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(回答先: 鉄鋳造と加羅文明 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 03 日 00:55:00)
愚民党さん、レスありがとうございます。
>あっしらさん。ありがとうござんした。カオスですいません。
カオスこそが力強い躍動のエネルギー源だと思っています。
国の歴史は、苦しみ楽しみ憎み喜ぶ日々を生きた個々の人の歴史の総体であって政治史(支配史)や文化史ではありません。
そのようなカオスである歴史に“真実”があると考えるのは虚妄です。
誰が支配者だったのかとか、どういう政治形態だったのかというのは、今を生きているひとり一人に染み込んでいる“歴史”の滴に較べればとるに足らないものです。
自分そして自分をこの世に送り出した両親という連鎖こそが歴史の縦糸であり同時代を生きた人々の関係が横糸です。
そのような縦糸と横糸が織りなす現在が歴史的日本であって、ひとり一人の思いと活動が織り上がりを微妙に変えていきます。
支配層は、一本の糸のほつれや切断さらには引っ張りや緩みが歴史を変えてしまうことを恐れています。だからこそ、支配層が提示する物語である「日本史」にひとり一人を封じ込めようとします。
自分そして親の生き様を出発点として歴史を考える愚民党さんの歴史観が好きです。
そこから政治史や文化史を捉え直したとき、歴史的日本の織り柄を変える一助になるはずです。
日本という領域に生きるひとり一人が自分の物語としての「日本史」を持つというカオスが深まっていけばいくほど、支配層がめざすベクトルとは違う変化を起こすエネルギーが充填されていくと思っています。
● 加羅
愚民党さん:「朝鮮三国史といいますか
百済史にも新羅史にも加羅は記述されていないということです。
「倭がまた襲撃してきた」これは何回も記述されております。
おそらく加羅が襲撃したのでしょう。」
加羅の歴史に関しては、「三国遺事」に限定的に記されている以外は中国史書にほんの少し記述があるだけで、もっとも豊富な記述があるのはおそらく「日本書紀」です。
加羅については、いわゆる任那との関係がいちばん気になります。
任那=加羅説もありますが、任那=安羅の可能性はあるとしても、任那と加羅は政治的に密接な関係というレベルを超えるものではないと思っています。
「倭がまた襲撃してきた」は『三国史記』新羅本紀に何度も出てきますが、日本列島からではなく韓半島南部から出撃した倭人で、“公式”の派兵もあれば私的な侵攻もあっただろうと考えています。
“日本”という概念(呼称)は、任那(朝鮮半島南部の倭人地域)ないし加羅の倭人拠点で生まれた可能性が高いと思っています。
加羅は6世紀中頃に滅亡しましたが、それまでも政治支配層の変遷があったようで、滅亡時の支配層は日本列島に渡来してきたはずです。
(加羅勢力は「壬申の乱」の勝利者側の一つの主力だった可能性が高い)
ご指摘のように、「倭は唐・新羅連合軍との海戦に敗れて
鉄の鋳造先進地帯、加羅文明を喪失してしまいました。
まんずそこらへんを見通して、あらたなる鉄とか金の発掘開発といいますか
陸奥国と出羽国の創建を急いでいたと思います。
金属鉱脈はやっぱ山岳ですけん。」という流れだと思っています。
(「白村江の役」は、百済に与することで加羅・安羅・任那の領域を回復できるかもしれないという動機で進められた可能性が高いと思っています。そして、この思い=歴史認識が、秀吉の朝鮮出兵や明治維新後の朝鮮進出に多大な影響を与えています)
● 東国
おっしゃられるように、「坂東の群馬は馬の生産地、陸奥国の岩手あたりも馬の生産地になったと思います。鉄と馬。騎馬民族征服説の展開は坂東とか東北のほうがダイレクトであります。」だと思っています。
韓半島の新羅統一の前から日本列島に狩猟系騎馬人が渡来していたはずですが、「白村江の役」後は大量かつ組織的な渡来があり、百済系を除けばほとんどが東国に居住しています。
東国については、韓半島からの渡来者だけではなく、「壬申の乱」の敗北者側も“潜在的反体制勢力”として根付いたと見ています。
「日本書紀」で聖徳太子として描かれている人物を生み出した王権勢力は東国にも進出していましたから、「壬申の乱」で“本家”筋が敗れたとき土着化を急速に進めたと思われます。(東北のアベ氏なんかは倭(豊日政権=聖徳太子系の王権)の土着化(地元勢力との婚姻に象徴)だろうと思っています)
高句麗や新羅(反乱を起こし亡命した人たちが主力)からの渡来者も支配される状況に甘んじ続けることをよしとするわけもなく、土着化した旧王権の残党も復権を考えていたと推測します。
このような東国の状況が、鎌倉幕府から江戸幕府に連なる「東国勢力による日本支配」の基盤になったと思っています。
「東国勢力による日本支配」は、律令制的“社会主義国家”を騎馬系要素を含む“連邦国家”的構造にシフトさせ、地域支配者の進出で日本列島西部にも東国的価値観をもたらしました。。
これが、近世日本の活力源であり、近代日本の基礎を築く大きな転換だったと思っています。
公地公民という“社会主義国家”的外皮でありながら、フジワラ氏(百済貴族の末裔だと思っています)の“私有国家”的実相に陥ったまま歴史を歩んでいれば、前近代の朝鮮のような庶民の活力が阻害される社会になっていたかもしれません。(どちらがいいと言いたいわけではありません)
※ 上述の歴史過程のなかを生きた人たちの末裔もいれば、北海道や琉球のように別の過程なかを生きた人たちの末裔もいるし、何世代か前では現在の日本では生活していなかった人たちの末裔もいて、現在の日本が織り上がっていると思っています。
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