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ジャーナリスト 藤村幹雄(モスクワ在住) 2005/11/7 (Mon)
※この連載は隔週の更新です。
大津事件とニコライ皇太子
11月20日からのプーチン大統領の5年ぶりの訪日を前に、ロシアの政府系歴史雑誌「ロージナ」(祖国)最新号が全ページを割いて日本特集を掲載した。日露通好条約調印から今年で150周年を迎えた日ロ関係史の秘話を約40人の専門家・学者が執筆。日本文化と両国関係への関心を高める編集だ。
ミハイロワ歴史学博士は「日本とロシアは20世紀に(日露戦争、シベリア干渉、ノモンハン、太平洋戦争の)4度戦争をし、いまだに平和条約がないが、両国は互いの文化・文学・歴史に大きな関心を持ち、政治関係と異なるユニークな交流を築いた」とし、日本文化を好意的に紹介。ピョートル・パダルコ青山学院大学研究員は、ロシアの歴代ツァー(皇帝)の一族5人が見た日本の印象記を伝えた。
「ソ連軍参戦が日本を破滅から救った」(ルシコフ・モスクワ市長)、「北方領土占拠は日本のアジア侵略の帰結」(ガルージン駐日大使館公使)といったメディアの「反日翼賛体制」の嵐の中で、日本を好意的に扱ったこの特集は異例だ。実は、ロシア人の「好きな国」の世論調査では、日本はフランス、ドイツに次いで大抵第3位にランクされており、支配層の「反日」が世論と乖離している。
ロージナの特集でユニークな記事は、1891年に来日したロシアのニコライ皇太子(後のニコライ二世)が滋賀県大津市で警官の津田三蔵巡査にサーベルで頭部を切りつけられた大津事件をめぐるエピソードだ。
大国ロシアの皇太子が負傷したことで、当時の日本ではロシアが報復のため日本を攻撃するのではないかと社会が恐慌状態になり、絶望した自殺者や皇太子の治癒を祈る奇妙な祈祷師が続出した。
しかし、同誌によれば、「皇太子は事件を平静に受け止め、むしろ列車の周囲で日本人が悲嘆に暮れたことや、日本各地から治癒を祈る大量の手紙が届いたことに感激した」という。
ニコライ皇太子の側近がまとめた大津事件報告によれば、皇太子は事件直後、接伴委員長の有栖川宮に「この出来事で日本に対する好印象が損なわれるなどと一瞬でも考えないでいただきたい」と語り掛け、その場にいた全員が涙を流したという。皇太子は、この事件を機に社会を抑圧するような措置を取らないよう日本側に要請したらしい。
皇太子は9日後に親族に送った手紙でも「不思議なことに日本がすっかり気に入り、事件にも不快感は一切ない。私に敵対的なのはあの警官だけだ」と書いた。皇帝に即位した後も「狂信主義者によるもの」とドイツの賓客に述べ、意に介さなかったという。
ロシアのウィッテ首相は「大津事件が将来の皇帝に日本に対する敵意を生んだ」とし、後の日露戦争の遠因になったとの見方を示したが、同誌は、ニコライ皇太子がこの時の訪問で日本のユニークな文化に魅せられ、事件の影響は一切なかったとしている。
別の記事によれば、1917年のロシア革命でニコライ二世が退位した後、シベリアに出兵した日本陸軍の情報機関が皇帝派の駐日ロシア大使館と協力し、エカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家の救出を秘密裏に画策したという。この情報は確認されていないが、皇帝一家は1918年7月に革命政権に銃殺されており、作戦は失敗したもようだ。
日露戦争(1904−05年)後、両国関係は大きく改善され、1916年には軍事同盟に近い日露協商条約も結ばれた。日本の支配層には、大津事件でのニコライ二世への後ろめたい思いがあったかもしれない。
http://www.tbs.co.jp/newsi_sp/eurasian/index.html
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