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(回答先: 国家と政府は混同しないように注意を喚起しておきます。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 5 月 21 日 12:15:30)
国を論じているのか憲法を論じているのかをはっきりさせる必要があるかもしれません。
近代憲法は、絶対王政に対する民主主義の勝利という形で出発していますから、人権と国家権力との対立的意味を内包した議論になるのは当然のことです。
そして、階級国家論をとなえるマルクス主義においても、国家は暴力的に非和解的な階級間の問題を決着させ、統治する手段という考え方でしょうから、両者の議論は一致しないまでも、国家を国民とは別のものとしてとらえることとなります。
一方、国民国家という考え方にたてば、そのような対立は消えてしまいます。国家への自由が極端に進んだプロレタリア独裁のような国や民族主義一色の国においては、国民と国家は一心同体のようなもの、国家と個人の対立という考えそのものが問題にもならないでしょう。(東アジアにはそういう国が多いのかもしれませんが)
で、憲法に、そうした国民国家の立場からの規定を盛り込もうというのが、最近の議論ではないかと思います。アフガニスタンやイラクでさえ、コーランの一節のようなものをいれても許されるのであれば、日本において神道を憲法にうたって悪いはずもないではありませんか。いえ、神道とは直接いわずに、とりあえず、美しい日本の心とでも言い換えたほうがいいかもしれません。
かつて、ワイマール憲法の時代には、憲法学者のほとんどが、言論の自由のもとにワイマール憲法を否定しており、短命な憲法に終わったといいますが、近年の日本の憲法学者にも似たようなものが多く出ているようです。ドイツでワイマール憲法がそのように短命だった原因は、戦勝国への超多額の賠償などで、ニヒリスティックな状態にあったという点もあるようですが、現在の日本の状況は、それとは少し違うようです。
いずれにせよ、国民国家としてみれば、他国との共生か他国との戦争かは外交の一側面に過ぎませんから、平和も戦争も表裏一体、絶対平和主義はありえません。
だから、日本の平和主義者は、国民国家という考え方を否定したがるということでしょう。
しかし、問題は、国民国家の考え方でいくと、平和主義といっしょに人権も葬りかねない、これについては、要注意といったところであり、したがって、この議論が憲法の議論であるのなら
国家権力と人権というスタンスの議論になるのは仕方がないと思うのです。