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(回答先: Re: トインビーの孫娘は祖父との対談は「売名目的」と池田の俗物性と独裁者ぶりを批判。 投稿者 gataro 日時 2005 年 10 月 09 日 10:06:52)
「清流山荘」という、日蓮正宗・大石寺門流の宗旨・宗史を考察する一信者の私的HPがあります。そこにこんな記述がありました。
【特集/池田大作/「称号・賞獲り」のカラクリ】
FORUM21 (02/08/01)
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/kunsyo02.htm
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【金権工作暴露したブラジルのエージェント】
今年の五月、創価学会の機関紙「聖教新聞」は、池田大作名誉会長の会長就任記念日である五月三日を記念する「5・3記念特集」を連載。連日、池田氏に対して世界各地から数多くの勲章や名誉市民称号・名誉博士称号などが授与されていることを大々的に報じた。
例えば五月二日付「聖教新聞」には「池田SGI(創価学会インタナショナル)会長に22の国家勲章」との大見出しのもと、授与された22の国家勲章の写真が大々的に掲載され、授与国の政府要人の池田氏に対する賛辞などが掲載されている。
同様に五月四日付には「124の名誉博士・216の名誉市民」との大見出しのもと、池田氏に授与されたすべての名誉博士・名誉市民称号の一覧表が大々的に掲載されている。
それからわずか一カ月半。六月二十七日から「聖教新聞」はまたも三回にわたって「世界から池田SGI会長に150の顕彰」との大見出しのもと、「5・3特集」同様、「聖教新聞」の見開き二ページを使って、池田氏に対する世界各国からの勲章・名誉博士・名誉市民などの顕彰の数々を大特集している。
ちなみに六月二十七日付「聖教新聞」では、池田氏に授与された勲章・名誉博士・名誉市民の数を次のように報じている。
「池田SGI会長の平和・文化・教育の貢献を讃えて、全世界が行った顕彰は、1500となる。22の『国家勲章』220の『名誉市民』称号、128の『名誉博士号』」
どうやら五月三日からの一カ月半の間に池田氏は名誉市民・名誉博士号をそれぞれ四つずつ増やしたようなのである。
こうした世界各地からの顕彰を、創価学会では池田氏の業績・存在を世界各国が高く評価している証拠だと喧伝。実際、六月二十七日付「聖教新聞」は、「1500」にのぼる顕彰を「民衆絶賛の証」などと報じている。
そして池田氏もまた、こうした世界各国からの勲章や名誉称号の授与を、自らの偉大″さの証明であるかのようにアピールする。
【勲章名と通算受章数を間違える】
平成元年末から二年にかけて池田氏は、南米のコロンビア、アルゼンチン、ブラジルから相ついで勲章を授されたが、ブラジルからの勲章が授与された後の五月三日、関西戸田記念講堂で開催された関西記念総会の席上、南米三カ国から相次いで勲章を授与されたことをこう自慢した。
「アルゼンチンから五月の大十字勲章をもらったが、これで七つ目である。これが妙法である。信心です。たった五カ月の間に三つの勲章をもらった。この三つは三代に通じる。三十周年に通じるんだ。五カ月間に世界の勲章を三つももらえる人は、これまで一人もいなかった。議員でもなんでもない私なのにだ」
池田氏は創価学会の三代会長(戦前の創価教育学会は前身であり、正確には二代だが)。そして平成二年は池田氏が会長に就任して三十周年の節目にあたっていた。
したがって三つの勲章を受けたとの三を三代、三十周年に結びつけ自画自賛しているのだが、笑えるというか、注目されるのはアルゼンチンの大十字五月勲章を七つ日の勲章と述べている点だ。
ここで言及しているように、たしかに池田氏は平成元年十二月にコロンビアから国家功労大十字勲章を、平成二年三月にはアルゼンチンの大十字五月勲章、さらに四月にブラジルから南十字国家勲章と、五カ月の間に三つの勲章を受章しているのだが、アルゼンチンの勲章は「五月の大十字勲章」ではなく大十字五月勲章であり、通算の受賞数もコロンビアが五つ目、アルゼンチンが六つ目、ブラジルが七つ目であって、アルゼンチンの大十字五月勲章は通算七つ目ではない。通算七つ日の勲章はブラジルの南十字国家勲章なのである。
普通、授与された勲章に対して敬意を持っていれば、勲章名や通算数を間違えることなどありえない。しかもこの三つの勲章は「議員でもなんでもない私」の偉大さを証明する「証」のはず。
その重要な勲章の名前や通算の授与数を平然と間違えるのは、所詮、勲章など自らの権威・カリスマの強化を図をための手段、学会員に対する目くらましの道具に過ぎないと思っている池田氏の勲章に対する本音を、はからずも露呈していると指摘できる。
しかも「聖教新聞」では池田氏に対する勲章や名誉称号などの顕彰を「民衆絶賛の証」などと喧伝しているが、実際には寄付行為をはじめとするさまぎまな金権工作の結果であることは、すでに多くの元創価学会幹部や関係者の証言などによって明らかになっている。
例えば、昭和五十四年に日蓮正宗宗門に対する教義違背や社会的不正の責任をとって会長を辞任した池田氏が、復権する過程の昭和五十八年に手にした国連平和賞。
創価学会ではこの国連平和賞を、池田氏の国際平和、ことに国連に対する多大な貢献の「証」であると喧伝する。
しかしその貢献とは、池田氏以前の国連平和賞の受賞者の一人が、テレビで高見山や子どもらと火消し装束で「戸締まり用心、火の用心」と歌い、「世界は一家、人類は兄弟」を繰り返したあのボートレースの胴元である日本船舶振興会の笹川良一会長で、
その受賞理由が世界保健機構など国連機関への貢献、平たく言えば寄付であることが示しているように、池田氏に対する国連平和賞の授与も、国連広報局の「国連口述史」編纂計画に賛同し、国連平和賞受賞の前年にあたる五十七年に一六万ドル(当時のレートで約四〇〇〇万円)を寄付したことが決定的要因だったと見られている。
もっとも、この「国連口述史」は出版されず、その寄付金の使途は分かっていない。そしてこの国連広報局を統括し「国連口述史」の編纂を推進していたのが、平成十一年の都知事選に公明党推薦で立候補し、親族に学会員のいる明石康国連事務次長だった。
ちなみに池田氏に対する国連平和賞の伝達式は、昭和五十八年八月八日、東京・渋谷区にある創価学会の国際友好会館で行われたが、国連平和賞の伝達に赴いたのは他ならぬ明石氏その人だった。
この国連平和賞の受賞から五年後の昭和六十三年一月、池田氏はインドの平和教育・文化振興財団である「開発教育ナショナルセンター」から、「国際理解のためのG・ラマチャンドラン賞」を受賞した。
同賞の受賞の模様を大々的に報じる一月九日付「聖教新聞」によれば、この「G・ラマチャンドラン賞」とは、「マハトマ・ガンジーの偉大な弟子、G・ラマチャンドラン博士の名にちなみ、開発教育ナショナルセンターによって制定され、平和と民族の相互理解の推進の顕著な功績のあった人物を宣揚」するために昭和六十年に制定されたもので、池田氏は日本人としての初の受賞なのだという。
同賞の授賞式は一月八日に、インド南部のマドウライという田舎町のガンジーグラム・ルーラル大学で行われ、池田氏の長男である池田博正氏(当時、副青年部長)が代理として出席し受賞した。
【インド政府が「問題人物」と告発する人物からの平和賞】
「聖教新聞」は、この 「G・ラマチャンドラン賞」の受賞を「仏教発祥の地インドの平和賞」との大見出しで一面トップで報じたが、「聖教新聞」の熱の入れ方とは裏腹に、インドでは「G・ラマチャンドラン賞」など、まったくと言っていいほど知られていない。
知られていないどころか、「G・ラマチャンドラン賞」を制定、授与している「開発教育ナショナルセンター」を主宰するN・ラダクリシユナン氏は、昭和五十七年にインド政府から「問題人物」として告発を受けている、いわばいかがわしい人物″なのである。
昭和五十七年二月にインド政府がまとめた英文で五六ページにのぼる調査報告書には、ラダクリシユナン氏がインド政府所有の財団であるガンジー財団の名前を無断で使用し、ガンジー財団の便箋、封筒をもって、諸外国の有力者に寄付を募る手紙を送り、多額の金を集めて私腹を肥やす問題のある人物だと、厳しく指摘している。
さらにはラダクリシユナン氏は、「開発教育ナショナルセンター」以外にも二十種類ほどの諸団体を主宰しており、寄付の見返りとしてせ賞を濫発する人物として、インドの有識者の間ではよく知られた人物だというのである。
創価学会はこれ以後も、ラダクリシユナン氏を重用し、SGIインドの顧問的な存在に祭り上げるばかりか、「聖教新聞」が池田氏を宣揚する諸外国の知識人の特集記事を掲載する際には、必ずといっていいほど登場させている。知らぬは学会員ばかりなりなのだが、まさに創価学会御用達″のインド人、それがラダクリシュナン氏なのである。
一昨年、筆者はインドを訪問しさる国会議員と面談したが、その際、ラダクリシユナン氏のことを質問すると、その議員は「あの人物は問題のある好ましからぎる人物」だと、さながらインド人の恥だとでもいうべく、厳しくラダクリシユナン氏を批判していた。
インド政府が、政府所管の財団の名称を勝手に使用して諸外国に寄付を募り、私腹を肥やしていると非難する人物が主宰する団体が制定した賞が、どのような背景で授与されたかは容易に想像がつく。
ところでインドで「G・ラマチャンドラン賞」を父親に変わって代理受賞した池田博正氏は、その後、創価学会副会長、SGI副会長に昇進、父親の代理もしくは名代として、池田氏に贈られる数多くの名誉称号を受賞しているが、平成六年九月にスペインを訪問した際には、代理受賞ばかりではなく、創価大学海外室副室長の肩書で、国立アウトノマ大学と創価大学の学術交流の交渉を行うとともに、父である池田大作氏に対する称号授与の交渉役も務めていたことが分かっている。
池田博正氏をはじめとする創価大学側がアウトノマ大学側と交渉した後に、元スペインSGI理事長の野口信之氏がアウトノマ大学関係者と接触したが、それによると、池田博正氏をはじめとする創価大学側は、アウトノマ大学のラウル・ビジャール・ラサロ総長らアウトノマ大学側に対して、池田大作氏の偉大さを強調し、寄付の見返りとして名誉称号を出して欲しいとしきりに要請したという。
スペイン創価学会の責任者だった野口氏は、創価学会の責任者時代、学会本部からこうした「寄付の見返りに名誉称号」を受けられるように大学などと交渉しろとの指示を、しばしば受けたという。
日本で唯一、池田氏に名誉市民称号を贈っている静岡県富士宮市が、池田氏に名誉市民称号を贈ったのも、公園整備など数億円の寄付の見返りだった。
もっとも余談ながら、創価学会ならびに池田氏が日蓮正宗・大石寺に破門された後には、富士宮市民の間からは、富士宮市の恥だから名誉市民条例は廃止して、池田氏に対する名誉市民称号も取り消せとの声が起こっている。
そうした池田氏のために勲章や名誉称号の受賞や、政府要人や著名人との会談をセットするための金権裏工作の実態を、赤裸々に暴露した人物がいる。元ブラジルのサンパウロ州の下院議員だったセルジオ・モリナガ氏である。
昭和五十九年二月、池田氏はブラジルに公賓待遇で入国したが、この入国のための金権裏工作に従事したのが、セルジオ・モリナガ氏だった。
昭和三十九年にブラジル創価学会が設立されて以来、池田氏は複数回、ブラジルを訪問しており、昭和四十九年にも南北アメリカ訪問の一環としてブラジルを訪問しようとした。
ところが昭和四十年代後半から池田氏はソ連、中国を訪問、昭和四十九年には日本共産党との間に創共協定を締結したことから、当時、反共を掲げていたブラジルの軍事政権は池田氏を「ペルソナ・ノン・グラタ(歓迎されぎる人物)」に指定、ブラジルヘの入国を拒否した。
(この折り、ブラジル入国が拒否され窮地に陥っていた池田氏を、急遽、受け入れ、池田氏の面子を保ったのがパナマのノリエガ将軍であり、以後、二人の親交はノリエガ将軍がアメリカ軍の侵攻で身柄拘束されるまで続く)
【池田氏のために200万ドルの金権工作】
その池田氏のブラジル入国と大統領との会談を実現させるために、創価学会はモリナガ氏をエージェントとして利用したのである。
「週刊文春」平成二年十二月二十日号には、「池田大作名誉会長ブラジル疑惑を告発する」とのモリナガ氏の告発インタビューが掲載されているが、その中でモリナガ氏は、池田氏のブラジルヘの入国と大統領との会見の実現を、ブラジル創価学会の理事長だったロベルト・斎藤氏から依頼され、工作資金はすべてブラジル創価学会が支払うとの約束のもと、政治工作に着手する。
モリナガ氏は政府高宮に取り入るため、所属会派を野党から与党に鞍替えしたのをはじめ、総額二百万ドル(三億円)もの金権工作を行ったと証言している。
その過程の昭和五十六年にモリナガ氏は来日、名古屋の料亭で池田氏と会食。脇息にもたれた池田氏とモリナガ氏が腕を組んでいる写真もある。その際、池田氏はモリナガ氏に対して、「私はエリザベス女王にも受け入れられる。ローマ法王にも受け入れられる。
ブラジルだけが私を受け入れてくれない。なぜだ。私はどうしてもブラジルに行きたい。協力して欲しい。必ずお礼はする」と語ったという。この来日の折、モリナガ氏は、竹入義勝公明党委員長、石田幸四郎副委員長(後の委員長)らとも会談しており、写真も残っている。
二百万ドルにも及ぶ金権工作の結果、モリナガ氏は昭和五十七年、フィゲイレド大統領から「池田氏を招待したい」との親書を貰うことに成功。同年五月、モリナガ氏は大統領府のコンチ大佐とともに来日し、同月十一日、池田氏に大統領の親書を手渡している。
これに対して池田氏は六月十四日付でフィゲイレド大統領に宛てた返書を出しているが、「創価学会インタナショナル会長池田大作」との直筆のサインのある返書には、
「拝啓この度は、閣下のご信頼厚き、セルジオ・モリナガサンパウロ州議会議員並びにジャイル・コンチ大佐を通じ、ご丁重なる親書を賜り、衷心より御礼申し上げます。ラテン・アメリカに於ける最大の国土に驚異的な発展を遂げ、更に躍動の前進を続ける偉大なる貴国訪問について、この度、閣下より直々の歓迎を受けましたことは、私の無上の喜びとするところであり、最大の名誉に存じます。念願でありました貴国訪問につきましては、ご返事が送れましたが、明年一月又は二月に是非とも実現したく、何卒宜しくお願い申し上げます」
と、池田氏の入国の背景にモリナガ氏の尽力があったことが記されている。ちなみに、池田氏の入国とフィゲイレド大統領との会談の後、創価学会はモリナガ氏の切り捨て、使い捨てに動いたことから、モリナガ氏は、池田氏に対する損害賠償を求めて提訴。あわせてマスコミに対して池田氏の非道を訴える告発を行ったのである。
この池田氏の久々のブラジル訪問の折、当時、池田氏の身の回りの世話をする秘書セクションである第一庶務の室長だった鈴木琢郎現創価学会広報室長は、池田氏の先遣隊としてブラジルに入り、日系の邦字紙に対して池田礼賛記事を書いてくれるよう金権工作を実施した。
その金権工作の一部始終は、ブラジルの日系週刊誌「週刊時報」昭和五十九年二月二十七日号が、「邦字新聞界にも史上最高の札束乱舞 日伯社長は『金一封』一蹴 池田創価学会の華麗な″行動」との見出しで報道したため、当時、日系ブラジル人社会で大きな話題となった。
このセルジオ氏の告発をはじめとする一連の事実は、「池田氏の偉大さは世界が認めている」との創価学会の主張が、実は、金権工作によって下支えされていることを示している。
かつて池田氏は、今日のEC統合につながるヨーロッパ連合を提唱したクーデンホーフ・カレルギー伯爵と対談した際、カレルギー伯が池田氏の活動を質賛し、いずれはノーベル平和貰をもらえるでしょうと持ち上げた際、次のように発言した。「そのような栄誉はほしくもありません。また下さるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもいいでしょう」(昭和四十二年十月十三日)
だが、今日では「国家勲章が22・名誉博士号が128・名誉市民称号が220」などと栄誉の数を自慢。金権工作で得た世俗の権威でその身を飾っているのである。
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