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(回答先: 労働者階級が大同団結して悪政に対抗するべき時ですので、君が代などで対立している時ではありません。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 25 日 22:29:32)
「ワヤクチャ」さんや「Kさん」の真面目な論争を、横目で、ほくそ笑んでいる連中が居ると考える方が妥当では、ないでしょうか?
「エポケー」の時では、ないでしょうか?
今、現実に、対象とするべき政治経済社会問題は、山積しています。
それぞれについて、「ワヤクチャ」さんや「Kさん」の意見や洞察を必要とし、興味を持っている参加者は、ODA ウォッチャーズだけではない、と思います。
議論の本質は、他の政治経済社会事象においても、対立と協調を御互いに必要とする課題でしょう。「君が代」の問題と平行して、他の問題も同時に、提起されて、互いの視点を切磋琢磨されては、如何でしょう。
フッサールは、やはり、激しい欧州の思想的闘争と軋轢への、現実的解法として、「エポケー」を唱え、自己省察、再度の自己省察と『判断中止』を説きました。
大きな物語の前に、現実の、生活の問題についての、解答を、生活者のために、見出して行って頂けないでしょうか。
知性と能力と情熱を併せ持つ方は、実は、世の中には、少ないと思います。
これらを持つ方々は、やはり、自分の一部を社会に還元することが、求められている、と思われます。
(参考)
エポケー
melma!blog ヘルプ
http://blog.melma.com/keyword/%A5%A8%A5%DD%A5%B1%A1%BC
哲学用語。現象学という、認識論を語る学問において、その開祖であるフッサールが唱えた術語。
端的な意味は、「判断停止」、或いは「判断保留」であり、ここでは、物事を判断する際に、(よく判らないので)「取り敢えず、括弧に入れておく」というような意味で、理解して下さい。
もう少し、細かく言うと、リンゴを見たとき、それがリンゴであると「判断」する、日常当たり前の、一般的なものの見方と判断を、敢えて「保留」することである。それは、「何故、それが「リンゴ」だと判るのか?」という解明=これこそが、認識論という哲学 するための、言わば思考実験、のようなものである。
ふりがな:えぽけー
カテゴリー:学校・教育