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ことほど左様に、簡単に操作されてしまう我々に、「自由意志」などというものが本当にあるのだろうか。
「自由意志」という概念そのものが、悪意ある人々によって利用され、我々は単に翻弄されているだけではないのだろうか。
阿修羅には、「世論を誘導」しようとする人々がいるらしい。
前提としてイディオロギーにしろ、“こう考えるのが正しい”といったドグマにしろ、「世論を誘導」しようとする人々は「自分の考えは正しく、他者は私によって啓蒙されなければならない」と頑なに信じているという事実は否定できない。
日常的には教育の現場にも、普段の社会生活の隅々においても、こうしたネットの書き込みにおいてすらも、それは露呈している。
これは俺の主観だが、幸福な人は母の胎内に着床し、誕生し、そして誕生後の数年以内に“普遍的なこと”を学ぶのではないだろうか。
母は夫婦二人の愛の結晶として子をその胎内に宿し、子は母の胎内においても限りない愛によって育まれ、その誕生を待ち望まれ祝福され、誕生後はその存在を是認される。
是認されるどころか、人は自らの存在じたいが他者の喜びそのものであり、同時にそれが自らの喜びそのものであるという根源的真理を獲得することによって、大地にその人格の太い根を根付かせる。
他者への優しさや思いやり、人類愛、また、「人はそのままでいいんだ」という究極の理解は、自らの生を肯定されなかった人間に果たして生じるものだろうか?
その誕生と存在を肯定されるか否定されるかは、子にとって一大事なのだ。
不安や恐れは、「自らの生」を肯定されなかったところから生じる。
自殺した地縛霊は通りがかった人々に憑依し、彼らまたは彼女らの体を使い何度も何度も自殺を試みようとするらしいが、この伝説は自らの生を肯定されなかった人々の無意識に宿る“怒り”から派生したものではないだろうか。
人にこう考えさせよう、人を操作してやろうという欲求と、この地縛霊の伝説は似ている。
人は心に、“ブラックホール”を抱えて生きているのかもしれない。
他者を操作してやろう、啓蒙してやろうという欲求とそれに伴うあらゆる行為は、とりもなおさず「その存在を肯定されなかった自己」を自らもって他者を利用し、補償しようという代償行為なのではないだろうか。
自らの生が肯定されなかったから、他者の生も当然肯定できない。
これが露呈するのが苛めであり、差別であり、金銭や物質に対する執着であり、優位劣位という競争原理であり、そして“外的コントロール”をもってして人を操作しようとする欲求だ。
軍事力以前に、そもそもなぜ力や恐怖、操作により他者を屈服させようという発想が生まれたのか。
人に宿る尊厳とは何か。
それはきっと、他者によって与えられた「無償の愛」の総量なのだろう。
人は自分が愛された分だけ、その愛を他者にお返しできる。
そのレベルにおいてはきっと、自も他もない。