央]銀行が貸し出し(債券類の購入も突き詰めれば貸し出し)のために発行することで流通を始めます。
近代経済社会の通貨は、財の交換を目的として出現するわけではなく、利息の取得(資本増殖増殖)を目的として出現するものです。
また、農業であれ工業であれ自立した経済主体は減少し、自己の活動力を売る以外に生存維持ができない人々が増大していった歴史過程が近代の大きな特徴です。
近代の象徴が機械化された大規模工場である産業だとすれば、自前の生存維持条件をなくした労働者(活動力販売者)の相当ボリュームでの存在が不可欠ということになります。
労働者(活動力販売者)を擬制的に商品販売者と位置づけることはできますが、彼らが資本と結合して活動した成果こそが交換される財やサービスですから自立的な経済主体とは言えず、外形(見掛け)のみないし便宜的説明として交換取引をしている“擬制の経済主体”でしかありません。
「資本増殖活動」を近代経済社会の基本論理とするのは、それが経済主体の活動目的であり存続条件だからです。
産業資本であれば、投下した資本(貨幣)よりも多い資本(貨幣)を財の生産・販売を媒介として得ることが目的であり、それができない状況が長期化すれば撤退を余儀なくされます。
さらに言えば、近代産業は生産設備のために膨大な投資を求められます。それは、多量の貨幣が物に化けて固定化されることを意味します。固定化された設備を使って、投下流動資本を超える回収を実現するとともに、固定資本の償却費及び追加的固定資本の原資を稼がなければなりません。
追加的設備投資を行える条件を保持していなければ、“過剰な供給(生産)力”を構造的宿命とする近代経済(産業)社会では、競争に敗北し撤退を余儀なくされます。
“過剰な供給(生産)力”という条件こそが、全面的貨幣経済=全面的商品化を形成する動力です。
金融資本は、このような産業資本の経済論理を好条件として「資本増殖活動」を展開します。
株式資本のかたちであれ借り入れであれ、産業資本は存続するために外部から資金を得なければならない状況に不断に置かれていますから、金融資本の「資本増殖活動」に貢献する取り引きを行わざるを得ません。
(金融資本も資本増殖活動に失敗することがありますが、日米を見てもわかるように、その多くはアウトサイダーです。インサイダーが倒れるときには“裏”があると思っています)
「資本増殖活動」が総体として順調に回転していることで、貸し出し(株式購入)も行われ、産業活動も継続的に行われ、そのための手段である労働者(活動力販売者)も通貨を手に入れることができ、財やサービスと貨幣との交換がスムーズに行われるというのが近代経済社会です。
産業の「資本増殖活動」が不如意になれば、総体としての財やサービスと貨幣との交換は低迷したり、交換の連鎖が崩れることにもなります。
すみちゃん:「財やサービスの価値を一般的に処理し、交換可能なものとする市場を前提とし、この市場での財やサービスと一般貨幣との交換を通じて資本を増殖させていく活動が可能となったと考えるとは、それほど無理のない説明ではないでしょうか?」
上述したような自立した“市民”(経済主体)たちの貨幣を媒介とした交換経済が自然成長的に近代経済社会に進むことはありません。
そこでは、資本を増殖できる条件もありません。資本の増殖は利潤の獲得によって成し遂げられるものであり、経済主体間の交換からは利潤は発生しないからです。
以前から説明していますが、“真の利潤”は外部経済社会からしか得ることができません。
近代経済社会に進むためには、外部経済社会から貨幣的富を獲得する条件・貸し出しを始源とする貨幣供給・労働者(活動力販売者)が必要であり、それらを実現するためには政治権力の行使が不可欠です。
すみちゃん:「生産を流通よりも根源的なものと考えますと、広い意味での資本は、市場を前提としなくもと必要です。 このような市場経済以前の資本は、一般通貨で価値表現されることはなく、単なる栃とか生産機械とかの形で保有されている。
資本の増殖を目的とする生産活動は、財やサービスの数量的価値表示、すなわち一般貨幣なくして可能なのでしょうか?」
近代経済社会でも、産業資本の資本は土地や生産設備といった物で保有されています。
資本が貨幣というのは金融資本です。金融資本でさえ、貨幣資本は貸し出し債権や債券という別のものに転化させなければ増殖させることはできません。
金融資本の強みは、ものに転化させたはずの貨幣がすぐさま自分のところに戻ってくることです。(これは、中央銀行を含むすべての銀行が単一の金融資本家によって所有されている経済世界をイメージしていただければ理解できます)
近代貨幣の究極的権能は「他者の支配力」です。
「財やサービスの数量的価値表示、すなわち一般貨幣」は、機能であって本質ではありません。
「財やサービスの数量的価値表示、すなわち一般貨幣」の使用は、資本増殖活動を効率的に行う手段というレベルで捉えておけばいいのではないでしょうか。
使い勝手は悪いし反発も噴出しますが、効率的資本増殖=「他者の支配力」の増大は、財やサービスの“配給”でも可能だと思っています。