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「学力低下」の裏で進む私立中バブル=井上英介(社会部)
私学の名門・麻布中の登校風景。制服はない=東京都港区の同校で11日、森田剛史写す
http://www.mainichi-msn.co.jp/column/kishanome/news/20050513ddm004070063000c.html
◇教室外の圧力を変えよう−−形式知競う入試も問題
文部科学省が「ゆとり教育」の総仕上げとして02年春に導入した新学習指導要領と「総合的な学習の時間」について、千代崎聖史記者が4月27日本欄で「基礎を大事にし、多様な生き方を準備するためのもの。もう一度意義を考えてほしい」と擁護論を展開した。
だが、子供の尻をたたく親たちは「そうは言っても現実は……」と思っているのではないか。目の前のテストの点数を稼ぐことに子供を駆り立てる教室外の圧力は、学力低下論を背景に近年強まるばかりだ。私自身は新指導要領や総合学習の理念に異論はないが、教室外の現実を変える議論も必要だと思う。
「塾に行くことで失うものは大きい。今の子供の学習塾への依存度と功罪をどう考えるのか」。4月27日、東京都内で開かれた中央教育審議会の教育課程部会。最後に発言した野依良治委員(理化学研究所理事長)の鋭い語気が、終了間際のゆるんだ空気を一変させた。文科省幹部は「実態は後ほどデータで説明いたします」と声を上ずらせた。
「塾はけしからん。国で禁止したらいい」。部会後に発言の真意を聞くと、厳しい言葉が飛び出した。個人が体験から導く「暗黙知」と、言葉や図式で示されるカタログ的な「形式知」があり、野依氏によれば、塾は形式知を詰め込むだけという。「暗黙知なし、形式知だけの人間が大学へ行くのは問題だ」と同氏は続けた。
中山成彬文科相が2月、中教審に「ゆとり教育」見直しを諮った。理由は「学力低下」。学校での学習内容を見直す部会はこの日、諮問後初の会合を持った。だが、いかに部会で議論しようと子供は塾で形式知習得に精を出す−−。そんないらだちも読み取れるノーベル賞学者の主張は、極論には違いないが「学力とは何か」という問題提起も含んでいるように思える。
なんとも皮肉な事態が進行している。先月公表された文科省の小中学生学力テスト(03年実施)の結果について取材した時、教育関係者からこう教えられた。「中学受験が盛況で塾業界にバブル期の活気が戻ってきた」。半信半疑で首都圏の私立中学受験者数を調べた。少子化や不況で90年ごろから減り続けてきたが、03年から一転、異様な伸びを示している。04年は東京、千葉、埼玉3都県で延べ17万3665人と、02年(14万1312人)に比べ23%増。「公立中学離れ」が加速している。
02年には文科省の前回の学力テストが実施、公表された。成績が前々回(94〜96年)を下回り、以前からくすぶっていた学力低下論が燃え広がった。教育関係者は「公立学校を不安視する親が増えた。学力低下論は塾業界へのまたとない追い風だ」と言う。
学力低下という時の「学力」の中身について考え込まざるを得ない。昔から学力低下論はあった。思えば84年高校卒業の私は5教科7科目の共通一次試験(79〜89年)をくぐらされた。大学では教授から「君ら共通一次世代は、選択肢から選ぶのは得意だが、自分の頭で考える力は劣る」などとけなされた記憶がある。
共通一次は後に「センター試験」に変わり、科目数は減った。選抜方法も国公私立を問わず推薦入試や一芸入試、人物本位のAO入試など多様さを増している。ところが、国立大学は02年度センター試験から順次5教科7科目へ先祖返りした。学生の学力低下を懸念したためだという。私が教授からけなされたのはいったい何だったのか。
自ら問題を見つけて解決するためにも最低限の「形式知」は必要だと思う。だが、マークシートでその正確さを過度に競う入試こそ子供を詰め込み教育へ追い込む「外圧」の最たるものではないのか。新指導要領で減らされた学習内容と大学入試の溝を学力低下論があおり、わが子を塾や私立中学へ追い立てる親が首都圏で増えている。一方、勉強に関心のない子、経済的事情で塾や私学に行けない子、塾も私学もない地方の子がいる。生まれ落ちた境遇で、教育水準や人生の成功の程度が決まる「格差社会」の進行に警鐘を鳴らす論も登場している。
中教審には「入試改革がなければ、ゆとりや生きる力は絵に描いた餅になる」として、入試をなくすに等しい「センター試験の資格試験化」を検討した過去もある。これも野依氏の「学習塾禁止論」同様、現時点では実現困難な極論かもしれない。
だが、どんな親の元に生まれた子供にも一定水準以上の教育を受ける機会が保障され、新指導要領に沿って「生きる力」を高めるには、それくらいのことを現実に考える必要があるのではないか。