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(回答先: Re: 「イエスの方舟」は言葉だけ聞いたことがある程度です。 投稿者 朝霧 日時 2005 年 10 月 30 日 16:52:10)
>個人的には、本人の自由意志で参加する分には、「イエスの方舟」も「ありがとう村」も問題は無いような気がします
(皆そこでしか学べない何かに導かれていくのでしょうから)。
両者に共通して言えることは、「ほんとに自由意志なのか?」ということ。
これは朝霧さんがおっしゃった通り、
>文化的慣習や躾、道徳といったものからTVCMや映画すべては人の心を既に洗脳してしまっていると思っています。
自分がどれだけそれらに洗脳されてしまっているか気付いていくのは自分の課題の一つです。
ってことと同義ですよね。(わかってらっしゃいますね。)
最近小生が、カルト板に投稿したこちらもご参照頂ければ幸甚。
http://asyura2.com/0505/cult2/msg/379.html
一方「MC状態」は一般的に用いられている「心理操作技術」を特定の方向付けに強く継続的に利用したものです。
それゆえ、本人の中では「比較に必要な価値観のすり替え」が起こっているだけで、「抑圧された自我」はありません。
価値判断に必要な比較は歪んでいますが、自発的判断は常にしている訳で少なくとも本人はそう感じています。
次に「誰でも成り得る状態」だと言うことです。
人に共通する性質を利用していますので、条件さへ揃えば成り得るのです。
これがMCの怖いところで、往々にして「自分さえしっかりしていれば大丈夫」という自信が災いしてしまう。
「イエスの方舟」は当時、それはもう日本中大騒ぎになった事件でした。
今でこそオウムや法の華三法行といった狂気の集団目白押しの時代ですが、あの頃としては珍しく“猟奇的な”事件で、マスコミも「現代の神隠し」と殊更センセーショナルに取り上げて、いわばワイドショー的なネタでもありました。
一人のさえない“おっちゃん”に、若い良家の子女がぞろぞろ連いていってしまったのですから、あたりまえです。
マスコミの前で、おっちゃんは今にも泣きそうな顔で首を垂れていましたが、そのおっちゃんを取り囲むようにして彼を守る彼女らが勇ましかった。
「私たちは、殺されてもおっちゃんのもとから離れないっ!」と・・。
けっきょく警察も大がかりな捜査の結果、「事件性まるでなし」という結論に達し、その後徐々に人々の記憶から消えていった事件でした。
20数年たった現在、おっちゃんはじめ、皆さん元気で暮らしているようでほっとしています。
>「主体性というのは、自分をどれだけ大事にできるかということ。親に言われたり、世間がそうだからと言って流されて結婚しちゃうのは、自分が希薄だからです。私たちは自分の幸せを真剣に考える。そうすると、自然に他人がなくなる。他人の壁をなくして相手のことをどれだけ親身に思えるか。大切なのは、他者の中に自己を見ることなんです」
「シオンの娘」の恵みさんという人の言葉ですが、今聞いてみると“あたりまえ”のことですよね。
当時彼女らを取り巻く環境が、この“あたりまえ”すら許されなかった状況にあったということでしょうか。
我々は何につけ“昔はよかった”と懐古趣味に走るけど、たった20数年前の日本、まだまだ女性の人権を抑圧していた国だったようです。
尤も、昔は悪くて現在は改善したとも言えない。
傍目には「普通の家庭」が現実には内部崩壊していて、閑静な住宅街で時々信じられないような惨劇が起こったりする。
親が子供を虐待して殺したり、子供が親を金属バットで殴り殺したり。
ある意味ではさらに悲惨な状態になっているのかも。
小生は日本の外に暮らしているのですが、外から日本という国を見ていると、みんな“追いつめられて”いるように見えます。
ひたひたと迫り来る「何か」に脅え、逃げ場もないといったような・・。
もちろん外の環境が悪化しているってのもありますが、じっさいにはみな「内なるもの」に脅えているだけなんですよね。
今までは「自分に目を向け」なくても生きてこれたのに、最近では自分を見つめなくては生きてはいけない時代になった。
けっこう今まで「自分を見つめる」ことをしてこなかった人間にとって、自分を直視するってことは死ぬほど恐ろしいことなのかもしれません。
他者の視線の中で生きるってのは自己放棄なんだけど、そのぶん自分で自分の責任取らなくて済みますからね。
朝霧さんの言葉には、とても力強い「文脈」を感じます。
自己を深く見つめられる人間だけが持つ、英知のようなものが。
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