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「高利貸し営業部長」だった極貧「池田大作」の知られざる屈辱人生(新「創価学会」を斬る【第7回】)
http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/532.html
投稿者 gataro 日時 2006 年 1 月 02 日 15:25:02: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: Re: 「何時も貴方の幻影が私の心を…」 /池田大作(SGI会長)“達筆恋文”を発見!【高利貸し時代の大作の写真↓】 投稿者 gataro 日時 2006 年 1 月 02 日 15:15:11)

http://page.freett.com/sokagakkai_komei/katsudou/shin_kiru07.html から転載。

新「創価学会」を斬る【第7回】
(週刊新潮12月18日号)
 山田直樹

「高利貸し営業部長」だった極貧「池田大作」の知られざる屈辱人生
32歳で創価学会3代会長に就任以来、実に43年。池由大作名誉会長ほと離反者を生み、さまざまな告発を受けた人物はいない。学会員の絶対的な崇拝の対象となる一方で、この人物の特異な人間性は、常に多くの裏切りを生み続けた。今や与党・公明党の事実上のオーナーとして法王の座を手に入れた池田氏。連載第7回は、とうしても触れられたくないその知られざる過去に迫る。

これまで指摘してきたように、創価学会の行動原理・思考形態は、日本の新興宗教団体の中でも極めて特殊と言える。教祖様″を絶対視し、崇拝し、その言葉を無批判に受け入れる点は、多くの新興宗教団体と共通しているが、敵対者への強い攻撃性や憎悪は、やはり、この団体の持つ大きな特徴と言っていいだろう。

しかし、これは同時に、「脱会すれば、このようになる」との恐怖を学金員に植えつける、組織を守るための絶大な効果をもたらしてもいる。そのような恐怖と憎悪こそが創価学会(員)のエネルギーを引き出す源泉″であり、同時に、「自分たちのしている事は正しい。世間も驚嘆する偉業をなし遂げている」というカタルシスを多くの学会員に抱かせる基となっているのも特色だ。目を輝かせて池田大作氏の偉大さ、素晴らしさを訴える学会員を見ていると、これだけの陶酔感、使命感を多くの学会員にもたらす池田氏のパワーには驚嘆せざるを得ない。

今回は、その池田大作という人物の人間性を解明する中から、学会の根本的な病理を検証したい。

公称550万部の創価学会の機関紙・聖教新聞は、これまでの連載でも触れたように敵対者への口汚い誹謗・中傷記事で溢れている。しかし、もちろんそれだけではない。常に1面を飾るのは、池田大作氏の業績紹介であり、礼賛記事である。

例えば、先月(11月)1ヵ月間の同紙はどうか。この中で、勲章など池田氏の受賞関連の1面トップ記事は実に13にのぼる。名誉博士2件、名誉市民4件、顕彰状・感謝状3件、受賞4件という具合だ。繰り返すが、これはたったひと月の間である。

<ブラジル マイリンケ市SGI会長夫妻を名誉市民に>(3日付)
<人間革命の哲学が21世紀の扉を開いた 台湾各地から池田SGI会長に感謝状>(9日付)
<フィリピン キャピトル大学が決定 池田SGI会長に名誉博士第1号)(11日付)
<カリブ海永遠の美の島ドミニカ SGI会長夫妻に国家賓客称号>(15日付)

……等々である。

12月に入っても、それは変わらない。12月4日付聖教新聞には、

<非暴力 源流の国・インドで大反響 ガンジー・キング・イケダ展>という特大の記事が載っている。これは、アメリカ、パナマ、イギリス、ニュージーランド、ウルグアイなど世界中を巡回している、ガンジーとキング牧師、そして池田大作氏の偉業を称える展覧会の紹介記事だ。その展覧会が当のガンジーの国・インドで開催されたというのである。

敵対者を口汚く罵り、これまで言論出版妨害事件や宗門との激しい抗争を繰り返し、脱会者への徹底した攻撃を行なってきた池田大作氏が、よりによって非暴力・不服従″のマハトマ・ガンジーや黒人公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師と肩を並べたという展覧会なのだから、いくら創価学会が後援するイベントとはいえ、鼻白む人は少なくあるまい。

貧困の中の虚と実
日本人の美徳の一つに「恥を知る」 があることは、これまで欧米の文化人類学者が幾度となく指摘してきた。

慎み深さや奥ゆかしさという言葉でもそれは言い換えられるが、しかし、多くの日本人には、毎日毎日、自らが全権を握る機関紙に自分が勲章や名誉称号を受けたことを写真つきで大々的に報じさせ、あるいは世界中でノ「ガンジー・キング・イケダ展」なるものを開催させる池田がどう映るだろうか。少なくとも彼が、その「恥を知る」日本人の特性とは無線な人物であることだけはお分りいただけるだろう。

いずれにせよ、他の宗教団体指導者と最も乖離しているのは、池田氏の異様なまでの勲章へのこだわりや名誉欲、そして自己顕示欲である。それが何に起因するかを知るには、やはり彼の生い立ちから遡らねばなるまい。

池田氏が産声をあげたのは、1928年1月2日。現在の大田区大森北2丁目あたりだ。海苔業者、池田子之吉・一夫婦の第6子(五男)、本名・大作(のち大作と改名)として生を受けた。

頭脳も肉体も取り立てて誇るべき点のなかった池田少年は、極貧の少年・青年期を送っている。

創価学会側が出している『年譜・池田大作』(第三文明社刊、以下『年譜』と略)によれば、7歳頃から、父・子之吉がリューマチで寝込むようになり、この後、家業の海苔作りを手伝い始めたと記述されている。

兄たちの出征でますます貧しくなった池田少年は、午前2時に起床して、海で海苔張り、4時から新開配達、学校が終われば、海苔はがし、夕刊配達、夜は海苔のごみとりといった生活を送る。尋常小卒業後は、後に萩中国民学校と改称される高等小学校に進学、卒業後は、新潟鉄工所に勤務。強制疎開や空襲によるバラック住まいなど、池田家の貧困生活は子沢山だっただけに厳しかったようだ。

地元に残る数少ない小学校時代の同級生によると、「昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ」

戦争が終わっても、池田青年の極貧生活は変わらかった。

その貧しさは、まだ2代会長戸田城聖氏の弟子時代の池田青年が、東大の宗教学者・小口偉一氏に答えたインタビューでも窺える。

<小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性もので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(略)三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、給与もなく乞食同然で苦しくてしかたなかったんです。(略)信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうといわれています)(56年・『新心理学講座4宗教と信仰の心理学』)

当時、池田氏が住んでいたアパート、青葉荘の元管理人(78)が述懐する。「池田さんは、ここに住んでいました。当時、アパートはコの字型に3棟ありましてね、その一つの東向きの4畳半に住んでましたよ。結核で一時期酷かったようです。祖母が熱にうなされる池田さんに薬を持っていったこともあるそうです。冬の寒い日、熱があるので、池田さんが窓を開けて、鏡だけそこから出して寝ていたこともあったと開きました。当時すでに宗教に人っていて、経を唱える声が大きくて注意したこともあったようです」

極貧の上、結核にまで侵されているのでは、その生活の悲惨さは想像を絶するものだっただろう。

ジャーナリストの溝口敦氏は、『池田大作ドキュメント 堕ちた庶民の神』で、

<ふつう新興宗教に入信する動機は、一口に病・貧・争といわれるが、池田はそのすべてを体験したわけである>と指摘しているが、池田氏の特異な人間性は、こういったどん底の環境の中で形づくられたと思われる。

先の『年譜』は、池田氏と創価学会の出会いを以下のように記している。

<47年(19歳) 8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会>)

この時、池田氏は、戸田の人柄に感銘して突然立ち上がり、こう述べたという。

「先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます」

さらに、即興詩を披露して感謝の意を表したことになっている。

これは、学会・池田氏の「正史」だが、池田氏の貧困からの脱出ストーリー、学会への入信、さらに現在に至るサクセス物語には、しばしば手が入れられ、美談に仕立て上げられている。実は、この戸田氏との出会いも虚偽である。

ここに登場する三宅宅での出会いを詳細に語りうる人物がいる。その家の娘・三宅妙子さんだ。三宅さんは父親が地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。そこには多くの信者が集った。池田青年は確かに妙子さんの姉が誘ってきた3人の小学校時代の同級生の〕人として、座談会に現れてはいる。が、「いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした」と妙子さんはいう。

「『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい″と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした」

金融取り立てで辣腕
創価学会に入信し、戸田と出会った池田氏は、やがて権力への階段を駆け上がっていく。

上の名刺と写真をご覧いただきたい。大蔵商事 − 現在の池田氏を語る上で、避けて通ることのできないキーワードである。当時、戸田が自分の愛人らを役員に据え、小口金融、今でいう消費者金融の大蔵商事を設立、ここでメキメキ頭角を現したのが池田氏だったのだ。池田氏は、この大蔵商事営業部長という職をきっかけに一気にそれまでの貧困から抜け出し、創価学会第3代会長への道を実き進み始めるのである。

創価学会元教学部長の原島嵩氏が振り返る。「大蔵商事というのは、今のサラ金の原型とでもいうものです。利回りがいいという売り文句で資金調達をし、それを貸し付ける。貸付先の多くは個人、会社もあったようですが、いずれにしても学会員たちでした。彼はそこで、資金調達や取立てに殊腕を振るい、やがて学会を資金面で牛耳っていったわけです」

どの世界でも、財布の紐を握るものは一番強い。

小川頼宣・創価学会本部元広報部副部長がいう。「戸田城聖第2代会長は金の面は自分で何とかしようとして、大蔵商事など金貸しや信用金庫などを随分とやったんです。その尻拭いと言うか、酷な言い方をすれば金貸しの手代をしていたのが池田大作です。彼も当初は好きでやっていたわけではないと思うのですよ。しかし、彼には才能があったようで、池田がここ金あるよ″という家には、見た目は貧乏な家でも必ず金があった、ということを古参の幹部から開きました。逆に門構えの立派な家の前でここはどうだ?″なんて聞いても、池田がここにはない″と言えば、その通りだったそうです」

先の池田氏の小学校時代の同級生は、大蔵商事に入った頃の池田氏をこう語る。「昭和25年に池上でやった最初の同窓会に現れた時だったな。あの時のことは今でも忘れられない。昭和17年卒業組は今昔会という同窓会を開くんだけど、その時、池田は遅刻してきた。同窓会に顔を出したのは後にも先にもその時だけだよ。遅刻してきたのに、恩師に挨拶もせずに、どっかりと席をおろして、いきなり演説を始めたんだ。大きな声で。みんな驚いたよ。遅刻してきたのに、いきなりですからね。ひとしきり自分の話が終わったら、初めておっ先生、元気か″なんて片手をあげた。田中角栄みたいなあれだよ。目立たないだけのあの男が、いつの間にかそういう尊大さを身につけていたんだ」

大蔵商事時代の彼が、水を得た魚のごとく活き活きとし、さらに周囲が驚くほどの尊大さを身につけ始めたのは注目に値する。

やがて戸田から信頼を得た池田氏は本部の青年部を経て、参謀室長に抜擢されることになる。池田氏は後に、大蔵商事時代について、こんな発言を残している。

「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った。鶴見で、まったく未開の所へ地盤をつくりながら、同時に学会員を起してきた。私は何もないところから闘った。当時は戸田先生が世界一だと云っても通用しない。本当に苦戦の連続であった」

「戸田先生は葉っぱを御札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布の為ならば葉っぱを札にしてみせる、.と云う戸田先生のきょう信が今日の学会を築いた。それだけにきびしかった。学会はこの精神を忘れてはならない」(いずれも68年2月10日の『社長会』にて)

この高利貸し時代は、あらゆる面において、今の池田氏をつくる基となったことは間違いない。

そして58年4月、肝臓と糖尿が悪化して戸田が鬼籍に入った後、池田氏は権力闘争に勝ち抜き、60年5月、第3代創価学会会長に上り詰めるのである。

池田氏はよほどこの大蔵商事時代に触れられたくないのか、先の『年譜』でも、<・50年(22歳) 11月27日 この年の秋より戸田城聖を顧問として営業を開始していた大蔵商事の営業部長となる>と、簡単な記述があるのみだ。

やはり、「消費者金融の営業部長」の肩書は、「池田博士」 にはあってはならないものなのだろう。

怨念とコンプレックス
長い長い池田氏の人生を語るにはとても紙幅が足りないが、彼の人生を振り返ると少年・青年期の貧困や病気、そして学歴へのコンプレックスや怨念が権力を手中にした途端、それまでの鬱憤を晴らすかのように一気に解き放たれたように思えてならない。

会長就任の5年後、37歳の池田会長にインタビューした評論家・高瀬広居氏の『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』(65年)の一節は興味深い。

<池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェア一にアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。

「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」

同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ>

何年か前までは、拭い難いコンプレックスの只中にいた青年が、短期間にこれだけの言葉を吐くほど変貌したことに驚くのは、筆者だけではあるまい。そして同時にこの37歳という年齢で、すでに池田氏を諌める人物もいなくなったのは、学会にとってだけでなく、池田氏本人にとっても不幸なことだったに違いない。

池田氏、そしてその周囲は、その後、池田神格化″のために、滑稽なまでにあらゆる手を講じるようになるのである。

元学会幹部の解説では、「日蓮大聖人が修行したという由緒ある千葉県の清澄寺というお寺では、寺を初めて訪ねた池田氏が、境内にある杉の大木をなでながら久しぶりだな″と呟くエピソードがあります。池田先生は700年前の日蓮大聖人の事を知っていらっしゃる。きっと大聖人の生まれ変わりに違いない、と会員に思わせるわけです。しかし、その木は実際には樹齢400年だったそうです」

また、池田氏はよく会員の前でピアノを弾くが、これも鍵盤を叩くだけで、実際には自動演奏のピアノだったり、うしろからメロディーを流しているのだそうだ。それでも女子部員たちは感激で、涙、涙なのだという。「池田が訪れる会場周辺の花を咲かせるという古典的な演出もあります。期日に合わせ、地元の人が何週間も前からドライヤーで花の蕾を温めるのです。多くの会員が梯子を持ち出して延々とその作業を行い、見事、満開の桜を咲かせたこともあります。先生のお陰で一夜にして桜が咲いた、というわけです。池田は見事だ。よくやったね″と満足気に言い、それを開いて会員達はまた涙を流すのです。魚など1匹もいないドブ他に事前に鯉を放流して池田に餌を撒かせ、ここには魚はいないのに、先生が餌付けすると蝕まで現れてしまった″と会員達を感激させた例もあります」(同)

冒頭にも触れた異常な勲章や博士号のコレクターぶりといい、池田氏がここまで自分を神格化する根本は一体なんなのか。

前出の原島嵩氏によれば、「やはり根底にあるのは池田のコンプレックスでしょう。例えば、彼の学歴は富士短大中退です。しかし、20年近く経ってから、卒論を桐村という教学部の幹部に書かせてまで卒業しました。幹部には東大卒や早慶卒なども多いのですが、彼らを前にして お前たち、馬鹿だろう″などといってははい″と答えさせ、悦にいっていましたね。最高学府を出た人たちをひれ伏させることに彼は喜びを感じるわけです。そしてもう一つは、権力へのコンプレックスです。彼は57年の参院補選で選挙違反で逮捕(大阪事件)されたわけですが、この時に権力の恐ろしさを学び、復讐を誓い、それが今の行動につながっているのだと思います」

こうして独裁者となった池田は、折々にこんな発言を残すようになる。

「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちやくちやな世界であります。私ども創価学会員は、位もいらない、有名でなくともよに、大臣もいらない、また権力もいらない」(63年8月3日付、聖教新聞)

「勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。(中略)反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ」(埼玉指導 89年3月12日)

「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい。(略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(94年9月2日付、聖教新聞)

「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」(96年11月3日 『創価同窓の集い』にて)

その言葉の激しさには、やはり驚嘆させられる。創価学会が持つ、敵対者への激しい憎悪や復讐心は、彼の屈折した半生から出てきたものと思わざるをえないのだ。

日本支配の欲望
「彼特有の他人や敵への異常な攻撃性というのは、持って生まれた性格の他に自身の極貧、病弱体質、能力の凡庸さへのコンプレックスからくる世間への怨念が影響していると思います」

というのは、ジャーナリストの乙骨正生氏だ。

「池田氏は口癖のように自分は戸田先生の復讐のために立ち上がった″師である自分が迫害された時は、自分の仇を討ってくれ″と言いますが、これは自分を認めようとしない世間への強い恨みに満ちたものだと思います。海外から何百という勲章をもらおうと、池田氏をよく知る日本では、静岡の富士宮市の名誉市民以外、なんの称号ももらえないのです。海外の大学から名誉教授の肩書をもらい、様々な勲章をもらって悦にいっているのは、いまだにそのコンプレックスを克服できない証拠ではないでしょうか」

宗教学者の山崎龍明氏(武蔵野大学教授)も、やはりコンプレックスをキーワードに、こう総括する。

「オウムの麻原もそうでしたが、私もやはり池田氏を考える場合にこの言葉が第一に浮かびます。大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴もない彼が、社会的に認知されている人をコントロールできる快感を覚えたのではないでしょうか。彼らの共通点はエリートを支配することに喜びを感じることです。池田さんは実は非常に小心で、自信のない人だと思います。自信あるリーダーというのは、相手を一方的に支配しようとはしません。気が小さいからこそ、怖いのです。しかし、問題はそのリーダーに率いられ、肥大化した集団が信者どころか、日本全体を支配しようとしていることです。宗教、教団が持っている暴力性、.排他性、差別性というものは物凄く強い。ヨーロッパの歴史を見れば分ると思いますが、肥大化したこういう集団を動かした時には無限の力が働き、人間一人一人を蹂躙していくことは歴史が証明しています。排他、除外というものは、宗教によって美化されます。普通の組織、政治とは違った、宗教自身の持つ恐ろしさを忘れてはなりません」

日本人は、この特異な人間性を持つ人物にわが国の将来を託すのだろうか。それは果して国民の総意なのだろうか。

衆院でわずか34議席をとるだけの政党と、その事実上のオーナー・池田大作氏に国の政策を壟断されることを容認するとしたら、それは民主主義の放棄に等しい行為なのではないか。

次回は、この特異なカサスマが亡き後、この巨大教団がどこへ進むのか、その将来を検証してみたい。(次号につづく)

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コメント
1. 2021年4月02日 19:06:57 : pcTmKhup28 : ODl4eDYyN0N0SjI=[11] 報告
大阪・太閤園の買い手は創価学会 藤田観光から3月に
https://www.msn.com/ja-jp/news/money/%E5%A4%A7%E9%98%AA-%E5%A4%AA%E9%96%A4%E5%9C%92%E3%81%AE%E8%B2%B7%E3%81%84%E6%89%8B%E3%81%AF%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A-%E8%97%A4%E7%94%B0%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%8B%E3%82%893%E6%9C%88%E3%81%AB/ar-BB1fdZVl?ocid=msedgntp

経営難の藤田観光が売却方針を示していた大阪市都島区にある老舗宴会場「太閤園」について、買い手が創価学会だったことが分かった。購入は3月22日付。地元では有名な挙式スポットでもあり、ゆくえが注目されていた。

 創価学会は朝日新聞の取材に「仲介業者の紹介があり、取得した」と認めた。一方で使い道については回答を控えており、「いずれ発表する」としている。

 藤田観光は、東京で「ホテル椿山荘東京」を運営するほか、ワシントンホテルやホテルグレイスリーなどを全国で展開。コロナ禍で業績が低迷し、2020年1〜12月の決算で純損益が過去最大の224億円の赤字になった。債務超過の寸前まで追い込まれ、資金確保のため太閤園の売却を余儀なくされた。

 太閤園の開業は1959年。明治時代に関西財界で活躍し、藤田観光のルーツにもかかわる藤田伝三郎氏の邸宅跡地に立つ。

 2万平方メートルを超える日本庭園に築100年余りの料亭がある。藤田観光は今年2月、売却方針と6月末での営業終了を発表したが、売却先は公開していなかった。

2. 2021年5月10日 12:14:01 : 5r2jaNkEqM : bXRYRDR4YVpxUDY=[4] 報告
2020年10月26日 23時56分07秒 | 創価学会
戦時中に戸田城聖が神札を受け取ったとされる画像があります。

日蓮正宗の信者のサイト
toyoda.tv
toyoda.tv/tutyo.htm

日蓮正宗の信者のサイト
破折情報館 公明党の集団的自衛権容認と戦時中の創価学会

この画像は初めてみました。現物を見たわけでないので本物かは分かりませんが、過去記事で戸田が戦時体制を翼賛していた事実を複数記事にしました。

例えば
「学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと」
で検索すると13000件。
「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発」あたりで検索すると48件ぐらい見つかります。
「皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること」で検索すると50件ぐらい見つかります。

池田の人間革命の内容は全くの嘘っぱちだったことになります。
また、学会指導として語られる、軍部政府と戦った、とかの数々の美談は全くの嘘になります。

富士宗学要集9巻は所持していたかいなかったか、本が埋もれて分かりません。
富士宗学要集は改版されているので、私の所持する版に記載があると良いのですが。

筆跡が違う、との意見が既にネットにありますが、昭和創価版の御書の盗用剽窃の件を思い出してください。
堀日亨が最終的な執筆、監修したのではなく、O.Jが事実上の最終的な執筆、監修し(盗用)であり、他に学会教学部が後半を盗用剽窃し、全体を堀日亨が書いたことにして名義貸しをしました。
あの高齢と短期間でできるわけがないと思います。

上記URLの画像も筆者は別の誰かで、戸田の名前を借りたのかもしれません。


2020年11月1日
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以下のツイッタースレッドよりご隠居さんのコメントを簡単にして追記。

ご隠居さんさんはTwitterを使っています 「いわゆる「通牒」についての記事。 文字の筆跡云々とあるが、原本は「バリ版刷り」のものなので、当然のことながら戸田城聖の筆跡ではない。 「通牒」は檀徒会ができて間もないころに写真が公表された。 戦時中に戸田城聖が神札を受け取ったとされる画像。」 / Twitter

原本は「ガリ版刷り」なので戸田城聖の筆跡ではないのが当然。
「通牒」は檀徒会ができて間もないころに写真が公表された。
檀徒会が結成されたのは第一次宗門問題の前くらい。

ご隠居さんは、引用先の画像とは違いもう少し程度の良い原本を見た。
原本は紙の周辺は劣化していたが文字部分の欠損などなく、ネット上にモノクロ画像がアップされている方のものだった。
写真やコピー複写も不可だったので、その場で文を書き写し定規でおよそのサイズを測った。
ご隠居さんが昭和51(1976)年10月に、原本を出来るだけ忠実に模写したものを大学祭で展示もした。

それから3、4年後に「通牒」が知られるようになった。
--------------------

以下は話半分で読んでもらえれば良いです。

ちなみに牧口常三郎の妻の牧口クマの証言の伝聞として、
「牧口常三郎が逮捕されたのは戸田の経済統制違反、治安維持法違反だった」(趣旨)と聞いたことがあります。今の段階では噂レベルになってしまいます。
活字の証拠があるのかは分かりません。見つかれば記載したいと思います。

通牒のこと。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

以上

2020年11月1日 本記事のタイトル一部訂正。
2020年12月1日 通牒のこと。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆ リンク追記


気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り
20190111
通牒のこと。

いつもみなさん、ありがとうございます。

さて今回は昭和18年6月25日に戸田城聖氏が会員に出した「通牒」についてです。
この「通牒」については多くの方がネットや書籍等で既に述べていまして、今更私がここで言うことでもないのですけど、ご存知ない方も多いようなので私がわかっていることだけを簡単に書いてみたいと思います。

まずこの「通牒」が出された背景について。

多くの方もご存知の通り、創価学会(当時は創価教育学会)初代会長の牧口常三郎は「神札」の受け取りを拒否したと言われています。
この経緯は当局の圧力が強まりつつあった昭和18年6月初旬、牧口常三郎氏と戸田城聖(当時は戸田城外)氏は、大石寺本山に呼び出され、「学会も『神札』を一応は受けるようにしてはどうか」と諭されました。この時に二人に言い渡した人物は渡辺慈海氏(当時内事部長)、同席していたのは大石寺62世鈴木日恭氏と59世堀日亨氏でした。

大石寺側としては神札を祀ることはできませんから、一応受けるだけ受けておいて、祀らずに置いておこうというスタンスだったようですが、牧口常三郎氏がこの時、神札を受けることさえも拒否したということは彼の宗教的な純潔さを示していると言えるかもしれません。


昭和18年6月、創価教育学会会員・陣野忠夫氏は近所の人を「折伏」しようとして、その人の子どもが亡くなったことを「仏罰」と決めつけました。怒った当人が警察に訴え、陣野氏は逮捕。激しい取り調べを受け、同会の罪状が作られる起点となりました。


昭和18年6月25日、戸田氏は当局の弾圧が身辺に及ぶのを回避するため、各支部長に宛て、「理事長・戸田城外」名で「通牒」を発することになります。これが冒頭の画像になります。
以下に書かれた内容を紹介します。


「創価教育学会各理事 仝 各支部長殿
理事長 戸田城外

通牒

時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員に於ては益々尽忠報国の念を強め、会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、高祖天照大神、高宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すること。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること

六月廿五日」


溝口敦氏は著作の中でこの「通牒」について「弾圧逃れのためのアリバイ」としています。それが事実であるかどうかはともかくとしても、この通牒を読む限り、創価教育学会が戦争に反対していたわけではないことは明瞭かと思います。


堀日亨氏は富士宗学要集の中で創価教育学会に対する弾圧の項で、昭和18年6月に関して「弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し」(富士宗学要集9-431ページ)と述べていまして、6月の大石寺との話し合いの後に成された「応急策」があったことを記録に残しています。その応急策こそ、まさにこの「通牒」であり、これ以外にその「応急策」にあたるものは存在しないと思います。


この「通牒」の出所ですが、これは稲葉伊之助氏の息子、稲葉壮氏の自宅に保管されていたところを発見されたものです。溝口氏は以下のように説明をしています。


「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。」
(『妙観』平成4年5月15日付)


少し説明が必要になるかもしれません。
稲葉壮氏は稲葉伊之助氏の子息にあたります。
昭和18年7月6日、牧口常三郎、戸田城聖、矢島周平、稲葉伊之助らが逮捕された際に、それぞれの家が特高警察による家宅捜索を受け、関係資料が押収されます。


それらの資料が返還されるのは戦後の昭和30年頃と言われます。
稲葉伊之助氏の娘(稲葉壮氏の姉)は、牧口常三郎の息子・洋三(戦死)に嫁いで縁戚関係がありました。その関係から稲葉壮氏は当局より稲葉伊之助の資料とともに牧口常三郎の押収資料も引き渡されることになります。


稲葉壮氏は当時会長になっていた戸田城聖と連絡をとり、資料の処置を相談したようです。結果として稲葉氏が保管する形となりました。


その後、昭和35年に池田大作氏が会長に就任すると柏原ヤス氏を通じて、牧口関連の資料を創価学会に引き渡してほしい旨の連絡が入ります。この時に引き渡し漏れが生じたのか、あるいはもともと稲葉伊之助氏の資料に存在していたのかわかりませんが、ともかく「通牒」は長らく稲葉氏の自宅で保管されることになります。それが後年、溝口敦氏の調査でガリ版刷りの「通牒」の実物が少なくとも3通現存することが判明しました。


先述しましたように、この「通牒」を見れば、当時の創価教育学会がなんら戦争に反対もしておらず、「米英打倒」を「切望」していたことが文面から明確にわかります。
大石寺が神札を受ける判断をしたのは、当局の弾圧を回避するための選択だったのだろうと思います。その意味で、牧口氏の神札の拒否は彼の信仰がある意味で純粋だったことを示しているとも言えるでしょう。
しかしながら、それによって戦争になんら反対の意志を会として表明していなかった事実を覆い隠すなら、それは単なる歴史の改竄であり、歴史修正主義と変わらないように私には思えます。


「戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/10/20/000000

「興亜聖業とは」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/10/24/000000


参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年


20181020
戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞。

いつもみなさん、ありがとうございます。

さて創価学会の第2代会長・戸田城聖氏は戦時中に15年戦争に対してどのような認識を持っていたのか、当時の史料から考えてみたいと思います。この当時の貴重な史料を提供してくださった方に感謝申し上げます。ありがとうございます。
冒頭画像に挙げたのは昭和16年発行の『小国民日本』第3号の巻頭言と目次、表紙です。この巻頭言を戸田城聖(当時は戸田城外)氏本人が書いています。


ここでの戸田氏の巻頭言全文を引用してみます。なお漢字の旧字体は適宜改めました。


「我が国土の成立ちをたづねると、天御中主神が天瓊鉾(あめのぬぼこ)を霧中に振り給ふて、その刃先より滴りたる水滴が、大和島根の大八洲国を造ったと伝へ、また神武天皇建国創業の歴史も、南海より大和へ御東征の水師を進められたのに始まっている。
このやうに我が日本は、太古よりその母なる海に育まれ、海に親しんだ時代は進歩発達し、海に疎い時代は進展が歩みを止めつつ、今日まで成長してきたことを私達は歴史によって知っている。
海は我が国運進展の母体である。海は、太平洋は、我が生命線である。その太平洋いまや波高からんとする時、私達に心から安心を与へてくれるものは、沈黙の我が無敵海軍の厳たる姿である。朝に夕に、波濤を衝いて我等の祖国を護る輝く帝国海軍に、心からなる感謝を捧げようではないか。」
(戸田城聖「巻頭言・海国日本の海軍」『小国民日本』第3号より、日本小学館、昭和16年6月1日)

一読すればわかる通り、日本の帝国海軍を讃嘆し、「心から感謝を捧げよう」という内容です。ここから考えれば戸田城聖氏は15年戦争(当時は日中戦争)に明確に賛意を示していたということができるでしょう。
この年代は昭和16年であり、治安維持法及び明治神宮への不敬罪で牧口氏とともに逮捕される2年前のことであり、この時の戸田城聖氏は明確に戦争に賛意を示しており、なんら戦争反対の意志を示していなかったことはここからも明白であると思います。

追記:
今回の記事を書くにあたり、投稿者から日本小学館の当時の数少ない史料を提供して頂きました。本当にありがとうございます。

興亜聖業とは。

いつもみなさん、ありがとうございます。

さて冒頭の画像は、2018年10月20日のブログ記事にて紹介した日本小学館発行の『小国民日本』昭和16年6月号の広告のページです。

※前回の記事はこちらをどうぞ。
「戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/10/20/000000

冒頭画像に挙げた広告のページにおいて、戸田城聖(当時の名は戸田城外)氏が当時ベストセラーとなったと言われる『推理式指導算術』等、著作の紹介をしているのは、会社の設立者、また当該雑誌の主幹として自然なことかと思いますが、非常に気になったのはページ上部に書かれた一文です。
次のような一文が書かれています。

「さあ真剣に勉強して興亜聖業達成の大業を翼賛致しましょう!」

ここで書かれている「興亜聖業」とは、当時の日本で使われていた言葉で、日本が東アジア政策として掲げていた大東亜新秩序の建設事業のことを指します。

昭和16年6月と言えば、日中戦争の最中でしてちょうどこの頃に江北作戦、中原会戦も行われていた時期です。またこの昭和16年の12月に日本は大東亜戦争に入っていくことになります。

つまりこの一文は昭和16年6月当時、戸田城聖氏は日中戦争について、それが「興亜聖業」であることを認め、日中戦争そのものが東アジア新秩序建設の「聖業」であるという認識に立っていたことになります。

現在の多くの創価学会員の認識では戸田城聖氏は牧口氏とともに、15年戦争そのものに反対していた反戦平和主義者のように考えられていますが、少なくともこの広告の一文を読む限り、昭和16年6月当時、戸田城聖氏は日中戦争を「興亜聖業」として認め、「大東亜新秩序建設のために勉強をしよう」と子どもたちに少年誌で語りかけていたことになろうかと思います。


公明党の集団的自衛権容認と戦時中の創価学会
• 2014-07-07(00:55) :
• 創価学会 :
公明党が集団的自衛権を容認することは、我々法華講は予測できた。
容認が早かったのは、飯島勲内閣官房長官がワシントンでの公園で、公明党と創価学会の関係を触れて、「政教分離」をめぐる憲法解釈変更の可能性に言及したことが、効果的な恫喝作用になったのであろう。
これを見直されたら、公明党の存亡に関わる。

公明党は自分の身を護る為に容認したのだ。
そんな安部政権だが、この安部総理は創価学会員に取っての聖書である「人間革命」第12巻に安部首相の父
・晋太郎が登場してくる。父親の岸信介首相の秘書をしていた晋太郎が、昭和三十三年三月に総本山の大講堂の
落成式の際に行われた学会イベントに、首相代理として出席したエピソードが書かれている。
代理とは言え時首相が創価学会の行事に関わったのが嬉しかったようで聖教新聞にも大々的に取り上げられている。
権力者大好きの創価学会池田大作の名聞名利ぶりが如実に現れている。

創価学会が戦時下に御宗門が「神札を祭った」と誹謗しているが、むしろ、その逆である。
当時の軍部の追及を逃れる為に学会自ら「神札を受け取る」通達をされているのである。


上の写真の「通牒」の内容

「創価教育学会理事 各支部長 殿 理事長 戸田城外 通牒
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め各員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を
強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。衣って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。

一、毎朝天拝(初座)に於いて総本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国(ちょうこく)以来代々の鴻恩(こうおん)を謝し、奉り敬神の誠を尽くし、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。

一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。

一、感情乃利害をを伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可(べ)からざること。
一 皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
以上
六月廿五日」

これを読めば、公明党の支持母体である創価学会は平和と文化の組織ではなかった事が分かる。
当時の日蓮正宗宗門を「謗法容認」呼ばわりできない。
この通牒は発せられてから初代会長牧口氏は旅行先の伊豆で逮捕され、続いて戸田理事長ほか21名の幹部が相次ぎ逮捕されたのである。

後に総本山大石寺の掘日亨上人は、この戦時下の学会弾圧事件を『富士宗学要集』の法難編に「第13章昭和度の法難」として加えられているが、同法難編の冒頭の文に、
「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信 行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し。本編に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし」(「宗学要集」九巻247頁)

と指摘されている。

まさに、学会弾圧は、国家神道中心のファシズムが世を支配している異常な状況下で、「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の」言動に走った 牧口氏以下学会員達の行きすぎた言動(神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等)が、いたずらに招き寄せた弾圧であった、という他はない。
投獄された牧口氏は、一年有半を経た昭和19年11月18日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じた。そして、牧口氏の一番弟子であった戸田理事長は翌年7月、釈放された

釈放された戸田理事長は投獄されたのは御宗門の指導に従わず、掘日亨上人を謗った罪である事を認め懺悔している。
日淳上人に対する誹謗と背反、偏った布教の 在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難などと呼ぶことはとうていできえない。『佐渡御書』には、

「善戒を笑えば、国土の民となり王難に遭う。是は常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、 法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね崋山に崋山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲弄せし故に、此八種の大難に値る なり」(新編御書582頁)

と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗した罪、と明かされている。

現に、出獄の二日後(昭和20年7月5日)、戸田理事長は
「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって 平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任せしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)

と固くお誓いしたという。
その後の戸田氏は2代会長として大折伏を貫徹して御宗門を外護したのである。

今日の創価学会は池田大作のような名聞名利の者のお陰ではない。
戸田氏の総本山大石寺、御法主上人の御指南に信伏随順してきた強盛な信心の結果である。


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ご隠居さん
@Oh_My_Buddha

いわゆる「通牒」についての記事。 文字の筆跡云々とあるが、原本は「バリ版刷り」のものなので、当然のことながら戸田城聖の筆跡ではない。 「通牒」は檀徒会ができて間もないころに写真が公表された。 戦時中に戸田城聖が神札を受け取ったとされる画像。

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