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(回答先: 試行(仮説−検証) 投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 24 日 10:29:31)
>如往さん ご意見に感謝です。
【両者共に現実の運動への係わりの頻度が不足していることが対話の不毛性を現出してしまっていると感じます。】
は、Kの場合はかなり微妙です。詳しくは書けませんが、Kには現実の運動に関わってきたという自負があります。もっとも、Kより深い関わりを持っている人は星の数ほどいます。
【考察者kさんには運動への過度のコミットメントを求めるものではありませんが、例えばデモと併走することでも構いませんので、アホらしいと感じつつも人々の熱気に触れて欲しいと思います。】
ここが、最大の問題点なのですが、デモとかストライキとかの「高揚感」が一種の麻薬(習慣性)になって、間違った考え方(闘争至上主義)を広げ、逆に「目的に向かう上」で足枷になっているのではないか?とも考えます。
同意の意を示さない運動(起立の拒否)、デモ行進、ストライキ・・・
このような実力行使は最終的には「テロ」にまで達します。
「Kは組織員に犠牲を強いる運動」は止める方向で考察するべきだろうと考えています。
メーデーのシュプレヒコール行進は「行進している場所によってコールが変わる」という事実を如往さんは知っているでしょうか?
「商店街では大店舗進出反対・排除」を叫び
「住宅街では大店舗の擁護、撤退反対」を叫びます。
Kはそれを「良い事とは思わないですが、戦術的には仕方がない」とも思います。
現実をいかに認識し、その現実の中で「自分の想いを、いかに実現してゆくか?」に焦点を合わせていくべきと言うのがKの考えです。
「アメリカのやり方が間違っている」とか「自民党の政策が狂っている」のは、あえて言わなくとも「阿修羅の左派系」では共通認識でしょうし、Kも時折主張しています。
しかし、愚痴を言っていて変わるのなら誰も苦労はしません。
Kは前から「既に対案は示した」と繰り返しているのですが、ワヤクチャさんは「対案を示していない」と繰り返します。
Kは「対話、メディア戦略への変更」という事を繰り返している上、具体的手法や考え方まで示して
「一部の人にしか理解されず、おそらくは、理解される人よりも、多い敵を生み出す方法では永遠に解決はしない」と主張しているのに
「対案(新たなる『実力行使的抵抗手法』)を示さない限り納得しない」と主張し、こちらの真意を歪曲して捉えることによって「説得されない事にのみにしか考察力を使用しようとしない人」とは、対話の継続は不可能でしょう。
Kは次回以降の選挙に向けて「いかに勝てる体制を作れるか?」のみに焦点を絞るべきだろうと思っている。
「国鉄民営化反対署名約5000万人分」も「アメリカ911同時多発テロ」も
結局は何の変化も起こせなかった。
これは、抵抗派の理論による「既存の抵抗手法では何も変えられない」事を物語っている。おそらくは、上記の2つ以上の「不満の集約的抵抗の意思表明」は今後は起こせないだろうと思う。
ならば、どうするのか?「選挙の時、庶民の声が活かされる環境作り」であり「国民の声がストレートに政策決定に反映される環境作り」を最優先に考えていくしかない。
例えば「君が代反対」だが、理念的にはKは反対しない。
しかし、結局は体制と反体制の意地の張り合いである。処分者を助けたいとは思うが「最終的に最高裁まで行って『処分は不当』の決定を勝ち取ったとしても、得られるのは『歌わない』事」だけである。
費用対効果などを考えれば、仲間からすら「あきれて見捨てられかねない」だろうと思う。本来なら「謝って和解」の方が利口である。
これは、体制側からは「絶対に申し込まれることはない」相手(体制)側は「Kの想像を絶する馬鹿なのである」
Kとすれば、話の分かりそうな方を説得してみようと考えるわけである。(アホでした。)
Kとしては「他人と同じ事をしていたのでは駄目」と思う反面「他人から極端に違う行動をしても駄目」なのだろうと思う。
如往さんに薦められた「バカの壁」にも「本気で個性を活かしたら精神病院行き」との意味の事が書いてあったでしょう。
Kも「相手の生活常識を刺激するような行動」をするのは結局は逆効果になる可能性が高いのではないか?と思っています。(異物の排除理論の俎上にのせられると言う事です)
それは、次回の選挙に大同団結的な多数派形成をしたいと考える人にとっては「ハッキリ言って迷惑な跳ねっ返り行為」と思われる側面もあるわけです。
事実、共産党の頑固さが「結果的に自民党を勝たせた」という歴史的な側面もある。とKは思っています。
つまり、Kがワヤクチャさんの主張に同意する可能性は限りなくゼロに近いのです。
これは「思い込みによる考え方」とは違って、Kが阿修羅で活動している根本思考ですから、ここを「捨てるなら」阿修羅にいても仕方がない。と言う事です。
Kは「楽しい会話」をするために阿修羅に来ているわけではありません。
単に遊びに来ているだけならば、幾らでも「ワヤクチャさんに合わせます」
そうゆう事です。
では、では