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(回答先: 科学とは何か 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 11 月 03 日 09:13:05)
この程度のこととは、
>既成の理論で不可能を唱えている姿勢、というのは、実質、科学に関わろうとする姿勢ではないと考える。本当に知る、ということは、知らないことが如何に多いかということを知る、ということ。もともと、人の考えることなんて、それほど確かなものではない、という謙虚な前提のもとで、自然に、つまり宇宙に接していくべきであり、それが「科学的」な姿勢である
というくだりだ。
これを書いた人は科学的思考の訓練(理工系大学の専門課程とゼミ参加レベル)を受けたことがない人だろう。
「既成の理論で不可能を唱えている姿勢、というのは、実質、科学に関わろうとする姿勢ではない」というのは、理工系大学の一般課程の講義の最初に教わることであり、自分自身でテーマを選び、半年なり、一年なり研究や実験に費やせば自ずと理解できることがらだ(もちろん例外もあるが)。
『旺文社国語辞典』で「科学」を定義しようというのも無謀だが、「科学的にそれは不可能、科学的にあり得ない」という言葉の背後に潜む膨大な科学的知の地平に対する想像力も、この書き手は持ち得ないようだ。
自分の通俗的科学理解の限界に気づかず、そのようにして理解した科学に対して、凡庸な通念で批判する。
まさに時間のムダの典型的な文章。
この書き手が本来すべきことは、「既成の理論で不可能を唱えている姿勢、というのは、実質、科学に関わろうとする姿勢ではないと考える。本当に知る、ということは、知らないことが如何に多いかということを知る、ということ。もともと、人の考えることなんて、それほど確かなものではない」というあまりにも当然の前提から、たとえば「アリストテレスやヒッパルコスなどの学者は、太陽や惑星の運動について、かなり緻密な数学的手法によって説明した。この手法は、今でも天体の運動をよく予測している。しかし、その後に登場したケプラーやガリレイなどの学者は、それらをもっと簡単に、もっと的確に説明する手法に気づいている。彼らの考え方の何処が違っていたか、といえば、地球が止まっているか動いているか、という観点が違っていたのである。」という通念に対して、疑いを持って接することではないか。
こうした議論に関心を持つ人には、廣松渉の『科学の危機と認識論』をおすすめしたい。
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