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「憲法」とは国家の基本法です。
「憲法」とは「国のかたち」を法的に表現したものと言ってもいいでしょう。
それゆえ理論的に考えれば「国家」というものがまず存在して、その国を前提にして、はじめて「憲法」が出現することになります。
とすれば、憲法の意味を正しく理解するためには、とりあえず「国家」とは何かを知らなければなりません。
ところが戦後、「憲法」を語るとき、「国家」とは何かをきちんと論じようとせず、いきなり「憲法とは何か」を語る傾向が強かったと思います。
また、国家についての説明を加える時も、せいぜい国家とは「国民」「領土」および「主権」によって成り立っている共同体であるといった国家三要素説程度しか語られないことが多かったと思います。
あるいは、たまに語られるとしても、「国家とは権力機構のこと」であり、権力は(必要)悪であるから、国家は(必要)悪であると決め付けたり、「国家=悪」「国民=善」とし、国家と国民を対立させて考えるといった単純な発想に立つものが」支配的でありました。
戦後の憲法学において、国家のまともな議論がなされかった原因は様々であります。
まず学問がますます専門家した結果、かつての憲法学のように、国家そのものを直接の研究対象とする学問ではなくなったことがあげられます。
だからといって、憲法が国家の基本法である以上、国家について何も考えないで良いということにはなりません。
@戦前、戦時中の反動として、戦後、国家軽視の風潮があります。
戦時中のスローガンとしてとなえられた「滅私奉公」の反動として、国家(公)軽視されるようになったのでしょう。
A戦前を一方的に「軍国主義」「超国家主義」の時代と決め付け、断罪し否定しようとする東京裁判史観(戦前のわが国の歴史を侵略の歴史とみる、東京裁判によって作られた歴史観)の影響であります。
東京裁判史観は、わが国の歴史を一方的に断罪するものですが、この戦前に対する「反省」が、国家そのものへの警戒につながっていると思われます。
B国家を階級的支配の道具、つまり暴力装置であるとして否定するマルクス主義の影響が挙げられます。
その背景には戦後の憲法学界にそこはかとなくただよっていた「社会主義・共産主義」へのシンパシーが存在していました。
このように、国家そのものを否定的に考えて、忌み嫌うような雰囲気ではまともな「国家論」を期待できないでしょう。
その意味で戦後憲法学の特色は「国家論無き憲法論」が特徴だといえます。