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ニーチェさんの「Re: 万世一系思想を唱えた勢力自身が簒奪者であったたに沈められた真実」( http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/559.html )へのレスです。
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>>藤原不比等”は亡命百済貴族の子であるはずですから
>あっしらさん、丸ごと自らに投影させて、夢見心地になりすぎ。
>もっと冷静になりなさい。あなたが在日であることはよくわかりましたから。
阿修羅という場では実証も反証できない話を持ち出してあれこれいう投稿者を恥知らずだと思っています。
(歴史認識はどの近代民族国家に属しているかで違う傾向にあるので、歴史認識を議論するさいに国籍や民族帰属意識を問う意味はあると思っています)
「藤原不比等が亡命百済貴族の子」であることと「在日」とが何か関係があるとお考えですか?
関係があり、そのように思うことが夢見心地になれるネタだとお考えなら、韓国や北朝鮮の一部言論人士と同じようなトンチンカンのお考えです。
韓国や北朝鮮の言論人士のなかには、古代日本(倭)には朝鮮半島の勢力が「分国」をつくり倭を支配していたと考えその末裔である日本が秀吉の朝鮮出兵や明治維新後に出兵を繰り返したのは“祖国”への裏切りだと言って非難する人や、桓武天皇の母親が百済系だということから朝鮮系が日本を支配するようになったと主張する人もいます。
あなたの物言いは、そのような考え方の裏返しでしかないように思えます。
人は土地につながれて生きてきたわけではないし、ある土地を同じ政治勢力がずっと支配してきたわけでもありません。
そして、同じ地理的範囲に先祖代々暮らしてきた人たちが同じ“自意識”や国家観を持ち続けてきたわけでもありません。
7世紀以前に日本列島に渡来してきた人たちは、自分を「朝鮮人」と思っていたわけではありません。(思っていなかっただけではなく、朝鮮人と呼べる根拠さえありません)
百済・高句麗・加羅などから来た人たちは、百済人や高句麗人と思うか、旧百済の○○一族の者といったレベルの自己認識をしていたはずです。
朝鮮半島で生活している人たちが自分を朝鮮人と思うようになったのは、早くても1392年の李氏朝鮮の成立以後で、広く庶民が朝鮮人という自意識を持ったのは、近代に入り日本・清・欧米といった諸外国との関係が深まり日常生活にも影響を与えるようになってからでしょう。
(中国人や韓国人は、日本人に較べて、国民的同胞意識よりも一族同胞意識が強い)
唐と組んだ新羅によって祖先が故地をあとにしなければならなくなったと考えていた渡来者が、祖先の地を回復したいと願ったりそれを志向した動きを見せてもなんら不思議ではありません。
彼らにとって、李氏朝鮮であれ大韓帝国であれ、そこは“祖国”でなく、そこに住む人たちも“同胞”ではありません。それどころか、自分たちの故地を支配し占有している「敵」なのです。
(朝鮮半島で暮らしている人の祖をたどれば、シナ・満州・沿海州・モンゴル平原・日本列島など朝鮮半島以外の地を故地としている割合は相当高く、古来より朝鮮半島に住み続けてきた人たちはそれほど多くないはずです。そういう人たちが政治的統合形態の変遷を伴う1千年ほどのあいだに「朝鮮人」という同胞意識を持つようになっただけの話です)
このようなことは日本列島で生活している人たちにも言えることです。
対外政治活動も担う政治支配層は国号設定時より「日本」を強く意識したでしょうが、市井の学者でも「日本」を強く意識し論を打ち出すようになったのは江戸時代からで、庶民が広く日本人であることを意識するようになったのは明治の中頃以降と考えて大過はないでしょう。
「日本」及び「日本人」という意識は、新羅による朝鮮半島統一で生じた大量の渡来者をも含む日本列島居住者の長い歴史の生存活動(戦争も含む)を通じて徐々に形成されてきたものです。
[ニーチェさん]
「まずは竹内宿弥と神宮皇后による朝鮮出兵が、1894年の朝鮮出兵と重なる。
その結果、日本による半島への関与、交流が活発化し、半島を日本の影響下におこうという動きと
半島系の日本への流入も活発化。そんな中、雄略天皇のとき、新羅に大敗、
日本の半島支配力は一気に崩壊、逆に新羅が、九州への関与を強め、
九州、磐井の反乱、日本の天皇、王3人が次々に死ぬ、という自体に。
これは内乱であると同時に、新羅による日本介入の結果である。」
神功皇后の時代は三韓の時代で、倭は、朝鮮半島に対する政治的影響の行使より列島内部の統合にかまけていた時代だろうと考えています。
三韓(馬韓・辰韓・弁韓)が百済・新羅・加羅(安羅)と統合形態を変え、高句麗との緊張も高まっていく過程で、半島居住者の日本列島への流入は増大したと考えています。
雄略天皇のときに新羅に大敗したとか、それ以後のある時期に新羅が九州に関与を深めたという形跡は見当たりません。
雄略から継体の時代に、加羅が新羅との統合を選択したらしいこと、そのために半島南部での政治的影響力を大きく失った当時の政権(イワイ王権)が倒れたことは推察できます。
(その後加羅(安羅)の一部は倭を後ろ盾に新羅支配に抵抗することになりますが562年に敗北します)
新羅は、高句麗と百済に対抗しながら存続していくのに精一杯という状況が続き、倭(日本列島)に介入できる余力はありませんでした。
[ニーチェさん]
「その後、新羅は、562年、日本と関係の深かった安羅(日本では「漢(あや)とも書き、
漢、滅亡時の亡命者の国)」を滅ぼす。安羅=漢族は、そのまま日本に流入、秦(地盤は九州)と友好関係。
実はこの人たちが、大化の改新の主役であり、天武天皇は安羅=漢族系統。
天武天皇=孝徳天皇=漢皇子であり、天智天皇は、蘇我入鹿その人であったりするかもしれない。」
それまで倭の政権と縁が深かった加羅・安羅が新羅に吸収された時期に多くの渡来者があったことは間違いないと思っています。
東漢・西文・秦などの諸氏がこの時期の渡来であったかどうかは確定的ではありませんが、加羅・安羅地域からやってきた可能性は高いと考えています。
「大化の改新」については、日本書紀に書かれたような政治的事件があったとは考えていません。(せいぜいが半島南部の政治的変動(百済が新羅領域を侵食)に触発された渡来系同士が諍いを起こした程度)
孝徳天皇が「大化の改新」で死んだことになっている蘇我入鹿だろうと考えています。
[ニーチェさん]
「天智天皇系統=日本の大和に権力があった集団(親百済)、
天武天皇系統=562年、安羅の滅亡時に、半島から渡ってきた漢民族(親新羅)であり、
日本の地にて、漢の復興を夢見て、大化の改新を断行、難波宮や藤原宮は
きわめて巨大であり、かつその形態は、「漢」のそれに近いという(うる覚え)。」
562年当時は欽明時代で聖徳太子や蘇我入鹿と同系の豊日政権(九州東部)だったと考えています。
倭の支配層もしたたかですから、渡来者が政治権力をめざすことを警戒していたはずです。渡来系族長は自分たちの側に置き、その下の連中を「地方開発」に送り込むことで反乱の芽が育たないようにすると同時に、彼らの技術力を開発に活かすという合理的な策を採っていたようです。
そのような策が瓦解したのが、「白村江の役」の敗北だったと考えています。
※ 難波宮はその跡地を探している段階のようです。藤原(新益)京は7世紀末に造営され、唐や百済の影響を受けているようです。
[ニーチェさん]
「奈良時代は、基本的に、天武天皇=漢=安羅(あら、あや)王権だと思うが少し複雑。
私の推測では、正史とはぜんぜん違って、光仁天皇=道鏡=天武天皇系=漢=安羅であり、その娘を娶った、桓武天皇(=天智系)が、亡命百済人の力を借りて政権を奪い返した、というのが実体。
桓武天皇と早良親王は、兄弟ではなく、義理の兄弟。早良親王こそ、光仁天皇=道鏡の実子であり、
順当にいけば正統な?皇継者。ちなみに早良親王の母親は、称徳(皇謙)天皇である可能性もある。
光仁天皇=道鏡と称徳(皇謙)天皇は、実際の夫婦だったと考える。
桓武天皇が歴史を改ざん。
9世紀の権力闘争も、裏には、天智天皇=桓武天皇系統と、天武天皇系=漢=安羅の対立が色濃く影を落とす。
都を京都に移したのも、平城京=天武天皇系の都だったからだ。
京都はもともと、秦氏の領地。それを桓武天皇は略奪、秦氏系と天武天皇系=漢=安羅系は信州、関東、東北に落ちのびた。」
奈良時代の系譜については、具体的な内容に違いがあるとしても、似たような見方をしています。(日本書紀に書かれたような天智はいなかった、あれは余豊章の投影だと考えているので、天智系と天武系という分け方は採りません)
文武天皇=軽(カル)皇子ですから、律令制初代天皇として加羅(カラ・カヤ)系を担いだと見ています。(文武天皇=軽(カル)皇子の出身地は九州遠賀川下流域だと思っています)
道鏡は、「壬申の乱」で敗北した豊日政権の末裔の可能性があると思っています。
[ニーチェさん]
「確かに、日本の王族は、朝鮮半島ときわめて密接な関係をもって、動いているが、
完全に入れ替わった、などという単純な発想は、手前味噌であることなど、
頭のいい、あっしらさんにはよくわかっているだろう。
それとも逆に、頭がいいから、歴史は捏造で動いてきたことを知っているから
わざと捏造情報を流して、洗脳支配にいそしんでおられるのか?
うそ情報が力であることは、優秀な政治・国際・経済・歴史ウォッチャーのあなたには
あきらかですからね。あなたは真実の歴史解明ではなく、権力闘争の道具として
日本の歴史を利用しておられる。」
歴史は物語でしかないと言っている者を捕まえて、捏造情報を流しているとか、権力闘争の道具して利用しているなどと評価するのは買い被りですよ(笑)。
私は、日本書紀・三国史記・シナの史書を合わせ読む限り、これまでちょこまか書いてきたような歴史であったように思えると言っているだけなのですから...
あなたが今回のレスで書いたのと同程度の“捏造情報”(笑)でしかありません。
自分にとって土着勢力であれ渡来勢力であれ誰が政治的支配者であったかはどうでもいいことです。
政治支配層は、古来より、嘘の情報で自分たちの正当性強化を図るとともに、なぜか嘘であることがわかるように嘘を書く習性を持っているという考えのネタとして古代史を取り上げているのです。
なお、天皇が何家の者なのかが政治的に重要だった時代は律令制後にはなかったと思っているので、天皇の系譜が変わることをもって政治支配層が完全に入れ替わったとは考えていません。
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