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『平安時代編4・・・国風文化』
最初に一言。よく、「遣唐使の廃止によって文化が国風化した」といわれるが、これは誤りである。文化の国風化の流れは奈良時代にすでにあった。しかし、平安初期は「異様に中国かぶれ」の時代であり、「国風化の暗黒時代」といえる。遣唐使の廃止は、国風化の流れを加速させたに過ぎない。
さて・・・
○国文学の発達
漢字を簡略化したのが平がなで、一部をとったのが片かなというところからスタート。
紀貫之を撰者とする「古今和歌集」が、醍醐天皇の勅で作られる。紀貫之による序文、いわゆる「かな序」は史料で出ることがある。これ以後、鎌倉時代に後鳥羽上皇の勅で作られた「新古今和歌集」までを八代集という。「今後、い後、禁止せん!」(校則みたいだけど)→ 「古今→後撰→拾遺→後拾遺→金葉→詞花→千載」+新古今です。六歌仙も、しっかり。出題頻度は六歌仙という言葉と、伊勢物語のモデルとなった在原業平が一番でしょう。
物語は「竹取物語」から始まる伝奇物語と、「伊勢物語」から始まる歌物語の流れをおさえる。この集大成が、「源氏物語」(エピソード「平安文学」へ)。
日記・随筆は、作品名と作者でけでなく、内容もおさえる。「土佐日記=紀貫之=最初のかな日記で土佐から京都までの紀行文」、「蜻蛉日記=藤原道綱の母=藤原兼家との結婚生活」、「更級日記=菅原孝標の娘=貴族の娘の回顧録」、「枕草子=清少納言は言うことなし」。その他「和名類聚抄」は源順と一問一答。
ここで絶対的なキーワードを2つ。「かな文字が、発達しても公文書は漢字だった。」そして、「女流文学が発達した理由」は「中流貴族が、藤原氏と関係を持つために、娘を入内する藤原氏の娘の女房にするために、教養を積ませたため。」である。(コラム「国風文化と女流文学」へ)
○宗教
キーワードは、「浄土教」と「末法思想」
浄土教は、阿弥陀仏を信仰する。京都で念仏を説いた空也(注意!空也は国風文化の人。でも、六波羅蜜寺にある空也上人像は鎌倉文化)と、「往生要集」の源信は絶対。「往生要集」は、史料の書き出しも覚える(エピソード「往生要集」へ)。
この浄土教が流行した背景には、1052年から始まるとされた末法思想があった。
「往生伝」って何?答え。「見事、極楽往生を遂げた人のインタビュー集」、代表が慶滋保胤の「日本往生極楽記」。しかし、勘違いしてはならないのは、浄土教の流行の一方で、真言・天台の2宗は、圧倒的な勢力を誇っていた。
この時代、神仏習合が進展し、「日本の神様は、実はインドの仏様だったのよ」という「本地垂迹説」が生まれた。また、菅原道真のように「恨みを飲んで死んだ人間が祟る」それを「ひぇ〜、悪うございました」といって祭ると神様になって守ってくれるという御霊信仰が盛んとなり、そのための儀式である御霊会(ごりょうえ)が行われた。
今、流行りの陰陽道は、「方違=凶の方角を避ける」と「物忌=引きこもってつつしむ」の区別をしっかり。
○美術
基本。弘仁・貞観文化は密教美術で中国かぶれ。国風文化は浄土教美術で日本風。絵画は、「見事、極楽往生を遂げようとしている人を、阿弥陀如来が迎えに来る」場面を描いた来迎図が描かれた。代表が「高野山聖衆来迎図」。彫刻は、「寄木造=定朝=平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」。これらの阿弥陀如来像をおさめる阿弥陀堂建築が盛んとなり、代表が平等院鳳凰堂。正誤問題を1つ、「この世に極楽浄土を再現したといわれた、藤原道長の法成寺は現存していない」
書道は、和様の名手として三蹟。「藤原佐理=離洛帖」「藤原行成=世尊寺流の祖」「小野道風=秋萩帖」。なお、三蹟の作品は、巨勢金岡が祖とされる大和絵と同じように、屏風などに書かれて、調度品とされた。ところで、蒔絵って何?答え。漆塗りの工芸品。絵じゃないよ。
○貴族の生活
ポイントを簡単に。寝殿造の住居は、白い!。檜皮葺であって瓦葺ではない。畳は上座だけで、敷きつめていない。円座というポータブルの座布団を使っていた。寝殿造の各パーツの名前と構造(寝殿・対屋・釣殿・渡殿・中島)も出る。
貴族男子の正装は衣冠、略装は束帯。貴族女性はいわゆる十二単。庶民は水干。
結婚形態は、かつての妻問婚から、女性の家に男が入る招婿婚となった。(エピソード「女性史研究のパイオニアー高群逸枝と四国遍路ー』へ)
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