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「天皇版画」をめぐる定義のポリティクス
A Few Ovservations on Discursive Politics in Defining a "Tenno-Print"
* これは,1996年11月24日に琉球大学で開催された第69回日本社会学会大会のテーマ・セッション「構築主義の新展開を求めて」での報告要旨に,西阪仰氏の構築主義社会問題論批判についての覚え書きを補説として加えたものである。本稿の事例紹介の部分は,既発表の「『天皇表現』をめぐる三者関係型過程−『富山県立近代美術館問題』の構築主義的考察」(本ホームページに掲載)と重複するが,それに続く考察は,学会報告のための書き下ろしである。なお,事例のさらなる詳細については上の論文を参照されたい。[1997年1月10日記] *追記* 本稿を増補・改訂した「『プライバシー侵害の疑いがあるとされる作品の構築』−公立美術館が購入した連作版画の定義をめぐるポリティクス」が、1999年3月刊の拙著『社会問題の社会学−構築主義アプローチの新展開』(世界思想社)に収録されている。
1.「富山県立近代美術館問題」をめぐるクレイム申し立て活動の概要
a)美術展と非公開措置
1986年の3月から4月にかけて富山県立近代美術館で開催された美術展が,この「問題」のいわゆる発端である。この展覧会の招待作家の一人,大浦信行氏のコラージュの手法を用いた連作版画「遠近を抱えて」10点のうち4点が,展覧会終了後美術館に購入された。この連作が,同年6月に富山県議会の教育警務常任委員会の質疑で取り上げられる。2人の県議が,「[昭和]天皇陛下の写真に女性の裸体や人間の内臓図,骸骨などを組み合わせたもので,何ともわけがわからず不快感を覚えた」などとしてこの連作を「不快」「非常識」なものとして名指し,それを展示・購入した美術館の責任を追及した。
この議会でのやりとりは翌日,地元紙社会面や全国紙の地元ニュース欄で,作品の写真を入れて,かなり大きな扱いで報道された。この報道をきっかけに,富山県神社庁,日本を守る富山県民会議,郷友連富山支部,不二歌道会富山県支部といった団体や個人が,電話や文書,面談などの方法で美術館に抗議した。7月には,県外から街宣車を列ねて結集した民族派(いわゆる「右翼」)諸団体による,美術館とそれを統括する県の教育委員会に対する抗議や示威活動も行なわれた。同月,中沖豊知事が議会の本会議で同連作の展示・購入について「慎重さを欠いた」と陳謝,美術館はすでに購入した大浦作品4点を展示せず,「資料として保管する」ことを決めた。また,上記の展覧会にあたって美術館が発行した出展作品の図録(大浦氏の連作10点のモノクロ写真も収録されている)の残部も「非公開」とされ,販売・閲覧を停止された。
b)非公開措置のあとの「作品非難派」と「公開派」の動き
以後も,民族派の人たちによる,県への作品廃棄を求める働きかけは継続して行なわれた。いっぽう,1988年ごろから,「大浦作品を鑑賞する市民の会」など複数の市民グループによる,作品の公開を求める活動が活発化する。美術館が所蔵する大浦作品および図録とならんで,問題活動の焦点となったのは,富山県立図書館所蔵の図録1冊である。図書館は,寄贈者である美術館の要請に応じて,当初はその図録を非公開扱いにしてきた。しかし,その措置は「図書館の自由」に反するという日本図書館協会の指摘や,県議会での社会党議員による手続き上の不備の追及などもあり,1990年3月に県立図書館は非公開措置を解き,図録を閲覧に供することを決定する。閲覧が開始された当日,民族派団体とつながりを持つ県下の神職I氏が図書館を訪れ,図録の大浦氏の作品が掲載されたページを破り捨てた。県議会は,これは「表現の自由,言論の自由を侵害する行為であり,容認できない」とする声明を決議した。I氏は知事から器物破損罪で告訴され,1991年8月には,執行猶予つきの有罪判決を受けた(1995年9月に最高裁で有罪判決が確定)。1992年には,この神職がかつて在籍した民族派団体の幹部が,県庁で執務中の県知事を殴打しようとするという事件も起きた。
c)「天皇版画」の売却,図録焼却から裁判へ
作品公開を求めるクレイム申し立て活動は,美術館,図書館との「交渉」や,「表現の自由」をテーマとするアンデパンダン(無審査の展覧会),署名運動,美術館に規定のある特別観覧制度を利用した大浦作品の鑑賞運動といったさまざまな手段を通じて行なわれた。ところが,県教委は,1993年4月に,大浦作品を「美術品に対する造詣が深く,教育行政に理解のある」個人に譲渡すること,美術館に保管されていた図録の残部470冊を処分(焼却)することを決定する。譲渡を受けた個人は作品を「私的鑑賞にとどめる」意向であると報告され,また,「プライバシー保護のため」その個人の氏名は公表されなかった。
この措置は新聞などで全国的に報道され,その後,1986年の美術展の出品作家中13人による抗議声明や,富山と東京でのこの問題を「考える」シンポジウム,抗議の署名運動などが行なわれた。翌94年の4月に,公開運動に積極的に携わってきた大学教員O氏ら市民グループが作品売却と図録焼却を不当とする住民監査請求を行なったが,これは手続き上の不備(請求の名宛人の誤り)を理由に却下された。この却下を不満とするO氏ら地元住民や各地の美術・図書館関係者,作者の大浦氏自身などが同年秋に,教育委員会の行政責任者や美術館・県を相手どって,作品の買い戻しと図録の再発行等を求める損害賠償代位訴訟(行政訴訟)と国家賠償請求訴訟を起こした。1996年11月15日現在,前者では12回の公判のあと原告側が敗訴し(つまり上記の監査請求の却下は適法だったと認定され),控訴中。後者の国賠訴訟のほうも,すでに12回の公判を重ねている。
2.主体,言説の構図,「もの」の構築
a)問題とクレイム申し立て主体の相互反映的な構成
「社会問題」は,「問題」をめぐる人々の言説実践(discursive practice)を通じて構築される。これが構築主義社会問題論の基本テーゼである。そして,このテーゼには,i)「問題」を構成するとされる「もの」や状態,出来事と,ii)それについてクレイム申し立てを行う主体,そして,iii)クレイム申し立てを成り立たせる場面(setting)が,個々の状況(具体的な<ここ・いま>)の中での相互作用を通じて相互反映的(reflexive)に構成されるということが,潜在的に含意されていると思われる。こうした見方をとるなら,「大浦作品問題」,「天皇版画問題」,「不敬版画問題」,あるいは「近代美術館問題」などいろいろな呼び方をされてきたこの「問題」の姿と,この「問題」についての記述の中でひんぱんに焦点の一つとして扱われてきた「もの」=大浦氏の連作版画,そしてそうした記述を行う主体(クレイムメイカー)は,西阪(1996)のことばを借りるなら,さまざまな場面の中でそのつど「相互行為的に達成」されてきたということになる。
b)状況を超えた指し手(moves)のつながり
と同時に,構築主義社会問題論は,「社会問題」を達成する複数の<ここ・いま>の間のつながりに目を向ける。この「つながり」は,もちろん因果関係ではなく,一種の言及の関係である。「天皇版画」問題についていえば,美術展での大浦作品の展示と県議会での県議の質問,その質問と新聞報道,その新聞報道と「民族派」の抗議活動の間には,いうまでもなく言及関係がある。ただし,そうした言及関係は,必ずしもアトランダムなものではない。ある状況(おそらく館長,副館長らの幹部会議)内で近代美術館が大浦作品と『'96富山の美術』展の図録の非公開を決定したことは当然「その場限り」の事柄ではなく,それは以後の多くの場面での「美術館」に帰属される言説の中で一定の形で言及され,「美術館」と「作品非難派」や「公開派」とのやりとりに制約を課すことになる。また,問い合せや申し入れとそれに対する回答,法的な請求とそれに対する司法や行政の対応のように,社会問題活動のある種の指し手は,慣行上それに対応するとされる別の指し手を高い頻度で「伴う」。たしかに,「『社会問題』がそのつど個別の事例においてどのように言及されどのように扱われていくかを探求する」(西阪,1996:71)というエスノメソドロジー的な研究関心は,構築主義の「社会問題」観の原点だといえる。しかし,そうした探求を専らにして,「社会問題をめぐる活動(言説実践)のスレッド(一つながりの糸)を構築主義の分析対象にしよう」というキツセらの提言を放棄するなら,構築主義社会問題論はその独自の貢献の可能性の大半を放棄することになるだろう。(ちなみに,上記の西阪論文では構築主義社会問題論のシステマティックなクリティークが行われているが,それについては巻末の補説を参照のこと。)
c)言説の構図としての「定義」
いま一つの構築主義社会問題論に固有の装備は,問題の「定義」という概念である。これは,ある程度の広がりを持って流布し,具体的な状況内で「問題」の達成(もしくは非達成)の資源として使われる,「問題」をめぐる言説の構図ともいうべきもののことを指す。つまり,構築主義社会問題論は,ある種の意味(とイメージ)の構造性を前提にしているという意味では,デュルケムの集合表象論などとも遠くないところにいる(cf.Miller and Holstein,1989; Gubrium and Holstein,1990)。上の<概要>の記述からは,「行政」と「作品非難派」(もしくは「非公開派」「右翼」「民族派」)と「公開派」(もしくは「市民グループ」「公開運動」「左翼」)という三種の主体の対立の図式が容易に読み取れるだろう。この読み取りはもちろん,「公立美術館が天皇をちゃかした,もしくは天皇に対して不敬な作品を展示・購入することが問題」および「公立美術館が右翼の脅しに屈伏して表現の自由を侵す作品の非公開・売却の決定をしたことが問題」というこの「問題」をめぐる二つの類型化された「問題」の定義との対応関係によって可能になっている。もちろん,筆者の観察の範囲でいっても,さまざまなコンテクストの中でのこの「問題」の定義をめぐる言説には,こうした単純な図式に包摂されない多様性があった。しかし,重要なのは,「客観的」記述を旗印にするメディアや社会学者だけでなく,この「問題」をめぐるクレイム申し立て活動に携わる人たち自身も,上記の三種の主体のカテゴリーとそのそれぞれに帰属される言説の構図を必要に応じて利用して,「問題」やその「原因」,「解決策」,そして大浦作品という「もの」自体を記述し,自らの活動を組織化してきたという点である。
3.「天皇版画」の構築と accountability
a)「天皇版画」の誕生
「地元出身の新進美術作家」大浦信行氏が制作した10点の連作版画「遠近を抱えて」は,当然,この「問題」をめぐるクレイムの応酬の焦点の一つになってきた。この版画は物理的存在であると同時に,人為的な企図にそって作られた表現物である。この作品は,たとえば「昭和天皇の青年期から晩年の肖像写真を,レオナルド・ダ・ビンチや尾形光琳の作品部分,女性のヌード,頭蓋骨,イカの解剖図などとコラージュして版画化した」(『毎日新聞(東京版)』'93/7/8の三田晴夫記者の署名記事)と形容されるような非写実的なものである。つまりそれは,美術家や美術批評家にいわせれば,モダン・アートの作品の多くと同じく,それを見る人の多様な解釈と鑑賞の実践に開かれている。とはいえ,この作品が招待作品の選考委員会を経て地方公立美術館の美術展で展示され,さらに美術館に購入されたという事実によって,美術館という制度が裏書きする形で,物理的存在としての版画に「優れた美術品」という意味づけの層が上積みされたといえる。ちなみに,このように「解釈の多様性」をうたう現代美術の作品は,しかし実のところ,美術館や美術批評,画廊,美術品の市場といった場で不断に再生産される「優れた美術品」という枠組(およびそれをめぐるより「大衆的」な絵解きや物語)を利用して成立してきたのであり,こうした制度と枠組への不断の挑戦も結局はその枠組の境界の拡大を帰結してきたという逆説的な事情があるようにみえるが,そうしたことはもちろん,この報告の本題とは関係がない。
さて,86年3月から4月にかけての『'86富山の美術』展の会期中,この作品についてのクレイムが美術館側に対して申し立てられたことはなかったようである。地方新聞の美術展についての紹介記事の中で,近代美術館の顧問的な立場にあった地元の美術評論家は,この連作を「大浦信行の版画は,過去の勲章と裸婦の胴体,ベビーベッドと人体解剖図,マンダラ忿怒(ふんぬ)像などをコラ−ジュして現実を破る」(『富山新聞』'86/3/20)と評した。ここでも,あるいは連作のうち4点(ちなみに他の6点は大浦氏によれば美術館に寄贈される約束になっていた)の購入を具申する美術館の収蔵作品選定委員会の意見書でも,作品のそれぞれにさまざまな形で使われている昭和天皇の肖像についての言及はみられない。
したがって,6月の県議会の委員会での二人の県議の質問が,「天皇版画」という「もの」の構築のきっかけだったといえる。この質問はメディアに取り上げられ,大浦作品に「天皇版画」という意味の層が,初めて公共的に重ね合わされることになった。同作品は「天皇陛下の写真に女性の裸体や人間の内臓図,骸骨などを組み合わせたもので,何ともわけがわからず不快感を覚えた」という石沢県議(自民)のクレイムは,民族派団体の関係者や新聞報道など,その後のこの作品の語られ方の一つのプロトタイプになった。このときのやりとりには興味深いものがあるので,少し詳しく見ておくことにしよう。
b)作品の逸脱化をめぐるポリティクス
議会(委員会)の議事録によれば,石沢議員の追求に対して,答弁に立った美術館の久泉副館長は,表現の自由と作品の美術的価値という二つの論拠を示して大浦作品の展示・購入について弁明し,また「作者の制作意図」を代弁して,「(大浦氏には)天皇陛下の尊厳を傷つける気持ちはなかったようだ」と説明した。いっぽう,石沢県議は,「我々は,現在の天皇陛下を国民の本当の象徴として親しみ,尊敬している。素朴な県民感情として,観覧した県民には不快感が残ったのではないかと思うが,県民の反響はどうか」という質問を通じて,「素朴な県民/美術の専門家」というコントラストを提起した。そして自身を前者の立場に置くことで「芸術的」な議論を,しばしば特権化される「作者」自身の説明を含めてあらかじめ拒否するとともに,「天皇-国民-県民-我々[=自分]」という連鎖を示して,美術館(副館長)に「我々」の側に身をおくか否かを質すという指し手をとった。続いて質問に立った藤沢県議(社会)も大浦作品を「非常識」と指弾し,「国民が天皇在位六〇年を祝賀した直後に,こうした作品を展示するのは,芸術の美名に隠れて一部の者が快楽を覚えているだけではないか。近代美術館は112万県民の美術館であって,一部の文化人や作家グループだけのものではない」と述べて,石沢県議が示したコントラストを裏書きした。
大浦作品の逸脱性(cf.「非常識」「不快感」)は,その美術的価値には関わりなく判断しうるというのが,二県議の質問の暗黙の前提だった。答弁に立った副館長は,自分も「平均的日本人の一人であると思っている」として作品への「個人的な」疑念を表明し,上のようなコントラストや連鎖の構造には挑戦しなかった。そして,久泉副館長がその原案作りに貢献したという美術館の「館長見解」(6月11日付)では,「1.今回の展示作品について,一般県民の感情からいって好ましくない,というご指摘がありましたことについては,ご質疑の経過とともに報告を受けました。私の平均的日本人の一人としての心情は,県議会議員の皆さんとかわらぬものと確信しております。/2.今回のように,一般の不快感を誘うような場合については,今後の運営にあたって,より細心の注意を払ってまいりたいと考えております。/3.なお,購入した当該作品は,美術資料として保管するにとどめます。」というその文言に示されるように,上記の逸脱性についての前提を含めて,二県議のクレイムが提示した言説の構図を基本的には丸ごと受け入れる形で,大浦作品の非公開措置が表明された。
c)「天皇と裸婦」のイメージ
議会の委員会での県議の質問は,「遠近を抱えて」についての一つの見方を提示した。それは,「手術台の上のミシンとコウモリ傘」方式で配置された(といっても筆者の目には異化効果よりもノスタルジックな調和の感覚を打ち出したものと映るが)多様な素材のうちから特定のものを取り出し,それらの組み合わせとしてこの連作版画を語るようにと指示するものだった。その指示に沿う形で流布されたのが,大浦作品は「天皇と裸婦」を組み合わせた作品だというイメージである。
県議会での質問の翌日の各紙は,数段抜き写真入りで質疑応答の内容を伝えた。部数の多い全国紙『読売』は大浦作品を「天皇陛下の写真にヌードや内外の著名作家の仏画,解剖図などを配したコラージュ」と紹介し,委員会でのやりとりを紹介した。また,ブロック紙の『北陸中日』は「天皇陛下の写真と裸婦などを一緒に表現した一連のコラージュ作品」がもとになって自社両党の委員が「美術論争」をしたと述べた。いっぽう,県内で最大部数を誇る『北日本』は,地の文では大浦作品について美術館で展示され購入されたという以上の記述をしてはいないが,石沢県議の発言の引用の形で「天皇陛下の写真に女性の裸体や人間の内臓図を組み合わせたもの」という属性記述を提示した。どの記事も報道の対象となる出来事を基本的には「論争」として枠づけており(議会では以前から「美術館をめぐる論争」が行われていてそれがそうした枠づけのコンテクストになったと思われるが,ここでは詳述しない),したがって一方の「当事者」である大浦氏の見解も掲載された。三紙は,連作の中からそれぞれ別の作品を選んで掲載した。「遠近を抱えて」の10点のうち,素材に「裸婦」が含まれるといえるものは2点しかなく,しかも,そのうちの一つは刺青をしたヌードの背面図を使ったものであり,「天皇と裸婦」の組み合わせという形容が通常喚起するイメージから多少隔たったものである。この作品の写真を一紙(『北陸中日』)が掲載したが,他の二紙は「裸婦」を素材としない他の作品の写真を使った。
「'86富山の美術」展へ行って大浦作品を見た人の数が限られている以上,こうした新聞報道が,のちに作品の破棄や公開を求める活動に携わる人たちを含めて,多くの人が大浦作品に「出会う」最初の機会になった。以後の新聞報道では,「天皇陛下と女性ヌード/富山県立近代美術館の版画/慎重さを欠いたと知事陳謝/『健全発展へ関係者指導』」(『読売』'86/7/12)や「天皇陛下と裸婦はり合わせ版画/なぜ鑑賞させぬ?/県民が審査請求/富山県立近代美術館」(『毎日』('87/11/12)といった見出しに如実に示されるように,大浦作品を「天皇と裸婦(など)」を組み合わせた作品という記述がひんぱんに繰り返された。その中には,県教委が非公開にしていた大浦作品を売却した際の「県立近代美術館収蔵の昭和天皇とヌードなどを組み合わせた版画『遠近を抱えて』が,『管理運営上の障害』を理由に売却されたが・・・」(『朝日』'93/4/23)という記述のように,明らかに誤報の域に入るものもあった。美術館が購入し売却した4点の大浦作品の中には(ちなみに残りの6点は作者に返却された),「裸婦」を素材にしたものはなかったのだ。
県立近代美術館が購入した大浦作品を非公開にし,10点全部の白黒写真を収録した展覧会の図録の販売を停止したため,その後の「天皇版画」をめぐる諸活動の中では,こうした記述だけを通じて大浦作品のイメージが形成される傾向が強かった(事実,公開を求める運動に関った人たちの大半は,1993年に10点のカラー写真入りの『公立美術館と天皇表現』が地元の出版社から刊行されるまで「遠近を抱えて」の全体像を知らなかった)。「天皇と裸婦」を組み合わせた作品という記述は,「不敬」や「反天皇制」といった属性や企図を想起させはしないまでも,ともすればタブーを冒した,「ふつう」の領域の外にある作品という印象を呼び起こしがちだ。昭和天皇の病臥と死去,葬儀がマスメディアで非常に大きなトピックになった1988年から89年ごろには,とりわけそうだっただろう。「天皇と裸婦」の組み合わせという記述は,「作品非難派」の活動の編成に寄与すると同時に,「公開派」のとりわけ初期の活動を比較的散発的で孤立したものにするのにも貢献したかもしれない。
d)なぜ「天皇と裸婦」か
報道の中での大浦作品を「天皇と裸婦(など)を組み合わせた作品」とする記述のステレオタイプ化は,記者の取材不足や先行の記事を踏襲する慣行といったことだけでは説明しきれないだろう。そうした作品の記述が,どのような「事実」の報道のコンテクストの中にあるかに目を向ける必要がある。作品が売却される1993年ごろまでのメディア報道では,多くの場合,大浦作品がどのような作品かという説明は,県議による作品と美術館の非難,作品の非公開の決定,右翼団体の街宣車を連ねた抗議活動,富山県立図書館が公開した図録の神職I氏による破棄事件とその刑事裁判,I氏が昔入っていた民族派団体の幹部K氏による知事殴打未遂事件,そして作品売却・図録焼却といった,大浦作品を攻撃したり排除したりする活動の記述の中に埋め込まれてきた。そうした活動に記事(もしくは語り)の中で accountable(観察/説明可能)な形で言及するためには,大浦作品は単なる「さまざまな素材を使い多様な読みを許すコラージュ作品」でも「地元出身の新進作家の優れた作品」でもなく「天皇版画」でなければならないし,それも「天皇と裸婦」を描いた作品であるほうが便宜に適う。そうした記述によって,なぜ県議が美術館を非難したか,なぜ民族派団体が美術館と県に抗議したか,なぜI氏が図書館で図録を破ったかがたやすく説明できるのだ。その他の作品の定義(たとえば美術的評価や作者の制作意図の説明)はそうした事実報道にとって不可欠ではないから,かりに語り手が別の定義にも通じていたとしても,紙面のエコノミーがそれを排除する。
大浦作品の売却と図録の焼却をめぐる提訴が行われた1994年秋に,「富山県立近代美術館検閲訴訟原告事務局」は,県政記者クラブ加盟のメディア各社に,大浦作品の記述にまつわる「お願い」文を配布した。それは,県が売却した4点の作品に「裸婦」を扱ったものはないこと,そもそも「裸婦」を扱った作品は僅かしかないこと,また,10点の作品の中で使われるコラージュの素材は多様であり,「裸婦」や「骸骨」「解剖図」といったひんぱんに言及されるものを含めてその多くは東西の名画から取られたものであることを指摘して,注意深い報道を要請するものだった。これは,流布してきた「天皇と裸婦」作品のイメージを脱構築し,大浦作品の芸術性を印象づけようと試みた,定義をめぐるポリティクスの指し手だったといえる。その効果のほどの判定は難しいが,その後の新聞報道では,「昭和天皇の肖像を使ったコラージュ作品」といった一歩引いた形の属性記述がしだいに増えてきたのは事実だ。また,少なくともこの時期以降,売却された作品についてそれを「天皇と裸婦」を描いたものとする報道は後を絶った。
e)定義の多様性とクレイム申し立ての accountability
もちろん,大浦作品のという「もの」の定義には,多様な可能性がある。大浦作品と図録の破棄,責任者の処分を求める活動を精力的に行った神職のI氏は,大浦作品は「不敬」であるのみならず「左翼思想に基づいた『ためにする』ものだから芸術ではない」と主張し(ここで芸術は非政治的なものという広く流布する推論のパタンが使われている点が興味深い),また,図録破棄という行為を裁かれた裁判では,「大浦作品は国家の象徴である天皇を侮辱しているから憲法違反だ」と主張した。美術館と県教委は,当初からの「優れた芸術作品」という定義は否定しないままに,90年ごろには「管理運営上の障害を引き起こす」作品として大浦作品を扱うようになり,93年に大浦作品を売却する際には,そこにさらに大浦作品は「プライバシー侵害のおそれがある」作品だという新たな定義を付け加えた(ただし,このプライバシー侵害とは昭和天皇の人格権=肖像権の侵害のことである,という中身の説明は,翌年になってようやく法廷で行われた)。いっぽう,大浦作品の公開を求めた人たちは,この作品が「受難の芸術作品」であることを自明の前提として美術館にクレイムを申し立てたが,しかし,初期の公開運動の中ではそれを「天皇制批判の作品」とみる評者もあれば「作者が天皇と一体化した作品」とみる評者もあり,つまり作品の定義は必ずしも一枚岩のものではなかった。
作品の定義の多様性を示す例に,大浦作品の「性差別性」をめぐる論争がある。フェミニスト批評の立場から提起された「『遠近を抱えて』の中の『男=名前を持った着衣の人間=天皇/女=顔と人格のないトルソーとしてのヌード』という対置は,現実の反映ではあったも,現実の批判ではない。侵略戦争の陣頭指揮をとる天皇の対極にあるのが,裸にされ顔を持たないアジアの女たちであること,そして女たちの犠牲の上に天皇制が成り立っている現実への痛烈な批判とは,この作品はなってはいない」(北原,1991)という批判を皮切りに,地元の「大浦作品を鑑賞する市民の会」の機関誌や大阪の『人民新聞』の紙上などで,作品売却・図録焼却まで1年半近くにわたって,大浦作品や図像一般の性差別性をめぐる議論のスレッドが展開された。(それに連なる形で,「民族派」の神職I氏がその裁判支援団体の機関誌で『人民新聞』に掲載されたフェミニストの大浦作品批判に言及し,大浦作品はこのように「左翼にさえ」批判される非芸術だと説くという,興味深い言説も登場した。)
しかし,それを「性差別的」とするものも含めて,公開運動の中での大浦作品の多様な定義は,美術館や県教委を対象とする交渉や申し入れ書,質問状,あるいは記者会見での談話,抗議声明や集会の決議文といった「公開派」のクレイム申し立て活動に持ち込まれることはほとんどなかった。それは,そうした種々の「作品論」が,行政の作品・図録への非公開等の措置を批判し,それについての説明を求めるという「公開派」の公共的な場での活動の組織化(つまりそれをより accountable で「説得力がある」ものにすること)に特段役に立つ(というか relevantな)ものではなかったからだといえるだろう。「行政は右翼の圧力に屈して大浦作品が非公開・売却された。それは表現の自由の侵害であり,行政の措置は撤回されるべきだ」というのが「公開派」のクレイムの基本線であり,そこでは大浦作品が「優れた芸術作品」であることは自明とされている。大浦作品の定義のそれ以上の分節化(articulation)は(それが権威ある賞を受賞したというようなことでもないかぎり),多くの場合,クレイムを「分かりにくく」することはあっても,行政の職員や新聞記者への「説得」にはほとんど役立たないだろう。(こうした「公開派」の活動をフェミニストが,「表現の自由」というレトリックに依拠して女性の声を排除するものだと評価する可能性ももちろんありうる。)
4.付論−構築主義の方法論と参与観察
a)コミットした調査は必ずバイアスを生むか?
この報告が依拠するデ−タは主に,ドキュメント類の収集,インタヴュ−,参与観察という三つのやり方を通じて得られた。このうち最後の参与観察について,若干のコメントが必要だと思われる。「問題」をあくまでクレイム申し立てという言語行為を通じて立ち現れるものとして位置づけ,それが「本当は何であるか」について研究者は判断しない,というのが,構築主義の方法論上の公準である。この公準は,実際の調査研究にあたって研究者が「当事者の一方にコミットしない」(Gusfield,1984)ことを意味するものとして理解され,それは参与観察などのエスノグラフィックな調査モ−ドに一定の制約を課すと受け取られてきた。一方,この調査においては筆者は,ある時点(だいたい1991年ごろ)からミイラとりがミイラになり,問題の「一方の側」の活動に全面的に参加するという,積極的な参与観察を行なってきた(最終的には裁判の原告になり,自ら県立図書館へのアクションを起こしたり,「公開派」の立場に立つ文章を発表したりもしている)。しかし筆者は,この研究で自分が公準破りをしたとは思わない。「当事者の一方にコミットしない」とは,より正確にいえば,分析にあたって「その研究者が帰属されるグル−プ・機関のそれを含めて,社会問題についてのあらゆるクレイムを等しく非特権的なものとして扱うように」という研究者への理論上の要請である。積極的な(コミットした)参与観察は,実践的および倫理的な困難をより多く招きこむかもしれないが,そうした調査方法がただちに上のような要請の踏み外しを帰結するとはいえない。
「コミットした」調査法に対してまず第一に出てくる異議は,そうしたやり方はバイアスをもたらし,調査デ−タの「客観性」を疑わしくするというものだろう。しかし,科学的認識の中立性について素朴な見方をとらず,あらゆるデ−タが理論負荷性を持つという最近の科学論の論点を認めるとすれば,デ−タの「客観性」の問題は,調査者の個人的な意見や「問題」をめぐる活動への参加の有無にではなく,むしろ,調査者がどれだけ理論(ここでは構築主義パ−スペクティヴ)の要請と整合性があるかたちでデ−タを構成し,使用するかという点にかかっているといえる。その点についていえば,これは読者各位に判断していただきたいことだが,少なくとも筆者自身は,自分が「公開派」の活動に携わったことが,本報告の考察のそこここに理論上/方法論上の「踏み外し」をもたらしたとは思わない。
b)コミットした調査の難点
とはいえ,コミットした調査は必ずしもお奨め品ではない。なぜなら,それはさまざまな実践上の困難を伴うからだ。「問題」をめぐる活動への積極的な参加は,研究者の立場からすれば,そのリスクの問題をさておいてもコスト・パフォ−マンスが悪い。フィ−ルド調査自体が多くの時間とエネルギ−を要求するものであるのに,そのうえに「運動」をきちんとやろうとすれば,往々にして「身が持たない」(「運動」などというものはだいたい,人手不足と相場が決まっている)。アクション(クレイム申し立て)を企画し,必要な資料や書面を準備し,相手との交渉に臨み,記者会見をしたあとで,机の前に座ってさらにフィールドノートを書く時間と気力を絞り出すというのはほとんど神業だろう。アクターと観察者を同時にこなそうとすることには,かなり本来的な無理がある。「運動」の会議で当面する課題(たいてい急を要する)を解決すべく相談や議論をしながら,自分を含めたその場のメンバーによって「問題」が「相互行為的に達成」される様子を詳細に観察し,記録するのは不可能に近い。
もちろん,二つの立場の使い分けがもたらす,倫理的なダブルバインドの問題もある。また,この「天皇版画」問題のような対立の構図がある場合,コミットした調査は一方の側の活動の調査を容易にするかわりに(調査者が活動の場面で自分の存在を accountable にしやすいという点だけでもずいぶんやりやすい),反対側への突っ込んだ調査はきわめて困難になる。したがって,「『問題』をめぐる対立に中立の立場をとり,問題活動を禁欲する」という科学者主義的な社会調査者の職業倫理は,もしそれが職業集団の権威や信頼性の後押しを得て有効に働くなら,調査の実践的な戦略として上策だと思われる。
以上のことを踏まえた上で,しかし,コミットした調査法は,一方で「クレイムメイカ−になる(becoming a claims-maker)」という,研究上きわめて貴重な体験を与えてくれるということも付け加えておきたい。「逸脱者になる」(Matza,1969)という経験については,共感や追体験といった間接的な手法を通じてしかアプローチできないが,研究者は市民として,自らの「良心」が認める範囲の中でいつでもクレイムメイカーになることができるのだ。
●参照文献
Gubrium,J.F.and J.A.Holstein.1990.What Is FAMILY? Mountain View,CA: Mayfield(1997年に新曜社より邦訳刊行予定).
Gusfield.J.R.1984."On the Side: Practical Action and Social Constructivism in Social Problems Theory."Pp.31-51 in Studies in the Sociology of Social Problems,edited by J.W.Schneider and J.I.Kitsuse.Norwood,NJ: Ablex.
北原恵 1991 「《頽廃芸術の夜明け》は誰にとっての夜明けか−富山県立近代美術館問題を考える」『越中の声』1号,大浦作品を鑑賞する市民の会 4-9頁.
Matza,D.1969.Becoming Deviant.Englewood Cliff,NJ: Prentice-Hall.
Miller,G.and J.A.Holstein.1989."On the Sociology of Social Problems."Pp.1-16 in Perspectives on Social Problems,Vol.1,edited by J.A.Holstein and G.Miller.Greenwich,CN: JAI Press.
中河伸俊 1995 「『天皇表現』をめぐる三者関係型過程−『T県立近代美術館問題』の構築主義的考察」『富山大学人文学部紀要』23号 33-58頁(この論文の改訂版が,このホームページに公開されている).
西阪仰 1996 「差別の語法−『問題』の相互行為的達成」 栗原彬編『差別の社会理論』弘文堂 62-76頁.
Spector,M.and J.I.Kitsuse.1977.Constructing Social Problems.Menlo Park,CA: Cummings(1987,Hawthorne,NY: Aldine de Gruter); 村上直之ほか訳『社会問題の構築−ラベリング理論をこえて』 マルジュ社 1990.
富山近代美術館問題を考える会(編) 1994 『公立美術館と天皇表現』桂書房.
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