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(回答先: 何も支持を得ていない権力は存立し得ない。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 14 日 15:29:16)
ワヤクチャさんスパルタコスポノさんAmaさんお早うございます。
ただ私自体はいまだに権力という言葉に引っかかっております。
ワヤクチャさん >それは、「権力=悪」というイデオロギーの成せる技ですね。
国際金融資本は自らに何らかの足枷をはめるような対抗的権力を作らせない為に
「権力一般=悪」というイデオロギーを宣伝したのだろうと思います。
全共闘運動を利用したでしょう。
あなたもまんまとその洗脳にやられてしまったと考えます。
それとも意識的かのいずれかです。
ここでは私が意識的ということは決してありません。まず四者の方に通じることは権力側ではないということは一致していることだと自分では文章から感じております。
ワヤクチャさんが言った「権力=悪」少なくとも私はそう考えています。
>あなたもまんまとその洗脳にやられてしまったと考えます。
またこのことに対して私を含め多くの人が洗脳されているのではないでしょうか。出来ればワヤクチャさんがその洗脳を解いてくれればと思いますが。全共闘という言葉が出てきましたので、その当時のリンチ殺人事件は衝撃でした。今でもどこにいてそのニュースを聞いたのかを思い出せます。
田原総一郎氏は別の書き込みで見ておりますが、一応筋を追うつもりでここに乗せておきます。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage04.html#mainiti
田原総一朗の戦後史を辿る旅A
(朝日=後4・0) 毎日新聞 2002年7月28日
「全共闘」とは何だったのか
60年代後半から70年代はじめにかけて日本列島を大波小波のように襲った若者たちの反乱、学園紛争は「全共闘運動」という言葉で語られることが多い。しかし、戦後史の中で、あの現象は一体何だったのか、について今もって総括されていない、という田原総一朗が、当時のビデオを見ながら「あの時代」の本質に迫ろうという企画。
大学の授業料値上げ反対など個々別々な理由で散発的に起きたキャンパスでの反乱が、あっという間に、戦後体制への異議申し立てに広がっていった。あのエネルギーの源は何だったのか。当時、学生だった立松和平、猪瀬直樹ら団塊の世代が広く文化、感性の問題としてとらえようとするのに対して、一回り上の世代の田原、筑紫哲也は政治的な動きに注目する。当時のリーダーの多くが今回の取材を断わったという。答えは出るのか。 (網)
浅間山荘事件に至る連合赤軍のリンチ事件の内実を、永田洋子や坂口弘
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00007B95C/ref=pd_sxp_f/250-6245517-6800225
光の雨 特別版
レビュー
Amazon.co.jp
連合赤軍のリンチ事件を題材にした小説『光の雨』が映画化されることになり、若手キャスト(結木奈江、山本太郎ほか)が集結して撮影に入るが、まもなくして監督(大杉漣)は失踪。彼は赤軍を同時代を生きた男でもあった。代わって、それまでメイキングを回していた新進監督(萩原聖人)がメガホンを取り、撮影は続行される…。
高橋伴明監督が、これだけは撮らないと自分の20世紀は終わらないとの覚悟で取り組んだ社会派青春映画の傑作。立松和平の原作が劇中劇として描かれ、当時の若者たちの思想を理解できず、混乱しながら役を演じていく若手俳優たちのドラマとクロスしていく。理想を追い求めた果てが仲間同士の殺りくであったという痛恨。それは決して過去の出来事理ではなく、閉塞的現代とリンクする歴史的重要な惨劇であったことまで思い知らされる、必見の作品。(的田也寸志)
内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
連合赤軍によるリンチ事件を描いた小説「光の雨」の映画化のため集まった彼らは30年前に実在した若者の行動に疑問を感じながらも役を演じようと試みる。だがある日、監督が突然姿を消してしまい・・・。立松和平の同名小説を映画化した問題作。
若者に社会構築的意見表明の機会を保障することが大切である。, 2005/03/15
サークル活動等でグループ長がその日の活動の最後に行うあいさつを「総括」と称する人を時々見かける。私は連合赤軍派事件のとき10歳ぐらいであったが、いまだにこの「総括」という言葉を聞くと連合赤軍派リンチ事件が脳裏に浮かび身震いする。それほど連合赤軍派による浅間山荘事件に至る一連の事件が当時人々に与えたインパクトは大きいものであった。武力による抗争・改革は決して許されない、また許してはならないものであるが、1970年代に何があったかのかを後世に語り継ぎ、当時の若者がなぜそのような事件を起こすに至ったかを考察することは意義のあることだと思う。
この映画では連合赤軍派による事件を劇中劇として扱っている。つまり21世紀初頭の青年が30年前の連合赤軍派を演じる、随時適所にこれらの青年俳優達が演じてみての感想を挿入するという構成になっている。また連合赤軍派世代の主監督が当時犠牲になった友達が遺した言葉に怯えて降板するエピソードを採用し、当時、若者であった監督と現在の若者である俳優達との事件に対する受け取り方の温度差を対照的に描いている。連合赤軍派による事件を劇中劇として扱うことにより、この事件に馴染みの薄い現在の若者にとって追体験しやすくなっている、当時を知っている者にとっては特に衝撃が緩和される(仮に当時の様子をルポ風に撮ったものであったら少なくとも小心者の私には鑑賞できない)という利点があり、評価できると思う。
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レビュアー: neo_chemist (プロフィールを見る) 長野県
この映画を観る人は一体どういう動機で観るんだろう?というのが鑑賞後によぎった疑問。というか、自分自身が何故観ようと思ったのかすら判らなくなってしまった。鑑賞後にはただ疲労感と無力感が残る。それは映画自体の良し悪しとは別に、この事件が余りに凄惨で救いがなかったという事実に負うところが大きい。立松和平の原作読了後にも思ったのだが、事件後に生まれた僕らがこの事件を辿ることで得るものって何だろう?「そこに何かあるはずだ」と僕はどこかで期待していたのだが、実際には何もなかった。それが冒頭の無力感に繋がる。
『劇中劇』という設定は原作と異なる。監督は、劇中劇という設定にした理由のひとつは、「完全なノンフィクションにしてしまうと、余りに重過ぎて観ている人が辛くなるから」だと云う。一種の緩衝材という訳だが、それが有効に機能していない。それは監督の責任ではなく、いくら設定をいじったところで、観る側に「これは歴史的事実なんだ」という認識がある以上、その凄惨さを和らげることは、事実を曲げない限り不可能なのだろう。
山岳ベースという閉鎖空間、極限状態におかれた人間がどのように追い詰められていくか、という人間の精神病理をつまびらかにした映画ではあるが、それ以上のもの(学生運動との繋がりや、当時の若者を革命に駆り立てた時代的気分の理解など)を期待するとどうしても裏切られる。それは映画が悪いのではなく、期待する僕らが間違っている。リンチ殺人はリンチ殺人であって、そこにセンチメンタリズムが入り込む余地はない。これまで誰もこの事件を映画化しなかったのは、それを理解していたからかも知れない。映画を観てようやくそのことを認識した。
ただ、裕木奈江の演技は素晴らしかった。TVドラマに出ていた頃の彼女しか知らない人は、そのギャップに驚くだろう。