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レオ・シュトラウスと宗教:翻訳と論考(2)
これは先日の『レオ・シュトラウスと宗教:翻訳と論考(1)』
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http://asyura2.com/0505/cult2/msg/385.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 10 月 21 日 07:59:44
レオ・シュトラウスと宗教:翻訳と論考(1)
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に続くものです。
今回はFrontPageMagazine.comという米国の右翼系の情報誌に載せられた、レオ・シュトラウスの直弟子の一人であるロバート・ロック(Robert Locke)の文章です。ただし原文は少々長く、段落によってはその要約・要点のみをご紹介することにしますので、全文をご覧になりたい方は元資料のほうにお入りください。また後の考察で必要になりますので、段落の番号を【 】に書いておきます。
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【引用、訳出開始】
http://www.frontpagemag.com/Articles/ReadArticle.asp?ID=1233
レオ・シュトラウス、保守主義の指導者
By Robert Locke
FrontPageMagazine.com | May 31, 2002
【第1段落、要点のみ:現代米国の知的生活の中で、運動としての学術に根ざした保守知識人のサークルが一つだけある。彼らはシュトラウス主義者と言われ、後期レオ・シュトラウス(1889-1973)の支持者たちである。彼らは現在合衆国の政治決定において重要な地位に居る。たとえば、Clarence Thomas、Robert Bork、Paul Wolfowitz、Alan Keyes、William Bennett、William Kristol、Allan Bloom、John Podhoretz、Chairman John T. Agrestoなど。】
【第2段落、要点のみ:シュトラウスはリベラリズムの欠陥を哲学的に分析した。それは近代の必然的な産物だが、ある意味で近代そのものに問題がある。シュトラウスはリベラリズムをニヒリズムへと導くものと信じた。1920年代のワイマール憲法下でリベラリズムは、後にそれを破壊し道徳的混乱をもたらすことになる共産主義者とナチスに極めて寛容だった。一人のユダヤ人として彼は1938年にドイツを逃れた。今日、我々は欧米の多文化主義の中で同様の問題が繰り返すのを見ている。イスラム原理主義が西側社会を破壊する目的を持っているのである。】
【3】シュトラウスは、アメリカは古典的(ギリシャ・ローマ的)、聖書的[訳注:キリスト教、ユダヤ教的]、そして近代政治哲学的な要素の不安定な混合の上に成り立っていると信じた。保守主義者たちはリベラリズムの欠点の重要な一部は聖書的要素を見捨てたことにあることを見逃さずに指摘する。この話は何回も話されワシントンで十分に提示されている。シュトラウスの立脚点は古典的要素の破棄に対する明確な批判である。近代の危機に対する戦いへの彼の貢献は、古典的な政治哲学の知的正当性を回復させたことだった。特にプラトンとアリストテレスである。
【第4段落、要点のみ:シュトラウスの活動は、科学主義に流れ政治哲学ならぬ「政治科学」を好む1950年代の学会にショックをもたらした。当時は古代の哲学が近代の政治問題に関与できるとは思われなかった。しかし彼は成功した。シュトラウス学派の聖杯は古代の哲学者たちを近代的な視点からではなくそれ自身の視点から理解することである。狭い近代的な視野から逃れ近代の堕落と腐敗から立ち戻ることを可能にしながら、古代的な視点を現代の政治に自由に適用するようになることが肝要である。シュトラウスは、近代の政治的な見方は人工的であり古代のそれは政治的な経験に対して直接的で正直である、と主張する。
【5】シュトラウスは近代政治哲学が基礎を置く近代的理性を無視はしなかった。彼はそれを、あまりにも高すぎて達成不可能と古代の哲学が見ていた徳性が要求するものに対する大いなる妥協である、と見なした。近代の政治哲学はより高い人間的達成のためには何の理性的な基盤をも提供せずに、安定と繁栄という適度な人間的達成の非常に固い基盤を提供するのである。彼の有名な近代性への描写は「低いがしっかりした土台」の上に作られる、というものである。(Natural Right and History)
【6】シュトラウス主義者のキー・コンセプトはシュトラウス主義のテキストである。それは平均的な読者が理解できるように慎重に書かれた一つの哲学的な著述である。いわば「通俗的な」ものである。しかし特別な少数者はその真実の(「秘伝的な」)意味を把握することだろう。その著述はそのような者を意図しているのだ。その理由は哲学というものが危険であることなのだ。哲学というものは、社会における市民的秩序が拠って立つすでに行き渡っている道徳性に、疑問を投げかけるものである。それはまた、その社会に対する人間の執着を弱めてしまう醜い真実を暴露するものである。理想的に言うと、それは同時に理性に基づいた代用品を引き続いて提供する。しかしその論理的筋道を理解することは難しく、それを読む多くの人々は単純に「疑問を投げられた」部分を理解するのみでそれに続く倫理の再建を理解することは無いだろう。もっと悪いことに、哲学が本当に倫理の理性的な基盤を建設できるのかどうか明らかではないのだ。それゆえに、哲学は凡庸な精神の持ち主の中ではニヒリズムを促進する傾向を持っており、凡庸な精神の持ち主はそれと直面することを禁じられなければならないのである。国家の高官たちはしばしばそれに気付き、そしてそれゆえに彼らは哲学者たちを迫害し黙らせようとするのである。ショッキングなことだがシュトラウスは、彼に合衆国憲法第1条[訳注:宗教、思想、出版、発言等の自由を定めたもの]の殉教者たるように教えてきた代々のリベラルな教授たちとは逆に、ソクラテスへの断罪が完全には的外れではなかったことを認めている。その哲学の危険性に対する正直さによって、シュトラウス主義者たちは近代哲学の中にある真剣さの欠落という考えを与えられるのである。それは同時に、我々の「実用的な」(イデオロギーに浸り理想を攻撃するに素早いものだが)時代の神話体系とは逆に、哲学が取り扱う信念の印でもある。
【7】シュトラウスは過去の偉大な思想家たちがシュトラウス主義者のテキストを書いたと信じただけではなく、これを承認した。それは知的な階級システムの一種である。それは支配者と被支配者、雇用者と労働者、創作者と観客といった階級制度の写しである。それらは政治、経済、そして文化の中に存在するものだ。彼は近代の政治哲学――それは何百年もかけてリベラルなニヒリズムの形で実を結んだ毒の果実なのだが――の腐敗の根本が、この階級の区別を廃止しようとしたことにある、と見定める。それは精神のボルシェビズムの一種なのだ。
【8】ある人々は、シュトラウス主義のテキストなど存在するのか、と疑う。中世の偉大なユダヤ人アリストテレス学者であるモーゼス・マイモニデスに倣って書くならばこうである。私は、私が哲学を学ぶ中で実りのあるコンセプトを発見したと言うことができるだけである。もっと平凡なレベルでは、私のような勇敢な編集者でさえもはっきりしたことは印刷できない。だから私は時に応じて私のコラムを明らかに暗号で書く。そして他の著者たちも私に同様のことを語っているのである。
【9】シュトラウスによると、マキャベリが近代政治哲学を導く最大のターニング・ポイントである。そしてマキャベリの罪は秘伝的な真実をあからさまに語ったことなのだ。彼はすべての聴衆に、悪事を罰する特別な神などいない、と語った。マキャベリズムの真髄は、人間は物事を何でもやり遂げることが出来る、ということである。このために彼は、天罰を与える神が掲げたキリスト教的な徳に背を向けた。マキャベリ以前の哲学者は、ギリシャ・ローマでもキリスト教のものでも、良い政治的秩序は人間の特性に基づくものでなければならない、と教えた。マキャベリは、十分な徳を達成することは不可能であると信じ、だからこそ良い政治的秩序はあるがままの人間に、たとえば凡庸さや悪徳に、基づかなければならないと教えた。このことは決して現実主義ではなく、犬儒主義と言うことさえ難しい。それは、社会がどのように組織されるべきかをいうためのある意図的な選択に等しいもの、そして人間の徳性の意図的な軽視である。それは、人間をあるがままに、欠陥も何もかも、冷たく描写することに関心を持つような、新たな政治科学の訓練を導くものである。それは結局はインマニュエル・カントが述べた次のようなものを導く。
「我々は悪魔の種族のための憲法を考え出すかもしれない。彼らが知的でありさえすれば。」
【10】古代のものの見方によれば、あなたはそのようなものをどこで見出すこともない。なぜなら市民的な特性を持った人々だけがある憲法に従うだろうからだ。近代的な視点は必然的に、価値観の自由な社会科学と、それが関わる対象に「価値判断を押し付ける」ことを差し控える技術的な操作を通して社会問題を解決しようとする社会政治学を導くことになる。
【11】マキャベリ主義的な見方の中にある隠された重要なステップは、トーマス・ホッブスとジョン・ロックによって理論的に厳密化されそして政治的に受け入れやすくされた荒っぽい知的な動きであったが、人間を自然の外にあるものと定義することである。シュトラウスはこれを近代の鍵であると見なす。人は自然の対極に存在し自分の満足に仕えるようにそれを征服する。自然は人間にとっての善いものを定義しない。人間がそれを行うのである。この見地は、政治哲学の中心課題である自由と満足(「繁栄」と解釈せよ)を作るための、近代の嗜好の基盤になっている。一方、古代人は徳性をその中心とした。人間が自然の外にあるものなら、それは自然の目的論を持たない。そしてそれゆえに、自然の徳性も持たない。人間が自然の目的論を持たないから、人間に何かを与えるようなもの、たとえば神などは、疑いの対象となる。そしてこうして近代性は無神論へと傾いていく。同様に、人間の義務は、その権利とは逆に、抜け落ちていく。その自然な社会性も同様である。自由の哲学的な価値は無目的なものとなり、それは最終的に、近代的生活の不和、退廃、そしてニヒリズムを登場させることになるのだ。
【12】興味深い疑問は、シュトラウス主義のテキストについて、もしそれらが秘密のままにしておかねばならないものならば、どうしてシュトラウスが「豆をこぼす[訳注:秘密を漏らす]」ことを選んだのか、ということだ。その答えは、我々の危機の厳しさを見て、彼がそうしなければならないと感じたからである。認められているように、シュトラウス主義のテキストはその秘伝的な意味に関する粗野な主張の形をとる知的な害毒に対して敏感なものである。すべてを知るエリートを好まない者にとって遠ざけられていることは言うまでも無い。しかし、このエリート主義的な善い社会の見方に関してあまりに腹を立てすぎる前に、これがカトリックと正教会、そして正統ユダヤ教によって何世紀もの間培われた視点と極めてよく似ていることを思い起こすことが最良である。他の宗教については言うまでも無い。詳しい真実を知る少数の人間がおり、大衆は彼らに必要なことを教えられるだけでありそれ以上のものではない。啓示[訳注:預言者や神官などによる神のお告げや黙示などを指す]の外にある自由な詮索は危険である。しかしながらシュトラウスは自由な詮索を実践して、シカゴ大学の学費を払える者には誰にでもそれをどのようにするのかを教えた。もちろん彼は、過去に存在したと彼が主張する過去に戻そうとする単なるエリート主義者ではない。彼はどのようにしてもそれが不可能であることを強く示唆しているのである。
【13】すると善についての彼の肯定的な教えは何だったのか。ごく簡単に言うと、シュトラウスは、自然な状態で政治的であるものとしての人間というアリストテレス的な概念に我々を戻してくれるだろう。政治は、それに関する人間の思考の以前にある自然の善を本質としている。もし人間が生まれつき政治的なものであれば、政治の善もはやり元々から存在するのである。政治の善は、人間が政治集団の仕事を為すために行わなければならない方法である。もし自然の善があるのなら、善なる自然の階級秩序が、そしてそれゆえに人間の自然な階級秩序があるのだ。異なった人間は異なった善を追及するのである。市民の平等は社会を機能させるためには健全なものかもしれない。しかし人間は価値において本当には平等ではない。すべての物事はそのようである。シュトラウスの主張に従うならば、保守主義者たちが社会の中で良いと感じることの多くは要するに、前近代的、そしてある意味で反近代的な哲学の中で前提とされていることなのである。我々は我々のアメリカが近代社会であることを知っているが単純に近代的なだけではない。この点だけでもシュトラウスの切符を買うだけの値打ちがあるだろう。
【14】当然のことながらシュトラウス自身の著作がシュトラウス主義のテキストであるのかどうか疑う人が居ることは言うまでも無い。つまり、シュトラウスが本当は何を信じていたのか、ということだ。基本的にはこの疑問に関して二つの学派がある。それはシュトラウスが、自身がニヒリズムに対する解答を見出した、と本当に信じていたと考えるかどうか、にかかっている。古典的な政治哲学の回復が本当に説得力のある価値観を再構築するのだろうか。アリストテレスの徳が本当に徳なのか。プラトンの民主主義に対する批判は真実なのか。シュトラウスは解答を見出したのか。彼は自分でそう思っていたのか。あるいは、相対主義とニヒリズムの拡大から遠ざかっているために知識人たちのための新たな神話を紡いでいただけなのか。勇敢なシュトラウス主義者の中にこの両方の見方をする者が存在するのだ。
【15】シュトラウスは、哲学の偉大な競争相手は啓示による宗教であると信じた。彼は理性と啓示はお互いに相手を論破できないと信じた。彼は宗教が一般の人々にとって巨大な必要性を持っていると信じた。彼に言わせると、宗教は本質的に啓示された法則である。シュトラウスはキリスト教に対して二面的な態度を取った。一方では、キリスト教はアメリカにとって唯一の実践的な宗教である。他方では、キリスト教はその内部に厄介な要素を持っている。それは理性と啓示が並び立ちうるという聖アクイナスの主張である。彼が考える最も重要な真実の姿とは全く逆である。キリスト教がギリシャ哲学と聖書の一神教の合成物であることはよく知られているが、シュトラウスはこのような合成が可能であるという考えは拒否する。彼に言わせると、宗教はその根底で単純に教条的でありそれに関して理屈を言うことのできないものである。それは決して、不合理なるがゆえに信ず、ということではなく、まさに砂の中の明るく輝く線なのだ。ニーチェは正しかった。人間は嘘を必要とするのだ。でないならば、我々が上に見てきたように、たぶんある種の人間は必要としないのである。
【16】シュトラウスは無神論者であった。これが彼に関して私の最も戸惑うところである。彼は決して神が存在しないという証明を行わなかった。より厳しく言うと、彼は明白に(ユダヤ・キリスト教の)宗教は嘘であると確信していたのだ。単に不明だと言うのではなく。もちろん彼はこのことと、その同じ宗教に対する熱心な弁護とを結び付けている。この弁護が保守主義者たちにとって彼が魅力的である理由の一部を成しているのだが、しかしそこには不必要な何かがあり、無神論者であることは不可知論者であるよりもむしろもっと危険なものがあるのだ。不可知論は、シュトラウス氏が神の不在をどのように証明したのかという質問をするとか、無神論が授けてくれる天罰を受けない特権などでその支持者を魅了するようなこと無しに、彼の教えの残りの部分にはぴたりと当てはまるかもしれない。神を信じない保守的知識人にとって、もし神がその姿を現すようなことになるなら、その点についてあまり態度を明らかにせずに全能の神とあまり多くのトラブルを起こさないようにして生きることのほうが、ずっと良いのかもしれない。私の見方では、これは保守的な思想家たちが取り組まねばならない物事の存在を前にしての自制と謙虚さの究極的な基盤なのだ。怠け者の無神論者や怠け者の有神論者の見解でも無い本物の不可知論は、極めてまれでありそして知的なバランスをとるのに困難なものであり、大変な知的な均衡とバランスの取れた確率と複合し類似した価値観の言葉で合理化するための技術が必要となる。このようなことはシュトラウスは教えない。
【17】シュトラウスに対して反アメリカ的な感覚を根深く持っていたというようなデマが投げかけられている。これは、彼が我々の社会が基盤を置いていると教わっている近代の自然権に対して彼が最も深く批判的であるからだが、しかしこれについて私は主張したい。このことは我々の社会の基盤に対する不完全な見解である。そして彼は、彼が近代の自然権が自らを破壊し支持できないようになってしまうと考えるからこそ、それを批判しているだけなのである。シュトラウスが言うように、「我々がリベラルな民主主義の友人であるからこそそれは我々にリベラルな民主主義の追従者になることを許さないのである。」彼の現代政治に対する公的な論評の中では彼は、第2次大戦中にはナチス・ドイツに反対し冷戦中にはソビエト・ロシアに反対する、伝統的な愛国的保守主義者だった。ほとんどの西側の知識人たちが、たとえあからさまに同調的ではないにしても、危険なほどに間違っていた最中に、彼は勇敢にも反共産主義的だった。否定できないことは、彼が米国を、リベラリズムの最も前進したものであり、それゆえに彼がそれとの戦いに生涯を捧げたニヒリズムの方に最も動かされやすい、と見ていたことなのだ。しかし同時に彼は米国を、部分的には古典的なそして聖書的な政治上の知恵を基盤としていると見ていた。これが解答を与えるのである。彼が米国を世界の唯一の希望であると見なしていたことに疑いは無い。彼から引き出すことの出来る教訓の一つは、リベラルな近代性の本質があまりに問題が大きすぎて、リベラリズムがたとえロック風の、(19世紀的な意味で)古典的な、あるいはポストモダンな形をとっていようが、米国がそのリベラルな近代の本質をまかないきれない、ということである。
【第18段落、要点のみ:近代の必然的な帰結として世界中に自由と平等を広めるというグローバリストに対して、シュトラウスは、世界中の民族を公平に治めることは不可能だとして反対した。彼は友愛のような世界市民性は不可能で、普遍的な愛など詐欺であると信じた。良い人々は自らの国を愛するものである。国連は戦争を防止することに失敗し続けている。】
【第19段落、と第20段落は「シュトラウス学派」の自画自賛なので、省略】
【引用、訳出、終り】
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●なるほど、さすがにシュトラウス先生の直弟子だけあって少しは哲学の香りがしてきた。しかしまあ、木はその実を見れば正体が解る、というものです。理屈と膏薬はどこにでも張り付き、飾り物はどうにでもつけられるわけです。
著者であるロバート・ロックはシカゴ大学でのレオ・シュトラウスの直弟子のようですが、【6】【12】【14】の段落で、「シュトラウス主義のテキスト」の秘密に関して、実に長々と言い訳がましい説明をして、そのうえで【6段落】で「通俗的(exoteric)」「秘伝的(esoteric)」なんて言葉を使い、【8段落】で「だから私は時に応じて私のコラムを明らかに暗号で書く。そして他の著者たちも私に同様のことを語っているのである。」などと、一見高級秘密結社的な神秘的雰囲気をかもし出そうとしているようです。
前回の文章ではカナダのカルガリー大学教授であるシャディア・ドゥルーリィによるシュトラウス像の一部が紹介されていたのですが、今回のものは「素人向き解説」、彼の言葉で言うならば「通俗的」な説明、ということになるのでしょう。比較すると、おそらく前回の解説、つまり『ペテンの哲学』の方がよりその「秘伝的」な内容に近いのでしょう。
【2段落】で、西側社会の中にいるイスラム教徒を何とナチス・ドイツと並べているわけですが、なんとまあビン・ラディンもずいぶん出世したものだ! CIAが紡ぎ出すイリュージョンがヒトラーと対等の地位にいるのだから! しょっぱなからネタ割れしているわけで、真面目に議論の相手にするような連中ではないでしょう。9・11の内部犯行、ビル解体工事が明るみに出たらそれだけですべてがぶっ壊れる程度のものです。理屈と膏薬はどこにでも貼り付くがその「果実」は隠せませんからね。どうやらこのシュトラウス主義者集団は、上に対しては「自作自演ペテンのすすめ」をたきつけて、下に対してはどうせほとんどが知りっこないギリシャ哲学なんぞを動員して目を眩ませながらそのありがたさを吹聴して丸め込む詐欺師集団、と言ったほうが早いようです。
一方で「支配者と被支配者」に二分された世界の実現方法を支配者に売り込みながら、他方で紛れも無い被支配者である間抜けな米国右翼の読者をこのようにして煙に巻いている様子です。そして「精神のボルシェビズムの一種」(【7段落】)などのように読者の起こすアレルギー反応を計算に入れながら、彼らの「リベラル嫌い」にうまく取り入っています。まあこんな程度で米国中流階層の右派層はコロリといわされるのでしょう。
●しかしここではその政治的な側面よりも、思想・宗教に関連する見方を取り上げていくことにします。
まず何よりも、彼のギリシャ哲学の採り上げ方に注目しなければならないでしょう。ギリシャ・ローマの社会は奴隷労働をベースにして成り立っていました。奴隷はこの当時最大の資源であり、戦争は領地や市場の拡大以上に、資源強奪、つまり奴隷狩りのためのものだったのです。その基盤に立ってギリシャの民主制、ローマの共和制と帝政が存在していたわけです。そして、プラトンにせよアリストテレスにせよ、そのような仕組みを無前提に「自然」と見なしたうえで、その哲学を展開していたことになります。そしてロックは次のように書いています。
『ごく簡単に言うと、シュトラウスは、自然な状態で政治的であるものとしての人間というアリストテレス的な概念に我々を戻してくれるだろう。政治は、それに関する人間の思考の以前にある自然の善を本質としている。もし人間が生まれつき政治的なものであれば、政治の善もはやり元々から存在するのである。政治の善は、人間が政治集団の仕事を為すために行わなければならない方法である。もし自然の善があるのなら、善なる自然の階級秩序が、そしてそれゆえに人間の自然な階級秩序があるのだ。異なった人間は異なった善を追及するのである。』(【13段落】)
いやー、正直ですね、この人は。『異なった人間は異なった善を追及する』とはよく言ったものだ! あとは暴力とペテンで一方が他方を服従させるのみ、ということか。また『古代の哲学者たちを近代的な視点からではなくそれ自身の視点から理解することである。』(【4段落】)とも言っているのですが、ギリシャ哲学をとりあげたことに対する自画自賛といったところでしょう。しかし『それ自身の視点から』というのはまた意味深長な表現だ。つまり奴隷制を「自然状態」と見なす立場から、ということです。
前回の説明によるとシュトラウスは、「マキャベリに習って、彼は、もし外的な脅威が存在しないならばそれは創り上げられなければならない、と主張し続けた。」ということなのですが、面白いことにロックによると彼は、「マキャベリの罪は秘伝的な真実をあからさまに語ったことなのだ。彼はすべての聴衆に、悪事を罰する特別な神などいない、と語った。」(【9段落】)と、マキャベリが「秘密をバラした」ことを非難しています。もっともその割にはシュトラウス先生もずいぶんと「豆をこぼす(秘密をバラす)」(【12段落】)ことをやっているようです。
これについてロックは『しかしながらシュトラウスは自由な詮索を実践して、シカゴ大学の学費を払える者には誰にでもそれをどのようにするのかを教えた。』などとずいぶん苦しい言い訳をしています。当然ですが彼はドゥルーリィほどのあからさまな「秘伝のバラし方」は披露していません。これについてロックは『認められているように、シュトラウス主義のテキストはその秘伝的な意味に関する粗野な主張の形をとる知的な害毒に対して敏感なものである。すべてを知るエリートを好まない者にとって遠ざけられていることは言うまでも無い。』(【12段落】)とはぐらかし、何か「ペテンの哲学」の背後にそれ以上の深遠なものがあるかのようなほのめかし方をしていますが、私はそんなことを信用するほどお人よしではありません。何せ私は支配者に対して軽蔑と不信以上の感情を持たない被支配者の一人ですので。
またロックはこれに関して、キリスト教やユダヤ教などを採り上げて、『詳しい真実を知る少数の人間がおり、大衆は彼らに必要なことを教えられるだけでありそれ以上のものではない。啓示の外にある自由な詮索は危険である。』(【12段落】)と、シュトラウス主義の「秘伝」になぞらえて、米国で宗教に関わる者たちにも分かるように説明しているようですが、どうやらこの点だけは哲学と宗教は類似性があるようです。まさかその『詳しい真実』が「金力・権力・情報力の三位一体神」であるとか「支配者の欲を永遠に満たすためのペテン哲学」とも言えないでしょうが。
ロックは宗教に関して【15段落】で次のように述べています。『キリスト教がギリシャ哲学と聖書の一神教合成物であることはよく知られているが、シュトラウスはこのような合成が可能であるという考えは拒否する。・・・・・・・ニーチェは正しかった。人間は嘘を必要とするのだ。でないならば、我々が上に見てきたように、たぶんある種の人間は必要としないのである。』
ここで、被支配者を永遠にペテンにかけ続けるための宗教の役割について、チラリと見せてきましたね。哲学は支配者のためにある「真実」で、宗教は被支配者のためにある「嘘」である、と。【16段落】でロックが言うように、シュトラウスは『宗教は嘘であると確信していた』のです。そしてそのシュトラウスが宗教を熱心に弁護していた。まあ、当然ですが。
●最後に次の箇所を採り上げておきます。ロックは【6段落】で『哲学というものは、社会における市民的秩序が拠って立つすでに行き渡っている道徳性に、疑問を投げかけるものである。それはまた、その社会に対する人間の執着を弱めてしまう醜い真実を暴露するものである。』と言っています。ということは、シュトラウス先生の哲学による理想の社会が出来たならば、『社会における市民的秩序が拠って立つすでに行き渡っている道徳性に、疑問を投げかけるもの』がなくなる(と言うか、無くしてしまう)わけですから、それは彼の言葉に従って考えるならば、「哲学がもはや存在しない」、つまり「哲学の死滅」を意味します。「死滅に向かう哲学」なのでしょうかね。これは。
同じ段落ですが、『もっと悪いことに、哲学が本当に倫理の理性的な基盤を建設できるのかどうか明らかではないのだ。それゆえに、哲学は凡庸な精神の持ち主の中ではニヒリズムを促進する傾向を持っており、凡庸な精神の持ち主はそれと直面することを禁じられなければならないのである。』とあります。どうやら、それが嘘っぱちに過ぎなくてもそれを確かめようとして近づく者に対してはむき出しの暴力あるのみ、ということのようです。
歴史は「支配者の嘘」に対する「被支配者による暴露」の連続でした。その間、一貫して、「嘘と欲と恐怖」がこの世を支配してきました。このシュトラウス主義者の言う事が実現するならば、まさにその歴史が終焉することになるでしょう。嘘を暴露する者を無くすのですから。そして欲と恐怖だけが永遠に続くのですから。フランシス・フクヤマは、あれこれと小難しい屁理屈を効きもしない膏薬のように貼りまくるのですが、早い話が、彼の「歴史の終わり」はこのような歴史の終わりに対する願望なのでしょう。これもブッシュ政権のような強大な権力に取り入っているからこそ言える事で、バックに支配権力がなければ犬のクソほどにも顧みられることはありますまい。
私は神も悪魔もその存在を信じませんが、悪魔主義は厳然として存在します。このシュトラウスとその追随者どもが展開するのはその『悪魔主義の現代的なそして最も端的な表出』ということが出来ると思います。
(こんな文章をもしもシュトラウス主義者かその取り巻きが見たら、「だから凡庸な精神の持ち主はそれと直面することを禁じられなければならないのだ。」と叫ぶことでしょうね。きっと。)
●次回は再びシャディア・ドゥルーリィを中心にしてレオ・シュトラウスとその弟子どもを見ていくことにしますが、前回の断片的な採り上げ方とは異なり、9・11以降の世界の動きとの関連性を含めて、この悪魔主義集団の姿を見極めていきたいと思います。