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国家三要素説によれば、国家とは一定の領土を基礎とし、主権つまり固有の統治権によって支配される国民の共同体であるといった説明がなされます。
これは「社会学的国家論」と呼ばれる物でありまして、勿論間違いではないでしょう。
しかしながら、「社会学的国家論」だけでは国家の本質を理解できないであろうと思います。
そこで、国家三要素説に代えて、国家とは法人格をもった団体、つまり法人であるとする「国家法人説」が持ち出されることもあります。
これは、「社会的国家論」に対して「法学的国家論」と呼ばれます。
この「国家法人説」は国家をもって個々の人間(自然人)と同様に意志を持った法的主体(法人)であると考えます。
国家が外国と条約を結んだり、民間の企業と取引を行う事が出来るのは、国家が法的な意志を持った主体(法人)だからなのです。
この国家法人説は戦前のドイツや我が国で広く支持されていた説で、このような考え方そのものは妥当であり、今日でも支持できると思います。
しかしながら、これだけではまだ、国家とは何かと納得しきれません。
ある人は国家と聞いただけで拒絶反応を示し、逆にある人は愛国心の必要性を訴えたりするわけですが、このような「愛国心」や「拒絶反応」などというものを国家三要素説や国家法人説だけでは説明しきれないからです。
そこで国家とはなにかをこれまでとは別の見地から考える必要が出てきます。
古来、多くの思想家や哲学者達が「国家とはなにか」ということについて、様々に思考してきました。
その中には、国家の起源をもとに国家とは何かを論じた物もあります。
ある者は国家を神の創造物と考え、またある者は国家の起源を実力による支配や契約に求めたりしたようです。
他方、国家とは何のために存在するのか、つまり国家の目的とは何かということを考える事によって、国家の本質を解明しようとする人々もいました。
それによれば国家の目的は何よりも外国からの侵略を阻止すると共に、国内の治安を維持し、それによって国民の生命と財産を守る事にあるとされています。
例えば、北朝鮮による日本人拉致問題は「国家とは何か」ということを改めて国民に考えさせる事になりましたが、そこで考えられている国家は、まさにそれであります。
このような見解は、国の内外を問わず多くの学者や思想家に共通しています。
たしかに、このような国家論であれば、我々の常識的な国家観とも一致するところがあると思われるし、国家否定論者でもこの事まで否定出来ないと思います。