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(回答先: マンドコントロールを考える 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 19 日 12:56:22)
僕の自己紹介をします!
はじめまして!上野春樹(旧姓:金村)です!!!アムウエイに頑張るこんな僕を皆さん応援してくださいね!!!!そうそう、出現ポイントで見かけたら気軽に話し掛けてね!!「人生の夢」や「可能性」「アメリカンドリーム」について熱く語りあいましょう!!!よろしくですぅ!(^^)(^^)(^^) 自分の信じる道をばく進するこんな僕ですが、ちょっとはにかみ屋さん。だから写真は目隠ししてます!でも、カッコいいでしょ!ナンチャッテ!
本名:上野春樹(うえのはるき)
生年月日:昭和51年3月9日
住所:山口県光市(松村先輩と一緒に暮らしています!)
職業:フリーター、Amwayディストリビューター
趣味:ゲーム、インターネット、絵を描く事、音楽鑑賞(小室サウンドは最高です!)
特技:蝮の生け捕り、自転車の手放し運転、昇竜拳
欲しい車:クレスタ スーパールセント
好きな女性のタイプ:イデオンのシェリルさんと、ガンダムのセイラさん。田中美佐子
良く聞く音楽:trf、globe、TMN、Hitomi
尊敬する人:中島薫、池田大作先生、松村先輩、DDの哲さん
座右の銘:マイサクセスアムウエイ、人間革命。
出現ポイント:虹ヶ丘団地前のローソン、みなみ銀座のロッテリア、ハイテクランド
僕のライフワークを紹介します!
僕はAmwayのディストリビューターです!まだまだ軌道に乗らず頑張らなくちゃいけないけど、僕を期待してくれる松村先輩やアップDの方々のご声援もあり、やる気まんまんです!!志は高く目指すは「中島薫」!!!クラウンアンバサダーだぁぁい!。がんばるぞー!!(^^)
とりあえずAmwayの素晴らしさをより多くの人に伝える為に、僕のAmwayとの出会いから紹介したいとおもいます。
Amwayのきっかけ
僕がAmwayと出会ったのは今年の春(96年3月)の事でした。僕はその頃は、実家の方にいて仕事もせず、ただブラブラしているだけの負け犬だったのですが、高校時代の写真部の松村先輩が僕に素晴らしいAmwayを伝えてくれたことが始まりでした。最初はAmwayのシステムは困難で何で「商品を伝える」事が商売になるのか分からなかったんだけど、松村先輩と松村先輩の友人の方々の熱心な意気込みと熱情に打たれて「やってもいいかなぁ」と思ったことが始まりだったんです。父が死に、母も信仰上の理由から親戚中に「キチガイ扱い」され、僕もこれからどうしようか迷っていたところを、松村先輩は僕に素晴らしいAmwayを伝えてくれたのです。Amwayの切っ掛けは「人を思う強い心」「成功を祈るキモチ」「正しい教えを伝えることは絶対善」なのです。これは尊敬する池田大作先生も言っていた事なのです!!(でも僕が池田先生を尊敬するのは内緒ですよ!)僕の信念と一致する素晴らしい仕事がここにあると思ったとき、僕はAmwayで絶対に成功してやるぞ!!と思い、Amwayをはじめたのです!!
アメリカンドリームを目指そう!!
一度っきりの人生です。一生社会の歯車としてうだつのあがらないサラリーマンで終っていいとおもいますか?僕は絶対に嫌です。誰にだって夢はあります!僕にもあります。(その夢についてはまた今度語りますからまっててねー(^^))僕はその夢を実現する為にAmwayをやっています。Amwayは誰にでもチャンスを与えてくれます。Amwayはアメリカの超優良企業で絶対に潰れない会社なんですが、日本にいて、そのアメリカの夢を果たせるのです。まさにこれはアメリカンドリームなのだぁぁぁ。すごいですぅ!これであのショーコスギと同じアメリカンドリームなのです。松田聖子と同じなのです!小室哲哉みたいにロスアンゼルスに別荘も建てることが出来るのです。そして目指すはニューヨークに摩天楼を立てることだって出来るんです。人には可能性があるのです。でも皆気がつかないだけなのです。僕はそこに気がついたのです。「誰だってAmwayが出来る!誰だって成功する権利をもっているんだ!」って事に。このアメリカンドリームを成功させる為にAmwayを皆に伝えたいのです。素晴らしいAmwayを!
Amwayはやっぱり凄い!
Amwayはとにかく凄いのです。僕は日本Amway株式会社から直接、製品を仕入れることの出来る「ディストリビューター」というものです。別に社員じゃないんです。会社から問屋を通さず直接製品を仕入れて、販売出来る、「青年実業家」なのです。つまり社長さんなんです!!!20歳にしてこの地位を得たのです。これもAmwayの出会いのお陰。で、僕は日本Amway株式会社から製品を仕入れる権利を持っているのですが、この日本Amway株式会社はとにかく凄い!!
どんなに凄いか次の点を紹介しますよ!!!びっくりしないでね!(僕はあまりの凄さに興奮して眠れなかったデス)
超優良企業ランキングで世界第1位
扱う製品は超低価格で超高品質なのだ!!
ニューヨーク株式市場に上場してるんだ!
流通の常識を打ち破った画期的なシステムで世の中が変る!
超優良企業である。
どのくらい超優良かというと、核戦争が起きても絶対に潰れない。人類が滅んでも無くならないといわれるほど優良なのです。松村先輩もパールDDの人も言ってましたから絶対です。間違いありません。僕はこんな凄い会社の販売員をやっているのです。!!どうだ!凄いでしょ!!
扱う製品は超低価格で超高品質!
アムウエイ製品はあまりにも品質が良すぎるために、他の会社とのバランスをとって、あまり商品を出さないようにしているのです。それは、この世の中にアムウエイ製品と互角に闘える製品がないからです。こんな素晴らしい製品を超低価格で提供する日本Amway株式会社は一体どんな会社なんだろう??その秘密はまた今度紹介します!!
ニューヨーク株式市場
東証1部上場企業もニューヨーク株式市場には上がれないそうです。やっぱりアムウエイなのです。とにかく凄いのだぁぁぁぁぁぁ!てへ(^^)
流通革命だ!
アムウエイはダイレクトセイリングというシステムを用いることによって中間マージンをとる卸を通らないため、超低価格が実現出来たのだ!!!これはソニーや花王も認める画期的な方法なのです!いろいろな会社の社長が日本アムウエイ株式会社に「土下座」をしてアムウエイで製品を扱ってくれとお願いしたのですが、「そんなことをしたら世界流通がおかしくなって、アムウエイ以外の会社が潰れてしまう」ということで丁重にお断りしたということなんだ!!他の会社の為を思う「思いやり」のある余裕も日本アムウエイ株式会社の凄いところなんだ!!!
でも僕としては日本中がアムウエイになって法華経のお題目をあげることが義務になれば争いのない素晴らしい世界がくると思うんだけどなぁぁ、、、、
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過去の思い出
このコーナーでは僕が体験した思い出を感じたままに紹介します。
中学時代
イジメられた事と片岡君の思い出
みなさん、イジメをどう思いますか?僕は絶対にやってはいけないことだと思っています。イジメは卑劣な行為であり絶対悪なのです。絶対悪は正義の名の下に排除されるべき行為なのです。このことを前提に、僕のイジメられた経験を紹介します。
中学校のころ僕のクラスに片岡君(仮名です)っていう人がいました。彼と僕とは学会で知り合った仲で、大変仲良しでした。一緒にお題目をあげたり奉仕活動を行なったりと、片岡君はとっても明るい少年だったのですが耳がすこし弱く補聴器をつけていました。でもそんなに日常には問題はありませんでした。
いつの頃だったでしょう、クラスのイジメグループというのが構成され、誰かがいつも、そのグループに苛められていたのですが、ある頃からイジメの矛先が片岡君に向けられていきました。イジメグループは片岡君を「お経マシーン」「お前のかーちゃんは新聞布教戦士だ!」と罵り、からかい言葉の暴力攻撃をはじめたのです。直接の原因は片岡君の母が、イジメグループの家に折伏にいったころから風当たりが強くなってきたみたいなのですが、その前後関係は定かではありません。でも、彼を苛める事は良くないことであり、彼の信仰や信念も池田先生の素晴らしい教えを実践しているだけなのに、それを否定することは絶対悪だと思って、僕は立ち上がったのです!
「片岡君は正しい教えを実践しちょるだけじゃけー、いいかげんにしよーやー!」
結果は僕もイジメられる事になりました。
でも僕は耐えました。片岡君も耐えていたのです。でも二人で協力すればイジメも我慢出来ることだったのです。素晴らしい教えを理解出来ないから、このような人間の間の隔たりが出来るのですから。僕等はイジメと戦いながら、イジメグループをはじめクラスのみんなに「対話」を求め意見をぶつけあおうと言ったのですが、どんどん悪循環になり、イジメは卑劣さを増していったのです。
学会の教えは善であり、それを理解出来ない人間を救いたい。それが日蓮大聖人の教えであっても、よい教えを理解することは難しいのです。
僕は悩みました。そして僕は母に相談しました。すると母からは意外な言葉がかえってきたのです。
「春樹、おかあさんもね、最近違うとおもうんちゃ。青年部の人らのゆうこときいちょっても、ぜんぜん幸せになれんしねぇ。前世が悪かったんじゃろうか。おかあさん、学会やめようと思うんちゃ。」
僕の頭はぐるぐるしました。もしかしたら学会の教えは間違っていたのでは、と。そう思い出したらどんどん一人で悩むようになり、片岡君とも気まずくなりました。任用試験も受けるのをやめてしまいました。
それから僕は転校しました。片岡君とはそれいらい会っていません。
イジメも僕個人にとってみれば一過性のものだったのかもしれませんが、片岡君は元気にやっているのだろうか…。
今でもあの頃の夢を見ます。その度に片岡君には申し訳ないと思うのです。
母の強さ、そして弱さ
片岡君が苛められるなか、僕は引越しをした。母はいつも強かった。しかし女性としての弱さもあった。
「春君にゃ、ちゃんと高校にいかっしゃるけえ、心配せんでええんよ」
母は僕にいつもこう言ってました。
僕と母は、今まで過ごした徳山市から熊毛郡田布施町に引っ越しました。その理由を母の口から聞いた時は涙が止まりませんでした。僕はこのとき、母の強さと弱さの両面を見たのです。
父と母の離婚は信仰上の食い違いから発生したことは薄々感づいていましたが、今はその父もこの世にいないため、その情報は母の一方的な情報に過ぎません。兄も何か知っているのかもしれませんが、聞ける機会がくるまでとっておこうと思います。
母はいつの頃からか、地域の方とうまく折り合いがつかなくなっていました。母が学会に対して疑問を持ちはじめたころからかもしれません。そのころ、母は親戚中と「創価学会と日蓮正宗のどちらが正しいか?」で討論していました。母は大石寺側を信じ、親戚はみんな創価学会側を信じていたのです。母は孤立していきました。母は実の親や兄弟から「お前はキチガイだ!」と罵られ、「勘当してやる」とまで言われていたのです。でも母も信念の人です。たしかにどちらが正しいかは僕には解らないのですが、聖教新聞は正しい報道をする正義の新聞であるし、信仰の上での大石寺は重要なものだということも理解しています。なにより「なぜ日蓮大聖人の教えを実践するモノ同士で争わなければいけないのか?」とあの頃は思いませんでしたが、今でも思う疑問の項目です。
結局、母は学会を脱会しました。でも、その頃から極端に近所付き合いも悪くなっていったのでした。でも母はくじけませんでした。本当に尊敬しました。でも、その頃から、家のポストや壁に「地獄に落ちろ」という張り紙がはられたりしていました。家の窓を石で割られたりしました。そのとき母は言ったのでした。
「春くん、おかあさんね、もう耐えられんのんよ。やっぱり学会やめたんが悪かったんかねぇ。やめんかったら、こんなに不幸にならんかったのにね。ごめんね春君。でも、お母さん限界なんよ。もう、ここには住めんのんよ」
この時僕はよくわからなかったのですが、
「おかあさん、辛ろうても僕はお母さんについていくけぇ、安心してーや」
と言いました。そういった僕はなぜか大粒の涙がこぼれだし止まらなくなりました。
それから、僕と母は田布施町に引っ越したのでした。この時期はいろいろあって、片岡君には悪く思いますが、でも僕も大変だったのです。
しかし、僕は池田先生の教えは信じています。池田先生と僕等に嫌がらせをした(と思われる)学会の方々は関係ありません。池田先生の教えを曲解した学会の方がいるのでは、という疑問をこの頃からもっています。でも、ここで僕が学会を認めると母は孤立してしまいます。ですから、僕は池田先生を尊敬する一人の青年でありたいと決意したのでした。
受験勉強で頑張る僕
人生の分岐路、「高校受験」。僕はこのとき人の期待いうプレッシャーを感じたのです。
田布施町に引越した僕ですが、やっぱり根は「徳山人」の都会っ子なのでした。徳山には「セガハイテクランド」もあり「近鉄松下百貨店」もあります。あの都会の象徴「マクドナルド」(なんと!ドライブスルー付きなんですよ!!!¥(^^)¥)
そんな都会で過ごした僕はやっぱり都会に帰りたいのでした。だから僕は徳山高校を受験するつもりで頑張っていたのですが、山口県には校区制というものがあり、僕のいる田布施から徳山高校は受験できないのでした。5%枠入学という手段もあったのですが、僕はそんなに成績が良くない(というより悪い)ので、徳山工業高校土木建築科を目指して勉強を始めました。
担任の先生は僕になぜか同じ徳山市内にあった「職業訓練校」を薦めるのですが、鋭い先生だったので、僕の家庭の事情を察していたのかもしれません。でもちょっと「何故?」って気持ちは禁じ得ませんでした。
僕はお母さんに希望進学校を打ち明けました。
「お母さん、わしねー、徳山工業受けようと思っちょるんじゃけど、ええじゃろ?」
「春君。お母さんね、もうあんまり徳山好きじゃないんよ。見たじゃろ、都会にゃいろんな事があるんじゃけぇ。」
そんなお母さんは徳山の流町というところで夜のお仕事を頑張っていたのです。この時期はバブル崩壊もはじまりかけた頃でしたが、夜の町も大繁盛でしたが、いろいろな都会にしかない鬱積したものを肌で感じている分、やっぱり僕を止まされたかったのかもしれません。でも僕も母の血を引いた信念の人なのです。金村の父の血も信念の血なのです。そして池田先生もおっしゃいました。「自分を信じて正義をもって闘えば必ず勝利する」と。でうすから僕は、一度決めた事は曲げず忘れず、まっすぐにいくのです。僕はお母さんに強くお願いしました。
「お母さん、わし、学校出たら絶対に成功するけぇ、じゃけえ徳山工業受けさせてーや」
お母さんは何も語らず、ただ一言「がんばりいね」と言ってくれました。
でも一言、「でも私立は徳山はいけんよ」と言いました。
それから僕の猛勉強が始まりました!1日一冊のノートに教科書の英語の単語を書きまくったり、教科書にマーカーを入れたり、大好きなファミコンもやめて猛勉強したのです。お母さんは仕事でいつも帰りが夜の2時頃になっていましたが、僕もお母さんの帰ってくるまでは起きていましたから、それは凄い勉強量だったのです。
しかし僕はそんな母を裏切ることとなってしまいました。
徳山工業を落ちてしまったのです。
春、僕は聖光高校普通科に入学しました。
高校時代
尊敬する松村先輩との出会い。正義というなの事実を知る事になる。そして祖母の死。
松村先輩の出会いと真実を知った僕
ちょっとワルだけど正義の人「松村先輩」。先輩はいつも輝いていました!!
高校に入学してからの僕は、毎日片道12Kmの道のりを自転車で通っていました。田布施町から光市までは峠を越えなければいけません。いつも通学中に光高校が見えてきましたが、僕の高校はこれよりずっと先にありました。
僕は高校に入った時に「写真部」に入部したのですが、(すぐにやめましたが)その時に「松村先輩」とあったのです。松村先輩はちょっとニヒルなワルでしたが、「進学コース」というエリート集団のクラスにいた人なのです。なによりあの、「任用試験」に合格した素晴らしい日蓮大聖人の教えを実践する正義の人だったのです。
僕も、任用試験を目指していましたので、同じ価値観を持つモノ同士、すぐに仲良くなりました。
松村先輩は僕より2歳年上で、もう3年生でした。高校卒業後は、「東京に出てビッグになる」といっていました。松村先輩は兄の愛車「レパード」を無免許運転するワルだったのですが、運転テクニックはまるで「サーキットの狼」のようでした。いつも国道188号線を爆走し、暴走族をビビらせていたのです。
僕は松村先輩に車でいろいろな所に連れていってもらえました。夜の大都会「徳山市」には、レパードやソアラ、クレスタなどカッコイイ「ハイソカー」が集結し集会をやっていました。松村先輩のレパードも一目置かれる車でした。しらない間に僕もそのグループに入っていました。このグループのリーダーは地元の東ソーという会社に勤める熊毛町出身のカズさんっていう人で、この人は喧嘩に負けたことは1回だけという武道の男でした。この1年間は140勝無敗だそうです。せまりくるヤンキー達を正義の鉄拳で成敗する人でした。その正義をぜひ日蓮大聖人の教えのもとにやってほしかったです。
でも、僕も松村先輩も暴力だけは行使しませんでした。
僕は松村先輩に今まであった事を全て告白しました。母が学会を辞めた事。いろいろ嫌がらせを受けたこと。そして片岡君の事。でも、松村先輩は任用試験に受かって、そのあたりの正しい教えから、真実の解答をくれたのです。
僕は、ここで松村先輩の口から、衝撃の事実を知ったのでした。
「春樹、お母さんが学会を辞めたのは、宗門から手紙が届いたからじゃろう。あいつらは、こうやって正しい教えを実践する俺等を妨害するんじゃ。あいつらも俺等も、同じ日蓮大聖人の教えを実践する人なのに、あいつらは学会を見下しちょうるじゃろう。じゃけど、学会が素晴らしく、人がよーけ集まったけー、宗門は嫉妬しちょんじゃ。じゃけぇ、学会を破門にしたんじゃ。でも破門にしたら宗門もお金儲け出来んけーのう。じゃけえ、どんどん学会員を勧誘して宗門側につかそうとしちょんじゃ。お前んちに「地獄に落ちろ」とか「石や犬の死体を投げ込んだ連中」は、お前は学会員と勘違いしちょるじゃろうけど、全部、宗門側の、学会員がお前ん所の家に嫌がらせをやってるように見せかける為の裏工作なんよ。そうやって、あいつらは学会の印象を悪くさせるようにしちょるんじゃ。嫉妬は恐いけーのう。」
これで全て今までのつじつまが合いました。お母さんは騙されていたのです。松村先輩は正義の実践をする人だし、青年部の上の人なんかともよく話しをする機会もあるから真実を全て把握しています。僕と違って毎日、聖教新聞に目を通しているから、正しい正義の真実を知っています。
僕はお母さんに真実を伝えるべきか迷いました。
でも出来ませんでした。今更、波風をたてたくなかったのです。今更、お母さんも後戻り出来ないでしょうし。
僕は将来、お母さんにこの事を伝えようと思います。でも、兄の事もあるし。、これ以上、お母さんの精神負担をかけたくなかったのでした。
そんな尊敬する松村先輩との間も1年間で終ってしまいました。松村先輩は大阪の専門学校に入る為に大阪に旅立ってしまったのです。でも、僕はまた、松村先輩と再開するのです。Amwayという素晴らしい世界と共に。
祖母の死
いきなりの祖母の死。久留米の金村(父方)もやってきましたが、僕はここで人間の悲しい姿を目の当たりにしたのです。
高校2年の冬。徳山の祖母が他界しました。お母さんは実は祖母から勘当状態にされていたのですが、僕はちょくちょく祖母の所を訪れていました。祖母は僕の顔を見るたびに
「娘(母の事)が不憫でのう、へんな奴等に惑わさちょるだけなんじゃ。学会を捨てると不幸になること分かっちょらんのんじゃろうか」
と言っていました。僕も松村先輩から衝撃の事実を聞かされていたので、祖母の言う事も痛いほどわかりました。でも、もめごとはもう嫌だったんです。祖母は母を勘当と言いましたが、やっぱり母なんです。ずっと気にやんでいました。母をなんとか救いたいとずっと思っていました。が、僕には「お母さんに言っちゃぁいけんよ」と言ってました。
祖母の葬式は友人葬というもので近所の池田記念会館で行われました。僕と母は葬儀に参列したのですが、ここで親戚の連中が母に罵声をあてたのです。その中には母の兄弟である「遠見のおじさん」と「下上のおばさん」もいたのです。
「なんで、あんたがくるんよ。春君はいいとして、あんたはもう他人なんよ!帰りんさい! あんたのくるところじゃないんよ!!」
母は親戚にそう罵声をあてられても耐えていました。でも他の親族でない学会員の人たちも「帰れ!帰れ!」と言い出したのです。僕は耐える母に何もしてあげられませんでした。たしかに宗門にたぶらかされたのは母の方なのですが、ここまでして一個人を責めることが許されるのでしょうか!!僕は悔しくて悔しくてどうしようもなくなりました。でも母は大人でした。
「あたしがここにおったら、葬式のじゃまになるけぇ、春君。先に帰るね。春君。おばあちゃんに、よろしく言ってね。」
といって一人、母は涙を浮かべながら去っていったのでうす。
葬式は終りました。
葬式が終ったとき、僕は知らないおばさんに呼び止められました。
「春君?春君でしょ?大きくなっちょったとね。覚えてなかろうけど、分かる?久留米の金村のおばさんとよ」
久留米の金村のおばさん。この人は、僕の父の妹で、幼少の頃に一度だけ会ったことがありました。金村のおばさんはちょっと日本語が不自由なところがありますが、久留米では有名な焼き肉料理のお店を経営していました。でも最近は事業がうまくいかず、母国に帰るような事もいってました。
僕は父の顔をあまり覚えてなく(離婚後、すぐに死んだのですが、それはあまりにも昔の事であまり記憶にありません。母も父の事をあまり語ろうとしませんでした)久留米のおばさんの顔を見てもよくわからなかったのです。
「はるくんも、おとうさんにソックリになったんやね。おばさんも応援しとるけん、挫けずがんばるんよ」
といっておばさんは自慢の本場のキムチを僕にくれました。おばさんは父と母の結婚の際に最も協力的にやってくれた人で、祖母にも迷惑をかけたと言っていました。だから祖母には一言挨拶をしたかったとの事でした。
でも、どうして人は憎しみあったり争ったりしなくてはいけないのだろう。と、僕は母を追って家に帰ったのでした。
そして現代まで
高校を卒業した僕は自分の可能性と夢を模索した。そのとき僕は松村先輩とAmwayに出会い、多くの成功者と会ったのです!!!
夢の模索
僕は夢を模索した。しかし空回りする日々だった。
僕は高校卒業後、徳山市内のスーパーにアルバイトにいきました。最初は就職も考えたのですが、いろいろ夢を模索したいと思い、身の軽いアルバイトを選択したのです。
僕のアルバイト先のスーパーは母の働いている流町の近くにあり、勤務時間帯はぜんぜん違いましたが、仕事中に母の仕事場の人が買い物にきてくれたりと、いろいろ気をつかってもらいました。僕はまだ未成年だったのでお母さんのつとめるお店にはいけませんでしたが、烏龍茶の飲みながら時々カラオケの練習をしてたりしました。僕のtrfやTMNには定評があり、みんなうっとりしながら聞いてくれますが、母は赤い顔をしていました。
僕は絵心があったので漫画家を目指していました。下松市立体育館で時々開催されるコミックマーケットにも積極的に参加し、僕のちょっとエッチなイラストは好評を博しました。僕の専門分野は「幽遊白書」と「セーラームーン」ですが、ガンダムも好きなので、今度はララアとセイラさんで挑戦しようと思いましたが、エッチ路線だけでは漫画家にはなれないのでしょうか。
僕はこのころ、本格的に漫画家を目指すためにアルバイトをやめ、家で絵の練習に励みました。しかしぜんぜん絵がすすまず、焦りばかりつのるのです。
「僕には夢を信じる強い信念があるんだ!夢を信じ闘えば必ず成功出来るんだ!」
と自分に言い聞かせましたが、どうしても筆が進みませんでした。結局2年間、漫画家を目指したのですが何も答えが出ず、僕は挫折してしまったのです。
松村先輩とAmway
僕は2年間、何をやっていたんだろう…。母も葬式の頃から鬱になり、入院する事になった。そんなとき松村先輩は僕に救いの手を差し伸べてくれたのです!
田布施町に引っ越して5年が過ぎたのですが、あの葬式以降、僕の家には無言電話や嫌がらせ電話、嫌がらせの手紙が届くようになりました。これも、母を「学会を憎ませる為の宗門からの嫌がらせ」なのかもしれません。母は可哀相なのです。被害者なのです。母もそれ以降、鬱になり、いつもボーっとしていました。さすがに僕も心配になったのでお医者さんに連れて行きました。
診断結果は「自律神経失調症」とかいう難しい病気でした。医師のすすめでは、身寄りがないなら、一時期は家を出てゆっくりと気分転換した方がいいとの事でした。僕は母に入院を勧めました。母は収入は多い方だったので、お金の心配もいりませんでした。
でも、そうなれば僕は田布施の家で一人暮しになります。親戚の家ともあれ以来絶縁状態ですし、久留米の金村のおばさんはプサンに帰ってもう日本にはいません。僕は一人で心配でしたが、お母さんにはいいました。
「お母さん、安心してええんよ。もうハタチじゃけえ、一人でやれるっちゃ。じゃけえ安心しいっちゃ」
そして僕の一人暮しは始まったのです。
一人くらしをはじめて2週間たった頃、凄いことがありました。あの松村先輩から電話があったのです!松村先輩は大阪の平野区瓜破という所に住んでいましたので、わざわざ僕の家まで長距離電話をかけてきてくれたのです。松村先輩は大都会大阪にすっかりハマッてへんちくりんな関西弁で僕に言いました。
「春樹、元気しょちょるか? ワイや、裕夫や、松村や!写真部んときの松村や!」
松村先輩は高校卒業後、大阪の料理士専門学校へ進学し、それ以降の消息は知りませんでした。あとから聞いた話ですが、松村先輩は専門学校を卒業後、新今宮と呼ばれる駅の周辺でホテルマンをやっていたそうです。新今宮は大阪でも一番の繁華街で、弁当屋もあれば、動物園もあり、東京タワーのような奇麗な塔も見れるところで、大阪では「日本の首都は新今宮」と言われるくらいなのですが、僕には本当かどうかは良く分かりません。
で、松村先輩は僕に電話でこのように言いました。
「春樹、すごい話があるんや。凄すぎるんや。誰でも青年実業家になって、自分の夢を叶えられるんや!!ワイもこれで青年実業家なんや!お前もわいの話聞くだけで、青年実業家になれるんやけど、話したいんや!今度、わいも山口戻ることにしたんや!どや!一緒に事業を始めへんか!」
もう何がなんだかわかりませんでしたが、僕は現在無職だったので、尊敬する松村先輩の為に働いてもいいかな?と思って答えました。
「そんな、先輩、僕に出来るんですか?青年実業家なんて僕には出来ないですよ」
すると先輩は
「自分の可能性を諦めたらアカンで!この事業はAmwayゆうてな、誰にだって出来るんや!とにかく自分の可能性を信じてやっていくだけで誰でも億万長者になれるんやで!!」
億万長者…僕には夢のような言葉。でも「夢」は実現させるためのもの。池田先生も言っていました。「夢を忘れてはいけないよ」と。池田先生も夢を実現して素晴らしい組織SGI名誉会長になられたわけなのです。池田先生も人間です。僕等と同じ、日蓮大聖人の教えを実践する人間。僕はAmwayの目指すところと、尊敬する池田先生、そして、松村先輩の絶対善といえる正しい教えと熱意を信じて、Amwayビジネスを始めることを決意したのです!!!!
再会そして共同生活
僕は自分の夢をめざし、松村先輩と共同生活をはじめた。僕等に迷いはない。信じる道を進み勝つために!僕等には成功が約束されているんです。
松村先輩は新幹線に乗ってJR徳山駅に帰ってきます。
僕は山陽本線に乗って田布施駅から徳山駅を目指しました。今まで何も考えずに乗っていた山陽本線ですが、海がこんなに奇麗に見えたのは初めてでした。夢と希望を忘れていたからかもしれません。僕は夕日の沈む笠戸大橋を眺めながら徳山駅に向かいました。松村先輩の為に銘菓「鳩子の海」を買いました。夕方6時を過ぎたころ、僕は徳山駅の北口の券売機売り場の前にたっていました。春なのにまだちょっと寒かったのです。
「春樹!」
懐かしい声が聞こえました。そうです、松村先輩なのです。松村先輩はカッコイイ紫色のダブルのスーツで身を固めていました。さすがは青年実業家なのです。僕等は立ち話もなんなので、テアトル2の喫茶店にいきました。
「なんや、昔にくらべて殺風景になったんちゃうか?」
「Daiichi徳山店が何でブルートになってんねん?」
「ニチイはどないしたんねん?」
募る話も沢山ありいろいろと話しました。松村先輩も新今宮にどっぷりとつかりながら、地元山口県の事を忘れて無かったのです。松村先輩は僕にお土産をくれました。大阪で有名な「551のブタマン」と呼ばれるものでした。冷たかったけど美味しかったです。
僕はいろいろ松村先輩に今までの苦労を告白しました。葬式の事、母の入院の事。すべて告白しました。すると松村先輩はこう言いました。
「春樹も大変やったやろ。お母さんも大変やったんやな。宗門に騙されて不幸になる典型例やな。でも安心しいや。わいも協力したるわ。そやけど、春樹よ。一人やったら、わいと一緒にくらせへんか?共同生活やったら、わいもお前のサポートうまくやれると思うわけやし、合理的やろ!」
僕はこんなに嬉しいことはありませんでした。あの尊敬する松村先輩が僕の為に共同生活までやってくれるのですから。遠慮するにも自分自身一人でどうしようか迷っている時でしたのでお言葉に甘えました。でもとりあえず家賃は半分出す事にしました。
僕は次の日、母にそのことを相談しました。母は上関町の病院に入院しているので、公衆電話で話をしました。母は優しく言ってくれました。
「春君。春君も大人じゃけぇ、自分の思うようにやりんさい。」
でも母との会話はその一言だけでした。母は強い抗鬱剤を服用している為、ちょっと意識が朦朧としていたようです。
そして僕は、今のアパートの大屋さんに事情を説明して、母が入院するまではアパートを開けますと伝えました。大屋さんは母の勤めるスナックのママなので快く、
「春君のええようにしんさいね。頑張るんよ。帰ってくるまで家賃はええからね」
と言ってくれました。僕の周りには良い人ばかりなのです。
4月になり、桜が舞う季節。山口の桜はとっても奇麗なのです。僕は5年間過ごした田布施町を離れ、先輩と一緒に現在の光市虹ヶ丘に引っ越してきたのです。僕等はこれから共同生活を開始しAmwayで頑張り成功を目指すのです。
尊敬する成功者さんとの出会い
初めての大阪、奈良、京都。古都めぐりでは多くの成功者さんに会い、僕は自分の将来の成功を確信したのです。
松村先輩との共同生活が始まりました。最初の4ヶ月はずっとアルバイトをしていましたが、松村先輩が大阪時代に貯めた貯金をはたいて、広島にすむ松村先輩の友人からソアラを買いました。正月仕様のカッコイイソアラで、ヤングオートに負けないナウいチューンをしていました。松村先輩は早速、サスペンションを取りピンク色の塗装をしました。もう最高です!!(^^)。徳山駅前のバスターミナルに行っても、これなら注目されますし、夜叉のメンバーからも認められる凄い車に仕上がりました。
僕はアムウエイを始める為に、8月の盆休みに、奈良県に住んでいる松村先輩の上の人に会いにいきました。その人は哲さんといって、ベームベーに乗っています。もうすこしてダイレクトディストリビューターという所になれるそうです。もともと大企業に勤めていたみたいなんですが、「洗剤売るからこんな会社辞めてやる」と辞表を叩きつけた人なのです。カッコイイです。
僕と松村先輩は、新幹線に乗って京都までいって、近鉄電車に乗って西大寺というところまでいきました。西大寺にいけば携帯電話を鳴らすと哲さんっていう人がベームベーで迎えにきてくれるというそうです。で、僕と松村先輩は西大寺で電車を降りて哲さんの携帯電話を鳴らしたら、「いま、ちょっと忙しいんで8時に近鉄奈良にしてくれへんか」と言いました。さすがは成功者なのです。忙しく自分の事業をこなしているのです。で、僕等はそれまで西大寺から近鉄線に乗って近鉄奈良にいきました。でも、まだあと4時間もあったので、僕と松村先輩は奈良公園と三条通りを観光しました。奈良は外人がいっぱいいて凄いところなのです。「山口県と違ってさすがは国際都市じゃね」と松村先輩に話し掛けると「なにゆうてんねん、奈良は只の観光地やで」と一蹴りされてしまいました。松村先輩は山口に戻って4ヶ月もたってるのに、ぜんぜん関西弁が抜けません。
8時がきました。僕等は約束の近鉄奈良の駅前にある噴水の前にきました。托鉢のお坊さんがいましたが、お坊さんはたぶん日蓮の教えを広めるひとじゃないので可哀相です。ちゃんと折伏して正しい教えを実践させるべきなのですが、そう思っていると33ナンバーのベームベーがやってきました。ベームベーには哲さんと、Amwayを松村先輩に伝えた森田さんという人がいました。僕と松村先輩はベームベーで哲さんの住んでいる神殿(こどのと呼ぶそうです)という所へいきました。
哲さんは21歳で僕より一つ年上だそうです。森田さんは28歳だそうです。僕らはマンションに行って、一枚の書類を渡されました。はんこを押してスターターキットというものを買って登録されると僕もアムウエイが始められるそうです。書類には僕の身元と内容を理解して承諾したという事を証明する為の人の欄が何個かあり、一番成功している人は北村さんとかいう名前で年収は3000万円!!くらいだそうです。
僕はこのとき延々とアムウエイの料金システムを教えてもらいましたが、ぜんぜん理解出来ませんでした。でも哲さんや森田さん、松村先輩の熱意は痛いほど感じられました。みんなとっても優しい人で、僕が「理解できない」と言うと、
「大丈夫や、最初は誰やって分からへんことあるねん。でもな、ここで諦めて何もせえへんより、やってみて覚えていく方がポジティブやで。ただ、ここでやらへんのも勝手やけど、やらへんとアムウエイでの成功はないんや。俺やみんなも最初は、よう分からへんで迷ったこともあったんやけど、そやけど、経験積んでやっていけば、いつかは成功できるんや!」
と励ましてくれました。
それから僕はいろいろな商品の説明を聞きました。ニュートリションは健康を気遣う上で必要なものですし、浄水機の性能は100万円クラスのものが10万円くらいで買えるということです。あと、SA8とかウィッシュドロップという洗剤も実験してくれました。その後はリチャードさんという人のビデオを見ました。そのビデオでは南の島で豊かな成功者がクルージングを楽しんでいました。アムウエイ鍋セットを使って鍋パーティーーもやりました。そして、気が付いたら夜の3時をまわっていました。
でも、いろいろな商品説明を聞きましたが、やっぱりアムウエイって凄いの一言で片づけるには失礼なのですが、本当にアムウエイは凄い!んですよね。僕も最初は哲さんの話を聞いて、「なんか違うんじゃないかな?」って思ったんですげど、でもやっぱり、哲さんの言ってる事って全部筋が通っているんです。哲さんは世の中のいろいろな事を知っているので僕にその衝撃的な裏情報まで話してくれたんですから!!!
次の日、僕と松村先輩は哲さんのベームベーに乗って、大阪の千里という所へいきました。そこではミーティングというものをやっていました。みんながアムウエイの成功するための情報交換や熱意や夢を発表していました。松下電器という会社に勤める人が発表した時に、「私はこれでくだらない会社を別れることが出来ます!こんごの活躍を期待してください!」と言ってました。最初はせっかく凄い会社に勤めるんだからもったいないと思ったのですが、アムウエイで成功した方がぜんぜんお金になるわけだし、会社で働いてもお金はしれています。夢を追う人なら当然の行動なのだということが分かりました。
そして僕の発表の番がきました。僕はなんて言ったらいいか分からず困りましたが、松村先輩が、「お前の夢を思ったままに言えばいいんだ」と言ってくれて肩の荷がおりて、思い切って発表しました。
「僕は光市からきた上野春樹です。僕は漫画家を目指していたのですが、アムウエイに出会い、本当の夢を模索出来そうです!まだ、自分が何をしたいかよくわからないのですが、アムウエイで成功して、夢を実現させる為に、頑張って行きたいと思います!」
と応えました。すると、会場は大歓声になりました!!!こんな多くの人の声を浴びたのは、葬式の時に親戚や学会員の人から罵声を浴びた時以来です。でも今回のは「歓声」です。僕はこんなに嬉しい気持ちになったのは初めてでした。みんなが僕の為に「がんばれよー!」「一緒に夢に向かって突き進もう!」「来年の正月は成功してみんなで南の島にいくぞー!」と言ってくれました。
僕は大興奮しました。アムウエイは一人一人の頑張りも必要ですが、こうやって皆で力を合わせて同じ目的を果たす素晴らしいお仕事なのです。一人一人が実業家で一人一人が頑張っていく以上に、こうやって、アムウエイ仲間同士でお互い頑張り励ましあい、そして成功していくシステムなのです。まさに成長ビジネスなのです。
僕は何故今までこんな素晴らしいアムウエイを知らなかったのでしょう。アムウエイを伝えてくれた松村先輩や哲さん、森田さんには大感謝なのです!!!!
興奮醒めやまぬ僕等は京都にいって打ち上げパーティーをやりました。京都タワーに上ったり、修学旅行以来久々でした。そして、新幹線に乗って山口に帰りました。くたくたでした。でも実りのある二日間でした!!!
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