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熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号)
『新潮45』2005年10月号から、
「総力特集 明治・大正・昭和 皇室10大事件簿」のうちの一部より引用
(引用ページp.56〜p.60)
−引用開始−
総力特集 明治・大正・昭和 皇室10大事件簿
熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき
少なくとも20人以上はいた「自称天皇」たち。彼らはいったい何者だったのか。その主張には幾許かの正当性があったのか。
ある「拝謁」
平成元年(1989)11月7日、私は静岡県在住の南朝史研究家に同行して、山口県のとある駅に降り立った。目的地は地元の有名人の家だ。私たちはハイヤーに乗ると、さっそく目的地を告げた。「大室近祐さんのお宅までお願いします」しかし、運転手は首を傾げるばかりだ。その時、私は気づいた。「すみません、大室天皇の家まで――」かくしてハイヤーは走り出した。
大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904〜1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。
それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。
その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。
私たちが赴いた頃には、大室天皇「伝承」は、その原形を留めぬまでに大きく成長していたようである。
大室天皇ご逝去の際、膨大な御親筆の巻紙などの遺品はご家族により処分されたという。だが、インターネットの普及とともに明治天皇すりかえ説はウェブ上に広まった。さらにここ数年、大室天皇親族を自称する人物が2ちゃんねる上で天皇宣言をくりかえしており、いまや大室天皇は、ネットの世界でもっとも有名な「ニセ天皇」となっている。
戦前からの熊沢天皇
「ニセ天皇」といえばまず思い浮かぶのが熊沢天皇こと熊沢寛道(1887〜1966)だ。寛道によると、熊沢家は南朝第4代・後亀山天皇(在位1383〜1392)の皇子・小倉宮の子孫で、南朝の末裔、ひいては皇室の正統を継ぐべき家系なのだという。
今更ながらではあるが、ここで南朝の歴史を概観しよう。鎌倉時代後期、後深草天皇(在位1246〜1259)系の持明院統と亀山天皇(在位1259〜1274)系の大覚寺統が交互に皇位を継ぐという建前になっていた。大覚寺統の後醍醐天皇(在位1318〜1339)は足利尊氏の協力を得て、1333年に鎌倉幕府を倒した。ところがやがて後醍醐帝と尊氏は対立、尊氏は1336年に持明院統系の天皇を立てて後醍醐帝に対抗した。この尊氏に擁立された皇統を北朝(京都)、後醍醐帝の皇統を南朝(吉野)という。1392年、後亀山帝は両朝交互即位の条件で北朝の後小松天皇と和睦する(南北朝合一)。しかし、その条件は無視され、南朝は北朝に吸収された。だが、血統は残って熊沢家に受け継がれたというわけだ。
寛道は愛知県一宮市出身、京都府立成峯中学卒。21歳の時、本家筋に当たる熊沢大然の養子になった。大然は大阪在住、自らが南朝末裔であることの考証に生涯を捧げ、明治41年(1908)、家系復興のための上奏文を書いた人物である。大正4年(1915)、大然が世を去った後、その志は養子の寛道に受け継がれた。
昭和9年、(1934)、寛道は政界・官界・軍部の名士たちに片っ端から南朝系皇族(つまり自分)の復権を求める建白書を送りつける。さらに昭和11年になると、今度は天皇へ上奏した。その上奏は同14年、16年と重ねられる。
明治44年の国定教科書改訂から終戦時まで、日本政府は南朝びいきの国民感情に配慮し、南朝正統説を公認の史観としていた。ところが現皇室は北朝系である。この問題を深く追求しようとすると現皇室の正統性への疑義を招きかねない。そのため、政府としては南朝系皇族復権の主張はうやむやにしたい問題で、真っ向から否定するのはかえって難しかった。寛道はこの矛盾に乗じる形になったのである。寛道は昭和16年の上奏請願に、時の貴族院議長・衆議院議長を筆頭に名士たちの連署をとりつけ、宮内省でも特設調査機関の設立を約束せざるをえなくなる。もっともこの約束は第2次大戦勃発とそれに続く終戦で反故となった。
だが、戦後、名古屋で雑貨商を営んでいた彼に転機が訪れる。昭和20年12月、アメリカ人ジャーナリストたちがGHQの通訳とともに、その談話を聞きに来たのだ。日本にはヒロヒトの他にも天皇がいる!! ということで熊沢天皇の記事は『ライフ』誌に掲載され、さらにロイターやAP通信で全世界に配信された。
これは昭和天皇の権威を相対化しようというGHQの情報操作の一つだったのだろう。この報道のため、「熊沢天皇」は戦後に突如名乗り出たかのような誤解が世間に広まることにもなった。
この報道を機に寛道は自分こそ真の天皇と宣言、侍従たちを引き連れ、全国を講演して回る日々に入った。昭和22年には正皇党という政党を結成(間もなく解散)。昭和26年1月には東京地裁に現天皇・裕仁は皇位に不適格であるとの訴訟を起こすが、天皇は裁判権に服さないとの判断から却下される。寛道は東京高裁に抗告したが、同年4月、その主張(皇族としての地位確認、皇位請求)は法的にはすべて退けられた。この頃、彼は「大延」という私年号を使っていたという(もちろん「熊沢天皇」からすれば「昭和」こそが、私年号なわけだが)。
熊沢天皇は昭和32年に「退位」を宣言し、「法皇」として熊野宮正照王を号している。昭和37年にはNHKのドキュメント番組に出演、南朝正統の系図と、現皇室を足利義満の子孫とする系図を示している(もちろん作ったのは寛道自身)。寛道はそれを最後の花道として、昭和41年、膵臓ガンで「崩御」した。
なお、熊沢天皇が有名になった頃には、「我が家にくらべれば養子の寛道どころか、養父の大然さえ傍系にすぎない」という同姓の人物が4人も名乗り出ており、彼らと寛道とがお互い相手をニセモノ呼ばわりする騒ぎも生じている。
憲法改正より皇居を遷せ!
昭和16年頃から熊沢寛道の参謀役となっていた吉田長蔵という人物がいる。吉田が熊沢天皇の正統性考証に用いた文献は、神代以来、富士北麓の神官が代々書き継いだという『富士宮下文書』である。ところがこの文献、当時から学界では近代の偽書とみなされていた(拙稿「富士文庫の興亡」『季刊邪馬台国』88号)。
胡散臭い話の傍証に胡散臭い話を持ち出したところで、胡散臭さが二乗されるだけで、どちらの信憑性も高まるとは思えないが、この手のトンデモ話は「ニセ天皇」周辺には、つきまといがちだ。
三浦天皇こと三浦芳聖(1904〜1971)は「南朝第5代」大宝天皇の直系を称していた(ちなみに三浦天皇の系図には分家として熊沢家も出てくる)。
彼は昭和32年『皇居遷都提唱理由書』を衆議院・参議院の全議員に送りつけて以来、宮内庁をはじめとする関係各方面やマスコミに遷都の必要性を訴え続けた。
その根拠となるのは、彼が南朝秘伝に基づいて創始したという「神風串呂」だ。特定の人物や家系にゆかりの場所を直線で結び、その間にある地名を読み解くことでその人物や家系の未来や隠された過去を探る、という早い話が占いである。
三浦によると、京都(旧皇居)と東京(現皇居)の間の神風串呂には皇位を否定したり、物欲を刺激したりする因縁の地名がならんでおり、それが敗戦の原因ともなった。したがって皇室と日本民族のためには遷都こそ憲法改正以上の急務だというのだ。また、三浦は孝明天皇まで北朝系だった皇室が明治天皇で南朝系に移ったことを神風串呂で知ったという(これは後の大室天皇の主張に通じる)。
三浦にとって、南朝正統の肩書きは、彼が収入源としていた占いの宣伝文句に過ぎなかったようだ。
昭和20年代〜30年代初め、「ニセ天皇」は雨後の筍の如く現れ、マスコミを賑わわせた。保阪正康著『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001)にはこの時期の「ニセ天皇」19人の表が掲載されているが、その内訳は次の通りだ。
南朝系・・・・・・13人
安徳天皇の末裔・・・・・・3人
高倉天皇の末裔・・・・・・1人
順徳天皇の末裔・・・・・・1人
霊元天皇の末裔・・・・・・1人
大室天皇など、その表に入っていない「ニセ天皇」もいるが、これだけでも南朝系の圧倒的人気がうかがえる。
南朝に限らず、「ニセ天皇」の祖先(?)は皆不遇な生涯をおくった天皇ばかりだ。安徳天皇(在位1180〜1185)は源平の争いで海に没している。高倉天皇(在位1168〜1180)は在世中、一貫して平清盛に牛耳られていた。順徳天皇(在位1210〜1221)は譲位後に後鳥羽天皇が起こした承久の乱に連座して佐渡に流刑、霊元天皇(在位1663〜1687)は譲位後に徳川幕府の統制下で院政を行って、しばしば幕府と衝突している。彼らの子孫なら野に下ってもおかしくはない、というわけだ。
鹿児島県硫黄島には、安徳天皇が生き延びて御所を置いたという伝説がある。戦後の「ニセ天皇」ブームが起きるや、マスコミはこの伝説に目をつけ、安徳帝の子孫という長浜豊彦(1896〜1984)に長浜天皇なる呼称を贈った。しかし、本人は虚名に踊らされることなく、半農半漁で生計を立てつつ生涯を終えた。神職として島民から尊敬され、島の選挙管理委員長を務めたこともある。だが、彼はむしろ例外だ。「ニセ天皇」で安定した人生を歩んだ、という人物は稀である。
戦後、「ニセ宮様」や「ニセ外戚」には商売として成功した例はあるが、「ニセ天皇」でそのような例は皆無といってよい。熊沢寛道は、マスコミに飽きられ、東京の場末で貧しく寂しい晩年を過ごした。自称正統熊沢天皇の中には、熊沢天皇―GHQ―M資金という連想からか巨額の詐欺を幾度も試みた人物もいるが成功していない。ちなみにこの人物、寛道から「ニセ熊沢天皇」として、昭和25年に名誉毀損で告訴されている(早瀬晴夫『南朝興亡史』近代文芸社、1996)。
「ニセ宮様」なら廃絶した宮家の再興運動と称して出資者(カモともいう)をつのることができる。「ニセ外戚」についても、騙された側がその真偽を確かめようとしたところで水掛け論にもちこめる。だが、「ニセ天皇」は、誰もが認める「本物」の天皇おわす限り、たとえいかなる主張をしようとフェイクたることを逃れられないのだ。
しかし、「ニセ天皇」たちは、いかに得るものが少なくとも、なお「天皇」であろうとした。彼らは「皇位」それ自体の魅力にとらわれ続けていたといえよう。
偽史研究家◆原田実
−引用終了−
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