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フランス革命のシナリオはフリーメーソンがつくった!?
フランス革命の台本は、フリーメーソンがつくった。とは、コールマン博士とか、その他の方々が書いています。イマイチ、ホンマかいなと疑ってみたりしていたのですが、
先日、古本屋で
クロポトキン著『フランス革命史』淡徳三郎訳(青木書店)1952年初版をみつけまして、その下巻に前から気になっていたことを確認できましたので紹介しときます。
(カルト板をのぞいてらっしゃる方には、何を今さらという感じですかね?
クロポトキンさんは、フリーメーソンの教義をだいぶ善意に解釈なさってますが・・・、初版は、改造文庫で1920代です。古くさいぞ、わたくしは・・・ですね)
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『フランス革命史』下巻・182ページより引用
このようにして、革命勢力の種々なる党派間の流血は進んでいった。
外国軍の侵略および地方における戦慄すべき内乱が、これらの闘争を一層激烈かつ
凶暴化するにあずかって力のあったことは、いうまでもない。
しかしここに問題とせざるをえないのは、これら諸党派間の闘争が、何ゆえ革命の当初においては、それほど激烈性をおびなかったかということである。
いいかえれば、ジロンド派、ダントン、ロベスピエール、マラーというように、政治的意見のかくも異なっている人々が、どうして、絶対王政にたいして協力一致して働くことができたのか?
多分、革命の前夜、地方やパリのフリーメーソンの集まりで、当時の指導的人物のあいだに成立した親密な友愛的関係が、このような了解を容易にするえにあずかって力があったのだろう。
事実、ルイ・ブランや、アンリ・マルタンの著作や、エルネスト・ニス教授の卓越した研究は、当時の有名な革命家のほとんど全部がフリーメーソン会員であったことを証明している、すなわちミラボー、バイイー、ダントン、ロベスピエール、マラー、コンドルセー、ブリッソー、ラランドらはいずれもフリーメーソン会員であり、オルレアン公(平等のフィリップ)は、1793年5月13日までフランスにおけるフリーメーソンの総裁であった。
他方において、ロベスピエール、ミラボー、ラボアジエその他が、ワイスハウプトの創設にかかるフリーメーソン支部属していたことも、今日知られている。
この支部は、
「国民を王侯と僧侶の暴政から解放し、その第一歩として、農民および勤労者を、農奴制、強制労働(賦役)、ギルドから解放する」
ことを目的としていた。
ニスがいっているように、
「その人道主義的傾向、人格の尊厳に対する確固たる信念、自由平等博愛の精神によって、」
フリーメーソンが、世論を新思想に向かって教育するうえに大いに力があったことは疑いない。特に、そのおかげで、フランスのいたるところで集会がもたれ、そこで進歩思想が説明され、集会者の喝采を博したこと、またそこで―この点は一般に考えられている以上、重大な事実である―多数の人が討論したり、決議を作成したりすることに習熟したことを銘記する必要がある。
「1789年6月における三族会議の招集や、8月4日夜の事件は、フリーメーソンの集まりで準備されたといっても、過言ではない」
(E・ニス、前掲書、823ページ)
この準備的事業は、活動的な人物のあいだに、常に余りに狭溢な党派的感情を養うと同時に、他方においてそれらの人々のあいだに、個人的関係と相互依存的尊敬の習慣とを養ったに違いない。
そしてそれが、意見を異にした革命家をして、絶対王権廃止のために、4年ものあいだ、ある程度の一致的行動をとらしめたのである。
この共同一致行動にひびが入り始めたのは、革命の末頃、―ことに王制の問題や、それにもまして共産主義的運動をめぐって、フリーメーソン自身が分裂した後のことである。
かくして彼らの結合は破砕された。闘争は、山獄党の没落に先立ち、きわめて残虐な性質をおびはじめた。
(引用おわり)
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ここまで、善意に解釈するとはさすがクロポトキン公、オスカーワイルドがキリスト再来と絶賛下だけのことはあります(ワイルド『獄中記』)。
それにしても、人がよすぎます。