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坂上田村麻呂から源氏へ、源頼朝、平泉藤原一族を滅ぼし東北侵略を完成、渡来人の鎌倉と那須国
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 21 日 09:13:27: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍 【奈良県高取町の歴史遊歩】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 21 日 08:41:26)

【劇場国家にっぽん】


古代における関東

 

 武家社会源流の旅として、等々力渓谷を出発し、江戸の神田明神、大磯の高麗神社、大山の阿夫利神社、初島の初木神社、熱海の伊豆山神社、鎌倉の甘縄神社、鎌倉大仏など・・・・必ずしも神社を意識した訳ではないが、結果的に神社を中心に旅をしてきたようだ。しかし、私としては、もちろん歴史的な旅のつもりである。ここらですこし今までの旅を振り返りながら、隠れた歴史として、古代における関東の姿を概括的に述べておきたい。

私は、歴史の流れを概観することによって歴史の必然性というものを感じる。将来が見えてくるように感じるのだ。武家社会の源流から歴史を眺めた時、その先に何が見えてくるか。そこが今度の旅の目的である。

 

 4世紀のころ、大和の勢力はまだ関東平野全体に及んでいたわけではない。どうも、埼玉の豪族を手がかりに大和の勢力を拡大していくようだ。5世紀の後半には関東平野はおおむね大和朝廷の支配下におかれたと考えてよいのではないかと思う。

 4世紀から5世紀にかけての・・・・・多摩川は・・・大田区と世田谷区の古墳群の消長をみているとそのことがよく判る。中国の記録に讃や武といった倭(わ)の五王が出てくるのは5世紀であるから、それとも平仄(ひょうそく)が合う。

 

 古事記がつくられたのは西暦700年頃である。大和朝廷の勢力拡大の記憶が・・・古事記における日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)の物語に反映されているといわれているが、走水(はしりみず。現在の浦賀水道)における弟橘姫(オトタチバナヒメ)入水の話は浦賀水道が大和朝廷にとって東北経営上重要な場所であったことの暗示であるらしい。また、鎌倉は、江ノ島や逗子などを含み全体として天然の良港である。さらに、鎌倉は鉄の産地でもあった。これらのことから、すでに8世紀の頃鎌倉は・・・・関東における一大拠点として繁栄をしていたと思われる。鎌倉は、大和朝廷にとって東北経営上の後方拠点として極めて重要な地点となっていたのではないかというのが私の想像である。

 長谷観音で有名な長谷寺は、736年の創建といわれる。長谷寺は、坂東33カ所観音霊場の4番札所だが、1番札所の杉本寺(鎌倉)は734年の創建、2番札所の岩殿寺(逗子)は721年の創建である。このことは、すでに8世紀の頃鎌倉が関東の一大拠点として栄えていたひとつの照査になるのではなかろうか。

 

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷を討つと記録に出てくるのが7世紀中頃のことであるが、そのころ、阿倍比羅夫など蝦夷征伐に赴く将軍はすべて鎌倉に滞在して、関東平野の豪族たちに軍事上の指示を与えていたのではないかと思われるのである。そして私は、蝦夷征伐のための前線基地は走り水(はしりみず)の先・房総の木更津ではなかったか、また、軍団や兵糧の集結する兵站基地は香取神社のある佐原付近ではなかったかと想像しているが、それらに対する命令指揮はすべて鎌倉から発せられていたのではないか。

 

 江戸氏の本貫地(ほんがんち)は秩父である。秩父こそ関東開拓の先進地であり、大江戸のルーツは秩父にある。したがって、当然のことながら、秩父氏は古代において関東随一の名門であった。

 秩父において銅が発見され、和銅の生産が始まるのが708年である。渡来人の技術によるものであろう。高麗(こま)王の若光(じゃっこう)を中心として高麗人が大挙して関東平野にはいるのが700年頃であるから、秩父における和銅の生産はもちろんのこと、関東平野の開拓全般にわたって、それら高麗からの渡来人の力に負うところが多かったのではないかと思われる。鎌倉街道や神社もその頃に出来ていったのではないかと思う。和銅の献上も、まず鎌倉街道を通じて鎌倉になされたのではないかと思う。

 高麗(こま)王の若光(じゃっこう)は、大磯に上陸、暫く居て伊勢原に行く。伊勢原に暫く住んでのち、最終的には大和朝廷の支持により高麗に落ち着くらしい。伊勢原というところは、頼朝や政子とも関係があるし、江戸城を築城したかの有名な太田道灌の伝承もあって、大変魅力的なところであるが、まあそれはともかく、伊勢原には、白髭神社というのがあって、高麗(こま)王の若光(じゃっこう)の伝承が残っている。 

 

 

 源頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたか。また、頼朝は、最初石橋山の戦いに敗れてからいったんは箱根に落ちのびるが、そのあと、真鶴から安房にわたり、上総、下総、武蔵を経て鎌倉に入るのだが、何故鎌倉なのか。鎌倉は源義家など源氏ゆかりの地であるからだという説明が一般的になされているが、それだけではちょっと説得力に欠けるのではないか。源義家は、鎌倉に生まれ、鎌倉に育ち、また東北経営に当たり、鎌倉に旗を掲げるのだが、何故鎌倉なのか。

 

 古代において、稲作文化を始め新しい文化は、黒潮の影響で、関東内陸部より伊豆半島から関東海岸部にいち早くもたらされたようだ。黒潮の影響を考えたとき、伊豆諸島との関連もこれあり、鎌倉は、関東におけるもっともいい位置にある。そして、地形的にも、江ノ島や三浦半島を控え、いちばんの天然の良港と言えるのではないだろうか。鎌倉は、鉄の生産地でもあったが、大和朝廷の発展過程において何よりも海上交通の拠点として栄えていった・・・というのが私の想像である。

 大和朝廷にとって、鎌倉は、東北経営上、重要な戦略拠点になっていたのではないか。

また、先にも述べたが、7、8世紀頃からすでに三つの鎌倉街道、上道、中道、下道が出来ていたものと思われ、鎌倉は、陸上交通の面においても、交通の要所として古くから栄えていた・・・・そういった考え方が私の考えである。

 

 つまり、大和朝廷は7、8世紀頃から盛んに東北経営に力を入れるが、その最前線基地が多賀城であったとして、私は、やはり、関東平野の然るべきところに、人や物や情報の集散する・・・・戦略拠点が必要であったろうと思うのである。

 


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源氏と鎌倉・・・またその昔!

 

 

 

 源義家らが東北の制圧に大いに力を発揮するのは1070年頃であるが、源義家は鎌倉を根拠地にしていたらしい。関東の主だった豪族は、たびたび鎌倉に赴いたことだろう。しかし、私が注目するのは、義家の頃というより、それ以前の・・・・8世紀、9世紀、10世紀の3〜400年間である。その間においても、鎌倉は人や物資や情報の集散地として栄えていたということだ。

 

 なお、鎌倉に関しては、大仏開眼で有名な良弁(ろうべん)が鎌倉生まれであるという伝承があり、それが一種の謎になっているが、これで良弁(ろうべん)がなぜ鎌倉生まれなのかという疑問も解けようというものではないか。大仏を建立するための資財や資金集めに行基も鎌倉に来る必要があった。それが8世紀のはじめに、杉本寺などいくつかの寺が・・・・行基によって建立された理由だと思う。

 

 大仏の建立なんてものは、資財と資金が集まれば出来るというものではない。今までにない高度な技術が必要である。数多くの渡来人は大仏の建立に協力したことだろう。行基も良弁も渡来系の人だといわれている。行基や良弁が大仏建立の責任者になったのはそのことと決して無関係ではあるまい。

 関東で行基や良弁を支えた渡来系の人々というのは、いうまでもなく高麗(こま)の若光(じゃっこう)を中心とした渡来人であろうというのが私の想像である。

 

 鎌倉は、東北経営上の重要戦略拠点であると同時に関東における大仏開眼のための・・・資金・資財集めの拠点でもあった。8世紀から9世紀にかけて、いよいよ渡来系のひとびとの活躍が始まる。関東の雄・秩父氏の台頭も渡来人の支えがあってのことであろうし、藤原氏が鎌倉を拠点に東北地方に勢力を拡大していくのも渡来人の力添えがあってのことではないかと思う。頼朝によって奥州征伐が行なわれ、東北地方もいよいよ武士の時代に入っていく。西日本における平家の抜けた跡を板東武士が埋めていくと同時に、武力制圧のほぼ終わった東北地方にも板東武士が入っていく。当然、渡来人の力添えがあったことであろう。渡来人の活躍というものは、裏での地道な活躍でしかなく、記録にほとんど出てこないので、私の推測でしかないが、・・・・鎌倉との深い結びつきは相当に深かったものと思われる。

 

海上交通は、我が国でも古代から私たちの想像以上に盛んであったが、円仁の経験からもはっきりしているように、海上交通は、当時、朝鮮半島など海外のほうが盛んであった。したがって、我が国の海上交通も鎌倉時代になって初めて本格的なものになっていくのではないかと思われる。これも渡来人の力添えがあってのことだ。鎌倉時代に「廻船式目」ができたが、これは、「御成敗式目」に匹敵するすばらしいもので、海上交通の発達を考える際に欠くことの出来ないものであろう。

 

在来文化と外来文化と混ざりあって、醗酵し、そして・・・はたしてどんな新しい文化がでてくるのか。古代における関東は、ふたつの文化の統合として、歴史上もっとも価値あるものを生み出したのではないか・・・私はそんな気がする。私の思いは、明惠と泰時との結びつき・・・「あるべきようは」・・・そのことである。

 

そして、歴史的な必然性というものを強く感じるのは、東大寺というものの存在であり、良弁と明惠の存在である。良弁と明惠は鎌倉で密接に繋がっているが、二人は「華厳の思想」でも繋がっているのだ。そして世阿弥とも繋がっている。これらのことが・・・もし・・・我が国の将来に大きくかかわってくるとしたら、・・・誰だって・・・歴史の必然性というものを感ぜざるを得ないのではないか。

 

それでは、世阿弥の世界、能という世界を垣間見てみたい! 明惠の「あるべきようは」と・・・どう繋がってくるのか!

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http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kantou.html

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新羅(しんら)三郎

 

先にも述べたが、源氏が東国で力を持つようになるのは、1062年からである。源頼朝が鎌倉入りをする100年少々前の事である。頼朝が鎌倉を選んで拠点とするのは、言うまでもなく、源義家ら先祖が鎌倉を拠点にしていたことによる。源義家が東北経営の為に旗揚げするのは、鎌倉の源氏山である。坂東各地から軍勢が鎌倉に集結、源氏の白旗が源氏山にたなびく様(さま)は壮観であったろう。

1051年に、前九年の役が起こって源頼義が大活躍をするのだが、引き続き1062年、阿倍貞任を源頼義が討って源氏の基礎が固まるのである。源義家が清原氏を討って勇名を馳せるのは1087年である。かの有名な新羅三郎(しんらさぶろう)・義光が兄義家の応援のために陸奥に下向するのはこの時である。

青森県は八戸に新羅(しんら)神社というのがあるが、新羅(しんら)三郎ゆかりの神社であろうか。新羅(しんら)三郎の祖父・平直方(なおつね)は余り知られてないかもしれないが北条氏の始祖と言われている。

祖父/平直方(なおつね)というのは母方の関係であろうか。それにしても新羅(しんら)三郎は不思議な人である。武芸の達人であり実に魅力的な人だ。新羅(しんら)三郎の墓は元服の地・大津は、三井寺の北隣、歴史博物館の裏山にある。新羅(しらぎ)神社の隣だ。


[三井寺の朝] [博物館の裏山を行く]


[新羅(しんら)三郎の墓] [新羅神社の横の山道]

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「源義光(みなもとのよしみつ)足柄山(あしがらやま)の絶頂(ぜっちょう)にて豊原 時秋(とよはらときあき)に秘曲(ひきょく)を綬(さず)く」

 

源義光は平安時代中期の武将。頼義の三男。新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服し新羅三郎ともいう。知謀に富み射術をよくし,笙(しょう)に長じた。1087年(寛治1年8月)いわゆる<後三年の役>における兄義家の苦戦を聞き、官職を辞してはせ参じた話は有名である。 なお義光は音律を好み、笙の師豊原時忠より名器交丸を授けられたが、陸奥におもむくにさいし、名器の失われるのを配慮して、逢坂(おうさか)の関で時忠に返還したとか、同じく陸奥に下るとき足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたなどの伝説がある。(広辞苑世界百科事典 平凡社)

 

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