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国家の定義としては、別で触れた「国家三要素説」はそれなりに妥当性があると思います。
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/133.html
しかし、これだけでは国家の本質は一向に明らかにならないでしょう。
それは「人間とは?」という問にたいして単に外形的要素を説明しても、人間の本質が見えてこないのと同じであります。
この点、国家の本質をめぐっては、古来多くの思想家たちが様々な見解を唱えてきました。
このうち、わたし達が国家の本質を考える上で参考になるのは、「社会契約説」と「国家有機体説」です。
まず「社会契約説」ですが、この国家論の代表的な主張者は17世紀の思想家ホッブスやロックです。
その特徴は個人の絶対性ということを出発点にして、国家は各個人の合意によって創られたものであると説くところにあります。
つまり個人主義的国家観です。
ただし、ここにいう「個人」とは神や家族さらに共同体とは無関係であり、歴史、文化、伝統とも切り離された抽象的な人間の事であって、現実に存在する国民とも無縁であります。
その前提とされたのは国家が成立する以前の状態、つまり自然状態であります。
この自然状態についての考え方はホッブスとロックでは大きく違いがあります。
しかし、両者とも自然状態のままでは得られない平和と秩序を樹立する為に社会契約がなされ、国家が創られたとする点では違いがありません。
したがって、このような国家論においては、人間が国家の為にあるのではなく、国家が人間のためにあるということになります。
いうまでもなく、このような国家論は、あくまで国家というものを合理的に説明し、正当化するための理論であって、社会契約説などもそのために作られた擬制であります。
メイフラワー号での近いが基となって建国されたとされる、アメリカ合衆国などの例を別とすれば、社会契約など歴史的事実としてはどこにも存在していないのであります。
このような個人主義的国家観にたつなら、もしその国家が目的に反した時、国民はその国家を否定し、創り直すことが出来なければなりません。
ロックのいう抵抗権がまさにそれでしょう。
それゆえに、ロック流の社会契約説は、国家というものに対して常に警戒的であり、それは容易に国家否定論とも結びつくことになります。
そして、戦後の憲法論は、日本国憲法の前文にそのものが社会契約説的な思想を宿している事もあって、このような社会契約説にたって国家を説明することが多かったのでしょう。
反国家的な風潮が蔓延したのも当然であります。(考察を後に)