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前略 池田名誉会長様(2)
http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/118.html
投稿者 クビーラ 日時 2005 年 8 月 13 日 11:13:23: piceTSQ8afvqc
 

前略 池田名誉会長様
 名誉会長様におかれましては、お健やかにお過ごしのこととお喜び申し上げます。
 さて、先日お手紙を差し上げましたが、目を通していただけましたでしょうか。本日も、ご多忙極まりない名誉会長様を煩わせることと相成り誠に申し訳なく存ずる次第でございますが、どうか暇を見て目を通していただければ幸甚に存じます。
 このたびお手紙を差し上げますのは、他でもございません。信心深い宗教団体である創価学会は、ユング派と手を組んでいてはいけない、ぜひともあの河合隼雄氏とは手を切っていただきたい、ということを申し上げたかったからでございます。この件につきましては、以前に別のところで発言いたしたことがございます。http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/906.html
自分達が信仰する神か仏よりも上の位に別の絶対者がいる、こんな考え方をしているユング派を、宗教団体が認めてしまってもよろしいのでしょうか。それでは、宗教法人としては、もうおしまいになってしまいかねません。
 一説によりますと、文化庁長官の就任に際しては、創価学会・公明党がその影響力を行使したのだとされておりますが、ご存知でしょうか。当方といたしましては、そんなことがあろうはずがないと戸惑っております。もしも仮にそのようなことがございましたら、創価学会は、その宗教法人としての看板に偽りがある、ということになってしまって、これまで免除を受けてこられた莫大な税金(宗教法人として課税免除された税額)を追徴課税されることと相成ってしまいかねないのでございます。そんなことにでもなりましたら、当方といたしましても残念なこと甚だしいものがございます。ですから当方としましては、なぜ河合隼雄氏を厚遇なさるのか、全く理解できかねておるのでございます。
 ところで、森山梧郎氏はそのホームページで、ユング派における治癒について、次のように述べております。確かに神経症的な罪悪感のような症状を軽減する効果があるようだ。神経症的な罪悪感とは、例えば、訳もないのにしょっちゅう手を洗わないと気が済まない、というような症状でございましょう。そうしなければならない理由がさっぱり分からないのです。彼(または彼女)は、無意味に手を洗うことによって、一体何を洗い流そうとしているのでしょうか。しかし、森山氏は、罪悪感にはもうひとつ別の種類のものがあると言っています。例えば、不用意に言わずもがななことを言ってしまって、人の心を傷つけてしまったといたしましょう。あんなことを言うんじゃなかった、とあとで後悔して、胸がチクチク痛みます。このような胸の痛みは、人間としては当然の痛みなのでございまして、そのような痛みを全然感じないほうがむしろ人間としてどこかに欠陥があるのではないでしょうか。また、犯罪を犯した者にまだ人間性が残っているならば、やはり、良心の痛みに苦しむことになるのでございましょう。良心の痛みなど何にも感じない、罪の意識など全くない、という犯罪者がいるとしましたら、彼は、果たして人間なのでありましょうか。森山氏によると、ユング心理学では神経症的な症状だけでなく、人間として当たり前の良心の痛みまでもなくしてしまうのだ、と主張しています。人が、ある罪を犯す時点において、その犯罪者は、大変な転換点に直面しているのだと存じます。もしかしたら、この人間世界から永遠にはるかかなたの別世界へと旅立ってしまうのではないかというような転換点でございます。その別世界とは、周囲には何もない極寒の冷たい世界でございます。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、金貸しの老婆の脳天に斧を振り下ろしたとき、彼は、この人間世界からはるかかなたの別世界へと、たった一人で旅立って行きました。ちょっとした用事で出向いた警察署で、金貸しの老婆の殺人事件の話を小耳に挟んでは卒倒し、予審判事のポルフィーリイと会わなければならなくなったときには、とても不自然な振る舞いをしてしまいます。結果としましてはそんな不自然な振る舞いが、賢明なポルフィーリィに真犯人の目星をつけさせるきっかけの一つを与えることになってしまいます。そして、何よりもラスコーリニコフを悩ませたのは、最愛の者達(母や妹)との人間的な触れ合いがまったく持てなくなってしまったことです。彼ら(最愛の者達)が傍にいるだけで、耐え切れないまでの疎ましさを感じ、一刻も早く遠ざけたいと思ってしまうのです。このようにラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害した時点で、もうこの人間世界の住人ではなくなってしまったのでございましょう。このラスコーリニコフを再び人間世界に引き戻す方法はあるでしょうか。小説では、薄倖の女性ソーニャとの出会いにそれを暗示しています。が、ソーニャは、あくまでも媒介者に過ぎないと思います。では、一体何者がラスコーリニコフを再び人間世界に連れてきてくれるのでしょうか。やはり、それは、神ーこの場合、ロシアの正教会の神ーでございましょう。そこで、それならばラスコーリニコフではなくて、現代人の場合はどうなのか(何分にもラスコーリニコフはちょっと古いタイプの人間でございます)、という問いかけも生じてきましょう。現代人が何かにつまづいたとき、神あるいは仏は手を差し伸べて救ってくれるのだろうか、もしかしたら、現代の神や仏は、昔と違って全く無力な存在になってしまっているのではないか、とまあそのような疑いを抱いてしまうわけでございます。哲学者のニーチェが言ったように、神は死んでしまったのではないだろうか、と。そのような不安を感じて、うつろな心を抱いている現代人にあるひとつの思想が、そっと忍び寄って参ります。まるで、絶望して自暴自棄になっている娘を、後からそっとつけ狙い機会をうかがっているどこかのイカレ野郎のように。宗教に取って代わろうとするこの思想こそがユングの心理学なのです。ユング心理学の信者になったとき、人は何か治癒に似たようなものを経験するのでございましょう。先程申し上げましたような神経症的な罪悪感は、なくなってしまうかもしれません。しかし、それとともに神経症的とは言えない、普通の人間ならば感じるのが当たり前の罪悪感(良心の痛み)までも、どうしたわけか消えてしまうのでございます。これは人類にとって、朗報でありましょうか、それとも、人類をもっと大きな苦悩に陥れる忌まわしい知らせなのでございましょうか。良心の痛みがなくなってしまったような人間が社会に増えてきたら、そんな社会はどうなってしまうのでしょうか。『罪と罰』のラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺害して金を奪った後に、もしもユング心理学に出会っていたと仮定したらどうなるでしょうか。ラスコーリニコフは、警察署で卒倒するようなことはないかもしれません。予審判事のポルフィーリイと会う時も、堂々と悪びれた様子もない態度をとることができたかもしれません。そして、自首することもなく、シベリヤに流刑になることもなかったかもしれません。小説の筋は全然違ったものになってしまうことでしょう。このようにラスコーリニコフが老婆を殺害した後に、ユングの思想に出会っていたら、どうなっていたのかを想定して、ここでちょっと予審判事のポルフィーリイ氏とラスコーリニコフの妹のドゥーニャさんにインタビューをしてみましょう。
 ――ポルフィーリイさん。例の金貸しの老婆の殺人事件ですが、さすがのポルフィーリイさんも誤審をなされたそうですね。
ポルフィーリイ:いやあ、参りましたよ。わたしぁね、『刑事コロンボ』のモデルになったと言われるくらいに、凄腕の捜査官だと評判なんですがね。あの事件ばかりは、めがね違いでしたね。何しろあれほどの犯罪を犯しても、ラスコーリニコフはシャーシャーとしていやがるんですからね。もう、すっかり騙されてしまいましたよ。これといった証拠もなければ、証人もいない、その上、真犯人といえば悪びれる様子もない、とまあ、こんなわけでしてな。おかげで無実のミコールカをシベリヤ送りにしてしまいました。あの事件は、わたしの予審判事人生でたった一つの汚点になってしまいましたよ。ヘ、ヘ、ヘ。
――ラスコーリニコフの妹のドゥーニャさん。お兄さんはお元気ですか。
ドゥーニャ:ええ。お蔭様で、と申し上げてもよろしいのかしら。とにかく、とても元気にしておりますわ。あれから無事大学を卒業しまして、ああ、そうそう、当時はどうして学費が続くのか不思議でたまりませんでしたのよ。食べるものさえも事欠く有様でしたのに、急に金回りがよくなったものですから。今から思えば、そういうことでしたのね。大学を出て社会に出て、それからはとんとん拍子で出世いたしました。今ではもう、政府の要人になっております。もうこれで満足しただろう、と思いましたのに、とんでもございません、まだまだ上の地位を狙うのだと張り切っております。すさまじいばかりの出世欲でございます。これまでも、ずいぶんと阿漕なことをいたしまして、人を騙して蹴落としたり、葬り去ったりしておりますのに、それでもまだ飽き足りないのでございますのよ。
――でも、ドゥーニャさんにはやさしくしてくれるんでしょう?
ドゥーニャ:それはもう、とてもやさしくしてくれますわ。でも・・・・
――でも?どうされたんですか。
ドゥーニャ:母にも、わたくしにも、とてもやさしいのですけれども、何かが違うのですわ、あの頃の貧しい大学生だった兄とは。貧しい頃と違って、どんなにやさしい扱いをしてもらっても、貧しい頃のような満ち足りた気持ちになることは決してないんです。何かが欠けているのでございます。そうですねえ。なんと言ったらよいのでしょう。表面のやさしさ、ゆったりとしている態度の陰のところに、と申しますか、心の芯の部分に何かぞっとするような冷たさがあって、それに時々触れることがあるんです。わたしは、兄は昔の貧しい頃の兄とは違うと思います。どこか遠い国の人になってしまったように思います。
 
 さて、名誉会長様、ユングの心理学とは、人間の心のある部分を取り除いてしまう効果がある、ということにご注意願いたいと存ずるのです。それが神経的な症状ならば構わないのかもしれません。しかし、それが人間性にとって本質的な部分だったら、ユングの心理学は、人間を人間でなくしてしまう、化け物のようにしてしまうものだ、と言うことができるのではないでしょうか。どうもユングの思想の信者になると良心というものがなくなってしまうようだ、という理解を前提にいたしますと、創価学会と河合隼雄氏との不可解で奇妙な結びつきに対して、世間では次のような穿鑿をいたす者が出てこないとも限りません。例えば、創価学会の指導者のどなたかが、昔、ある女性をレイプして、うまく立ち回って自分の罪をごまかしていたのが、公になりそうになったといたしましょう。そこでこの指導者は極度の恐怖・不安に陥られました。この指導者は宗教団体の指導者でございますから、当然、自分が属する創価学会の教義や宗教的な実践によって恐怖・不安に打ち勝とうとするわけでございますが、それではなんにもならなかったのでございましょう。この指導者の極度の恐怖・不安に対しては、創価学会の教義や実践ではあまりにも無力でございました。そこで、他にもっとよいものはないかと、探しているうちに、出会ったのがユングの心理学でございました。そこで、ユング派のカウンセリングを受けてみたのかもしれません。こうして、この指導者は、自分が宗教団体の指導者であることも忘れて、すっかりユング心理学に参ってしまい、そのとりこになってしまいました。しかも、ユング派の信者になれば、何と良心の痛みを解消してくれるではありませんか。レイプ事件を起こした指導者は、彼の良心の痛みをなくそうとしてユング派に近づいたのかもしれません。勿論、これは例え話でございます。確かに、このように考えれば、創価学会と河合隼雄氏との親密さの不可解さをうまく説明できるのかもしれません。いや、話がもっとややこしくなってしまいますでしょうか。しかし、創価学会と河合隼雄氏との親密さがあまりにも不可解でございますから、世の中にはこのような想像をたくましくする者がいるということにもご留意願いたく存じます。ですから、このようなあらぬ誤解を生み、痛くない腹を探られるよりも、きっぱりと河合隼雄氏と手をお切りになるよう、諫言させていただく次第なのでございます。
                 敬具

森山梧郎 ユングに気をつけよう
http://www.k2.dion.ne.jp/~gorom/

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