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(回答先: Re: 公孫氏グループが「常世の神=オモイカネ」のようです。 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 8 月 03 日 12:21:16)
ODA ウォッチャーズさん、どうもです。
>公孫氏のグループの、倭進出について、何か、御考えはありますか?
もう少し具体的な提示をしていただければそれに沿って書けるのですが、思うところを気ままに書かせていただきます。
公孫氏が春秋戦国時代の燕(山東半島の北方から遼東半島の西方にかけてを領域)にダイレクトにつながるかどうかわかりません、燕と倭は(前)漢時代以前から深い政治的関係があったと推測できます。(山海経の「倭は燕に属す」と読めないこともない記述とか..)
倭は、シナ中原の王朝と政治的関係を持つよりも早く、韓半島北部から遼東半島にかけての地域を支配していた勢力(燕ないしその後裔と称するグループ)とのつながりを持っていた可能性があります。
ご存知のように、漢の時代(BC3世紀ころ)からシナの王朝は遼東半島から朝鮮半島へと勢力圏を拡大する動きに出ます。
それを契機に朝鮮半島は激動期に入り、満州地域から南下した夫余系の覇者である高句麗も交えて、7世紀後半の新羅による半島支配までカオス的政治状況が続きます。
(この期間の朝鮮半島では、三国志よりも面白い政治的駆け引きと攻防戦が展開されたと思っています)
公孫氏は、魏の時代(AD3世紀)に朝鮮半島の北部・中部で一大勢力圏を築いていましたが、魏に破れ縮小した勢力が南下することになります。
その南下と定住に倭が協力したかどうかは定かではありませんが、韓半島南部の倭の領域と接するかたちになり、倭と公孫氏は政治的経済的に深い関係になったようです。
公孫氏はその後百済領になる鉄鉱石産地を領域内にもっていたか製鉄技術に長けていたと推測しています。
公孫氏とそのような関係を持っていた時代が、倭の邪馬台国連合からその後の「クナ系主導」連合に当たると考えています。
公孫氏は、勢力を増大させた百済のために4世紀中頃に支配領域を失い、それまでの関係から倭に渡来したと推測しています。
公孫氏の末裔を名乗る「常世連」は後世の官製歴史書「日本書記」にまったく登場しないので、公孫氏の主力が他の姓を名乗って倭人化したか別の出自として違う姓を名乗ったか婚姻関係を経て土着化したのかは定かではありません。
(秦氏が公孫氏グループの可能性も否定はできないとは思っています。秦氏は辰韓(のちの新羅)北部のウルチンの出という説がありますが、確定的ではありません)
公孫氏グループは、統治技術・漢字及びシナ語の理解・金属器技術などで重宝されたはずですから、時期は限定的かもしれませんが、秦氏・西文氏・東漢氏などと同じように政治的支配層の近くに位置していた可能性が高いと思っています。
朝鮮半島は戦乱が続き“最後の逃げ場”である日本列島に渡来する人は数多かったわけですから、公孫氏グループは、渡来者間及び倭内での権力闘争の過程で勢力を縮小してしまった可能性もあります。
日本列島西部の政治権力も変遷(交替)がありましたから、公孫氏グループがどの勢力と強いつながりを持っていたかでその消長が決っせられたはずです。
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