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古代中国人のアメリカ渡航説について
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/chinaamerika.htm
オルメカ文明中国起源説
台湾の『光華雑誌』一九九七年六月号は、「中国とアメリカ大陸の文明をつなぐ−オルメクと殷王朝」http://www.sinorama.com.tw/jp/9706/706006j1.htm
と題し、アメリカと中国にまたがる考古学会での論争を報じている。
その発端となったのは一九九六年、セントラル・オクラホマ州立大学教授・許輝氏が発表した著書『オルメク文明の起源』だった。メキシコ湾岸を中心とするオルメカ(オルメク)文明は前一二〇〇年頃に最盛期を迎えたとされており、同じ中米のマヤ文明、アステカ文明と比較すると格段に古いものである。
許氏によると、この文明はアメリカ大陸自生のものではなく、殷王朝の滅亡時にその遺民が太平洋を越え、その地の原住民と協力して築いたものである。その証拠にオルメカの石器、玉器、石彫などに刻まれた図形には殷代甲骨文や周代金文と共通の文字が一五〇点近く見られるという。ネット上の中央アメリカ考古学フォーラムには許氏の説への賛否をめぐって、二ヵ月の間に三〇〇通以上ものメールが寄せられ、フォーラム管理者からの討論中止呼びかけがあるまで、白熱の議論が続いた。
アメリカ考古学の専門家はおおむね許氏に否定的であったが、スミソニアン博物館のベテイ・メガース氏のように擁護に回る者もあった。自ら縄文人南米渡航説を唱え、古田武彦氏の倭人南米渡航説を支持したメガース氏は、許氏についても、考古学の素人であるがゆえに、先入観抜きでアジア・アメリカ関係を見直せる人物として高く評価したのである。
また、一九九九年、中国河南省で開かれた「甲骨文字発見百年記念シンポジウム」において、マイク・シュー氏(アメリカのテキサス・クリスチャン大学所属)は中央アメリカの土器などから見つかったアメリカ先住民族の記号約三〇〇点について、それが甲骨文字に他ならないとの報告を行った。中国側の研究者はその学会報告におおむね好意的だという。この報告について報じた新聞記事によると、中国側でも殷周革命の際、殷の王族がベーリング海峡を渡った可能性を指摘する研究者がいる、とのことである(『読売新聞』一九九九年八月二八日付・東京版)。
しかし、中南米の古代文明について中国起源説を唱えたのは許氏やシュー氏が初めてではない。その先駆的研究は十八世紀までさかのぼり、さらに二〇世紀においても、オーストリアの文化人類学者ハイネ・ゲルデルンが、オルメカとほぼ同時期に南米ペルーに栄えたチャピン文明について、その美術様式への殷・周の影響を指摘したことがある。ゲルデルンは、さらに中米の古代文明にも中国の影響があるとした。
このゲルデルンの主張は、アメリカのミノ・バードナーや日本の大林太良(東京大学名誉教授、一九二九〜二〇〇一)らによっても支持されたところである(バードナー「アメリカ北西海岸・ニュージーランド・中国の美術様式中の舌出し像とその関連諸モチーフ」『東南アジア・太平洋の芸術』吉橋政次訳、弘文堂。大林「新旧両大陸間の文化交流」『世界考古学大系』第一五巻』平凡社、一九五九。他)。
一九七〇年代、サンジェゴ大学教授のジェームズ・モリアテイ氏とローランド・ホイネ氏は、ロサンゼルスやカリフォルニア州の沖の海底で見つかったドーナツ状の石製品を調査し、それが古代中国の航海者が用いた錨もしくは石臼であるとの見解を発表した(一九八二年十月十五日付新聞各紙、他)。
中国の石鐘健氏はこの石製品と中国側の出土品を詳細に比較し、それは前二千年紀から前千年紀にかけて、浙江省を中心に活躍していた越人の船団が残したものであるとした。石氏によると、越人が用いたのと同じ石斧が南太平洋の島々やエクアドルで出土しており、彼らの船団の航路が中国から両米大陸にまで延びていたのは明らかだという(『朝日新聞』一九八三年五月五日付、他)。
もっとも、アメリカの考古学界はこうした説に対して概ね否定的である。その理由としては、アジアとアメリカの約一万五千キロもの距離の壁の存在もさることながら、現在ではアメリカ大陸側での考古学的調査が進み、アジアからの影響を想定しなくても中南米文明の形成・発展過程を説明できるようになったことによる。たとえば、ゲルデルンらが重視した周代の虎の造形(土器・青銅器など)と南米のジャガー型土器の類似について、現在ではジャガー型土器の成立時期の方が中国の周代よりも前までさかのぼりうることが知られている(ナイジェル・デービス著、中島俊哉訳『古代アメリカ文明の謎』学生社、原著一九七六、邦訳一九八〇)。
日本の鹿島昂(一九二五〜二〇〇一)は自ら主催した雑誌『歴史と現代』(一九八〇年八月〜一九八二年五月)の各号の後記に次のように記していた。
「中南米を占領支配したヨーロッパ人は、その地の先住民たちが、殷甲骨文字や古代シナイ文字を持っていた事実を発見し、その痕跡をすべて破壊したという。黄金を強奪し、住民を奴隷とするためには、彼らがヨーロッパ人と同根の文化を持ったのでは困るのである」
鹿島氏がこのように書かなければならないこと自体、古代アメリカ文明の旧大陸起源を示す決定的な証拠が存在しないことを物語っているといえよう。大航海時代から帝国主義の時代におけるヨーロッパ人が自分たちと同根の文化が栄えた地だからといって収奪の手を緩めたかどうか、アフリカや西アジアでの彼らの振る舞いを見れば明らかである。
許氏の「発見」は大方の考古学者にとっては画期的な「新説」などではなく、古くから繰り返された話の蒸し返しにすぎなかったわけである。
しかし、幾度も蒸し返されるということは、それだけ支持者もいるということで、今後もこの手の「発見」が尽きることはないだろう。
ところで、一大記録民族であった古代中国人がアメリカへの航路を知っていたとすれば、何らかの記録が残されていてしかるべきだろう。古代中国人南米渡航説の信奉者たちは膨大な中国古典の中からアメリカの関する情報(と彼らが信じるもの)を見出している。というよりも、初期の古代中国人南米渡航説は中国古典の解釈から生じたものの方が主流だった。
その中でも特に知られている説は次の四つである。
1、中国古代の地理書『山海経』にアメリカの地理が混入しているとする説。
2、秦代の方士・徐福が東方の平原の王になったという伝説について、その平原をアメリカに求める説。
3、『梁書』などに出てくる倭の東方の国「扶桑国」をアメリカに求める説。
4、五世紀の僧・法顕がメキシコもしくはエクアドルに漂着してアメリカ大陸を探検したという説。
これらの説は相互に関連し、依存しあうことで奇怪な体系を構築している。本論考を通じてその一端を垣間見ることで、奇説を生み出す人の心の動きについて、思いを馳せていただければ幸いである。
『山海経』の東方世界
吉田信啓氏は一九九〇年六月十六日、ジョージア州コロンバスで開かれたアメリカ文化学会に出席、そこで面白い発表を聞いたそうである。それはカリフォルニア大学サンタバーバラ校所属のポール・チャップマン博士の発表で「BC二二五〇年の中国人が残した『山海経』の世界地図にはアメリカ大陸や太平洋諸島の位置がすでに正確に記されていた」というものだったという。
吉田氏によると、『山海経』の実物は大英博物館に所蔵されており、それを日本の考古学者・歴史学者が閲覧したことはないから、日本の研究者にチャップマン博士の説を否定する資格はない。チャップマン説を認めれば、『山海経』にある「朝日の昇る国・扶桑」はロサンゼルス・サンフランシスコあたりに求められ、サンフランシスコが漢字で「桑港」と表記されるのも、「扶桑国の港」の意味と納得できるというのである(吉田『日本のペトログラフ』六興出版、一九九一、吉田『超古代日本語が世界共通語だった!』徳間書店、一九九一、吉田『超古代日本は世界の臍だった!』文化評論出版、一九九三、吉田『神字日文解』中央アート出版、一九九四、吉田『祭祀遺跡の黙示録』中央アート出版、一九九六)。
もっとも、この吉田氏の解説には二重三重の勘違いが含まれていて、あまり信を置けるものではない。まず、吉田氏の著書に挙げられている「『山海経』の世界地図」なるものは、実は、十七〜十八世紀頃、朝鮮李朝で作られた「天下総図」(大英博物館蔵)といわれるものである。
「天下総図」では、中国を中心として世界を囲む広大な大陸が描かれており、その大陸の東方(現実の地理では太平洋・アメリカ大陸にあたる位置)には『山海経』の「海外東経」「大荒東経」や『梁書』諸夷伝に由来する地名がちりばめられている。
しかし、これは、十七世紀初めに朝鮮にもたらされた西洋世界地図と中国古典に基づく神話的世界観と整合させようとして、結局どちらにも適合しないものを作ってしまった苦心の産物であり、したがって古代のものでもなければ、中国の地図ともいえないものなのである。
そもそも「天下総図」の東方地理そのものが、朝鮮李朝にもたらされた東方の大陸(アメリカ)に関する知識を取り入れたものなのだから、その地理観を古代にさかのぼらせること自体が倒錯なのである。
吉田氏は『山海経』の現物は大英博物館にしかないと述べているが、『山海経』が日本でも中国でも刊本として広く流布していることは周知の通りである。これは「天下総図」と文献としての『山海経』を混同したところからきた勘違いであろう。
さらに「天下総図」の研究は日本でも一九四〇年代からなされており、吉田氏の主張は学界の実情にも反する(李燦「李氏朝鮮の世界地図「天下総図」」『月刊しにか』一九九五年2月号)。
もっとも、『山海経』にアメリカ大陸に関する記述を求めようとしたのは、チャップマン博士や吉田氏が初めてというわけでもない。
すでに一九八〇年代、先述の鹿島昂は『山海経』の「海外東経」「大荒東経」は東アジアから、フィリピン・インドネシア・メキシコにいたる航路上の目印を列挙したものであることを「考証」している(鹿島「卑弥呼と倭人のルーツ」『歴史と現代』2−2号、一九八一年十月、鹿島・佐治芳彦・吾郷清彦『日本列島史抹殺の謎』新国民社、一九八二年、鹿島『倭人と失われた十支族』新国民社、一九八六年、鹿島『義経=ジンギス汗新証拠』新国民社、一九八七年、鹿島『海のシルクロード前史』、新国民社、一九八七年)。
中国にも『山海経』の魅力にとりつかれ、壮大な仮説を述べる者は少なくない。たとえば、中国湖北省出身の歴史家で、『大冶県志』副主編を務める徐顕之氏の著書『山海経探原』(武漢出版社、一九九一)では、『山海経』の大部分について、明・清代の註釈やそれ以前の古註をふまえ、中国大陸とその周辺の地理書として解釈しているにもかかわらず、こと大荒四経の解読については破天荒なものとなっている。
すなわち、「大荒東経」はメキシコを中心とする南北アメリカ大陸、「大荒南経」は南太平洋と南極大陸、「大荒西経」はアフリカ大陸、「大荒北経」は北極圏の地理を記したものであり、そう考えてこそ『山海経』に「基本符合今天自然的現実」の「資料性」「科学性」が認められるというのである。
フランス出身のオカルトライター、モーリス・シャトランの『超古代遺跡と異星文明の謎』(南山宏訳、日本文芸社、二〇〇〇年、原著一九九九年)によると、中国人は二つの時期にアメリカ大陸を「発見」、探検している。
その最初の時期は紀元前二二五八年頃の四次にわたるアメリカ遠征、第二の時期は四五八年から四九九年にかけて幾度か繰り返された遠征だという。そして、紀元前の方の遠征の報告書は『山海経』「東山経」として、現在に伝えられているというのである。
シャトランによると、その遠征はカナダから北米中央部、およびメキシコ東海岸に達し、その総延長距離は「東山経」の記述の合計で一八〇〇〇里、約12000キロメートルにも達したという。
日本探検協会(会長・高橋良典)は、『山海経』にある青要之山・泰逢・武羅という地名・神名をそれぞれテイアワナコ、テイファナグ、プーナの当て字とし、『山海経』にはアンデス山系の地理的描写が含まれているとした(日本探検協会『ムー大陸探検事典』廣済堂、一九九三年、同『地球文明は太古日本の地下都市から生まれた』飛鳥新社、一九九五年、同『古代日本、カラ族の黄金都市を発見せよ』飛鳥新社、一九九五年、同『縄文日本の宇宙文明』徳間書店、一九九五年)。ただし、高橋氏らはそれらの著書では、その記述が『山海経』のどこにあるか、は明記していない。
実は、『山海経』で、青要之山・泰逢・武羅に関する記述があるのは「中山経」なのである。つまり、『山海経』の世界観における世界の中心、黄河と長江両大河の流域の地理を記してあるはずの巻である。
トンデモ本業界では有名な高橋氏らも、「中山経」に南米の地理が混入しているというのでは、あまりにも信憑性が薄いと思い、あえて出典を明記しなかったのであろうか。
とはいえ、日本探検協会のケースでは特に顕著なだけで、『山海経』にアメリカ大陸の地理的記述を求める試みには、中国もしくはその近辺の地名として著名なものをアメリカに求めるという無理を犯さざるをえない弱点がある。たとえば、シャトランの場合には、中国を代表する霊山の一つ・泰山(山東省に実在)がテキサスのイーグル・ピークのことになってしまうのである。
『山海経』はあくまで古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、現代人の地理認識との対応を求めようとしても、どうしても無理が出る。『山海経』の中のアメリカはやはり幻とみなすべきであろう。
徐福はアメリカにいたったか
秦始皇帝二八年(BC二一九)、方士・徐市(徐福)は海上にある三神山(蓬莱・方丈・瀛州)の神仙から不死の神薬を得るという名目で、船出したいと願い出た。そのこと自体は『史記』巻六・秦始皇帝本紀にも記されており、史実である可能性が高い。
日本では、北は青森県から南は沖縄県まで、三十箇所以上に徐福伝説が残されている。そして、その徐福が日本列島を通り越し、アメリカにいたったという説を唱える人もあるのだ。
評論家の林房雄は、一九五〇年代、石田英一郎を団長とする「東京大学アンデス地帯学術調査団」に参加して、メキシコ、ペルー、ボリビアの遺跡をめぐったことがある。その時、林は日本人と南米インディオが同じモンゴロイドに属する「兄弟」「親戚」であることを実感したというが、その際の調査団参加者の一人に東京大学助教授時代の大林太良がいた。
大林は林に「徐福遠征の目的地は日本ではなく中南米であったと教えてくれた」という(林『神武天皇実在論』、光文社、一九七一)。あるいは、その説の出所は大林の師であるハイネ・ゲルデルンだったかも知れない。
一九七一年、中国学の権威、ジョセフ・ニーダムは『中国の科学と文明』四−三において「徐福が二度と現れなかったというこの物語は、彼がアメリカ大陸へ行き着いたという可能性を秘めている」と記した。
旧世界の古代文明の新世界伝播という仮説に対して否定的なナイジェル・デービスも徐福についてだけは、「後代の歴史家達は、彼(徐福)は日本に定着したのだという見解である。しかし、道教思想の神秘的外観の裏には、アメリカ大陸への最初の旅についての報告が隠されている可能性もなくはない」と述べる(デービス『古代アメリカ文明の謎』前掲)。
一九六八年五月、ニューメキシコ州サンタフェで開催されたアメリカ考古学会総会において、テキサス美術大学教授のエドウィン・ドーラン・ジュニア教授は、ニーダムの説を受け、次のように述べた。
「紀元前二一九年に徐福たちは、東のかた、大洋に向って出帆した。そしてふたたび帰ってこなかったのである。この前漢初期の人々の、太平洋へと向った、帰ることなき大航海。一方では、この歴史上の記録に明記された事件と、他方では、エクアドルから出土した、前漢期の特徴をそなえた出土物の存在。この両者の時期がほとんど全く一致しているのは、まことに魅力的である。しかしながら、当然のこととして、わたしは十分に承知している。このような時期的な一致だけで結論を出すのは、論理的な実証主義者にとっては、全く不満足であることを。エクアドルの遺跡中のC14によって、同時代(前二〇〇年ころ)に年代づけされる地層から、次のように明確な文字記号をもつ出土物が実際に発掘されるまでは。−いわく、徐福がここにいた、と」(ドーラン「帆走するイカダ」、C・L・ライリー他編、古田武彦訳『倭人も太平洋を渡った』所収。創世記・一九七七、八幡書店・一九八七、原著一九七一)
日本人アメリカ大陸起源説を説くドン・R・スミサナは徐福が目標とした不老長寿の国は「扶桑の国」とも呼ばれたとし、それはアメリカ大陸のことだったとする。そして、日本の徐福伝説については次のように述べる。
「神話的なアメリカを見つけるために船出した彼ら(徐福一行)は、アメリカ行の途中で日本に寄っていたのではないだろうか?伝説の徐福にも、日本に渡来ののちとどまらずにどこかへ行ったとの記述も残されている」(スミサナ『古代、アメリカは日本だった!』吉田信啓訳、徳間書店、一九九二、原著一九九〇)
ただし、スミサナのいう「日本に渡来ののちとどまらずにどこかに行った」という話の出典は不明である。日本の徐福伝説の多くでは徐福は日本に定住して、子孫まで残したことになっている。
太平洋学会理事長の茂在寅男氏は日本の徐福伝説とドーランのエクアドル渡航説は共に認めうるとして、次のように述べる。
「(徐福の船団は)きわめて大がかりな船隊であったはずであるから、その一部は日本本土へ、他が八丈島などの孤島へ、そしてある一部は、黒潮、カリフォルニア海流などで構成されている時計回りの連続海流群である太平洋還流に乗って、アメリカ大陸にまで達した可能性は決して皆無ではない」(茂在『船と古代日本』PHP、一九八七)。
なお、日本探検協会は、徐福は日本神話のスクナヒコナ、エクアドル神話のスシリ(ステルニ)と同一人物であると主張する。日本神話では、スクナヒコナは海のかなたからやって来て、オオクニヌシの国作りを助けた後、常世国に去ったとするが、日本探検協会によると、この常世国こそアンデスであり、徐福は日本を去った後、ペルーやエクアドルの古代文明を創建したというわけである(日本探検協会『ムー大陸探検事典』『古代日本、カラ族の黄金都市を発見せよ』『縄文日本の宇宙文明』前掲、幸沙代子・高橋良典『日本が創った超古代中国文明の謎』日本文芸社、一九九五、幸・高橋『幻の出雲王国は始皇帝に滅ぼされた!』飛鳥新社、一九七六)。
なるほど、日本の徐福伝説と南米渡航説のつじつま合わせはできているが、その一方だけよりも荒唐無稽さの度が増していることは否定できない。
そもそも徐福が東海に去って帰ってこなかったという理解そのものが、『史記』『漢書』の誤読と、日本などの徐福伝説に引きずられる形で生じたものであり、徐福が船出を願ったにしても、史実として本当に船出したかは疑わしい(拙稿「徐福は海を渡ったか」『季刊・古代史の海』二五号、二〇〇一年九月)。
したがって徐福アメリカ大陸渡航説そのものが空中楼閣にすぎないということになるだろう。
なお、徐福とアメリカを結びつけた最初の説は私の知る限りでは木村鷹太郎のものである。木村はギリシャ神話における英雄イアソン(木村の表記では「ヤソン」)のアルゴ号はインド東岸から発進し太平洋を渡って、コスタリカに向かったと主張し、それに関連して次のように述べる(通説的理解ではアルゴ号は地中海・黒海を航海して小アジアのアヤに向かったとされる)。
「地球は球形であるとのことは西洋では中古のコロムブス“コロムボ”時代から始まつたとなつて居るが、東洋人や希蝋神話には太古疾くの昔に知れて居て、日本では地球は鶏の卵のやうだと謂うてあるが、只だ後代の歴史家や神話学者等が其事を無学で有つたのである。(中略)西洋のコロムブスなる人間は実は烏有の人間であり、東洋古伝即ち希蝋神話から編纂して作つた人間と判断される―(中略)ヤソン遠征談と仁徳天皇の時枯野と云ふ船を作つたことと、日本の田道間守の常世へ行つたことと、楊貴妃の霊魂が常世の国へ行つたことと、秦の徐福が蓬莱へ行つて不死の薬を採る為めに東海へ行つたことと、コロムブス伝とは研究上関連した事のやうに見える。且つコロムブスをクリストフォロと云ふが、それは“薬採り”を意味し、徐福の薬採りに勿論関係の名である」(木村『希蝋羅馬神話』一九二六)
木村のコロンブス=徐福説は奇想天外の感があるが、徐福の東海行を史実と即断しないだけ、後世の徐福アメリカ渡航説の論者よりも、「合理的」といえなくもない、といえば皮肉に過ぎるだろうか。
なお、徐福=スクナヒコナ南米渡航説によく似た話として、メキシコにもスクナヒコナにまつわる「伝説」があるという。
エッセイストの木屋隆安氏はメキシコの旅行社から送られた英文パンフレット『メキシコの伝説』にある話として、次の二つの「伝説」を紹介している。
「BC二五〇〇年、東洋の神話の時代に、スクナビコナノミコトという現人神が、今のメキシコの地に入り、土人に農業はじめ殖産事業を教えた。そのためメキシコ人の多くはこのミコトの子孫だ、という伝説が生まれた」
「兄頼朝に追われた源義経は、かつてメキシコの領地であったカリフォルニアの地に漂着して、アステカ族の大酋長となり、テメフ王国の始祖になった。こうした多くの伝説のため、アメリカ・インディアンやメキシコ人の中には、自分たちと日本人は同じ祖先を持っていると信じている者が多い」
後者はいわゆるジンギスカン義経説の一変種といえよう。前者について、木屋氏はメキシコ神話の文化英雄・クエトサルコアトル(ケツアルコアトル)と結びつけて解釈している(木屋『双子のドラゴン』泰流社、一九八八年)。
アメリカ西海岸やメキシコは日系人が多く定着した土地である。異郷の地を第二の故郷と定め、白人社会の中で苦労する日系人が、「伝説」の捏造を通して故国とのつながりを求めたとしても、その心情は理解できる。また、同じモンゴロイドで日本人と容貌の似たネイティヴ・アメリカンへの親近感・連帯感も「伝説」形成をうながすことになっただろう。
内容そのものの史実性は皆無としても、文化史的立場から、このような「伝説」を生み出した背景を探ることも今後は重要な研究テーマたりうるであろう。
耶婆提国エクアドル説
中国の僧・法顕(三三七?〜四二二?)は十六国・後秦の弘治二年(三九九)に長安を発ち、陸路で西域、ヒマラヤを経て中天竺(北部インド)に留学、海路で師子国(スリランカ)を経て、東晋の義煕八年(四一二)に山東半島に上陸、翌年に東晋の首都・建康(南京)に入った。この旅行中の見聞を記した書物が『仏国記』(『法顕伝』ともいう)である。
法顕は師子国から中国への帰路、遭難して「耶婆提」という国に漂着、五ヶ月もの滞在を余儀なくされている。幸田露伴は章炳麟(中華民国の革命家、一八六八〜一九三六)の説として、この耶婆提国をエクアドル(中国語表記では耶科陀爾)とする主張があることを紹介している。
もっとも露伴翁自身は、「耶婆提」は「耶科陀爾」よりむしろ「耶馬臺」すなわち「やまと」に近いから、法顕は遠い南米ではなく、日本に来たとした方がまだましではないか、と説いている。
ただし、露伴翁は話の枕に「茶話の料としては一寸春の日永の一消閑材たるに価する」と述べ、締めくくりにも「若し真面目に耶婆提が何れの国なるかを論ぜんとならば、まだまだ多くの思量を要することは勿論だ」としており、耶婆提国日本説を本気で唱えるつもりではなかったことは明らかだ(幸田「晋の僧法顕南アメリカに至る?日本に来る?」一九二九年初出、『露伴全集』第十五巻、岩波書店、所収)。
この種の説は忘れ去られた後に、先人の研究を知らない者により新たに「発見」されるのが常で、一九九三年にも中国人民大学のリャン・ユンシャン教授が、法顕はロサンゼルスとメキシコの間、アカプルコ辺りに上陸したという「新説」を発表したという(『朝日新聞』一九九三年二月二五日付、ロイター配信による)。
耶婆提国が実際にはどこかについては現在の学会ではジャワ島説とスマトラ島説が有力である。東洋史家の内田吟風がこの耶婆提国と邪馬台国の国名の類似に着目し、邪馬台国インドネシア説を唱えたことは有名だ(内田「邪馬台・耶婆提・Yavadvipa考」『鷹陵史学』第一号、一九七五、内田「魏志倭人伝中の熱帯的記事について」『小野勝年博士頒寿記念東方学論集』朋友書店、一九八一)。
しかし、法顕の乗った船はニコバル諸島沖合と思しき海域から九〇日ばかりもの漂流を経て耶婆提国に着いたとされており、インドネシアでは遭難海域から近すぎるという問題がある。
長澤和俊氏によると「九十日許」という『仏国記』の記述を「九、十日許」と解して、漂流期間を十日ほどとみなすこともできるが、そうすると今度は期間が短くなりすぎるという(長澤『海のシルクロード史』中央公論社、一九八九)。
加瀬禎子氏は耶婆提国をルソン島にあて、耶婆提国=邪馬台国=ジパング=フィリピン説を唱えている(『邪馬台国はフィリピンだ』月刊ペン社、一九七七)。このフィリピン説にしろ、南米説にしろ、耶婆提国までの漂流期間の長大さを満たすという点ではジャワ説およびスマトラ説よりも有利にも見える。
しかし、『仏国記』によると、法顕は中国の広州に向かう予定の商人の船に乗って帰国できたという(実際には暴風雨のため航路が変わって山東に上陸)。ということは耶婆提国と広州を結ぶ航路は五世紀初めの時点で便数が少ないまでも確立していたのである。さらにこの国では外道、バラモンの教えがさかんだったという。これはインドネシア説に有利なデータである。
耶婆提国−中国間の航路の存在からいって、フィリピン説や日本列島説にはまだ成り立つ余地があっても、南米ということはありえないだろう。耶婆提国南米説は露伴翁よろしく茶飲み話にとどめておくしかなさそうである。
なお、露伴翁によると、章炳麟の耶婆提国エクアドル説は、西暦紀元四五八年、シナ人仏教僧がメキシコに伝道したという、フランス人ド・ギニューの説に影響されてのものだったという。
先に、チャップマンの『山海経』研究や、スミサナの徐福アメリカ渡航説などで「扶桑」という国名が重要なキーワードとなっていることを見たが、ある意味ではすべての古代中国人アメリカ渡航説の源流ともいうべきド・ギニューの扶桑国メキシコ説については、「扶桑国探検」をご高覧いただきたい。
中国人のナショナリズムだけか
先述のように、アメリカ考古学界の大勢は古代中国人アメリカ渡航説に対して否定的である。エール大学教授で中米考古学・人類学の大家のマイケル・コウ教授は、オルメカ文化の文様と甲骨文字を結びつける議論は「メキシコ先住民を侮辱する」行為だ、と述べた。
また、プリンストン大学で中国美術を研究するロバート・ハグレー氏はアメリカ文明中国起源説を主張するのは中国人だけであるとして、「これは彼らの民族としての優越感を満足させるためのものであることは疑う余地がない」と述べる(『光華雑誌』一九九七年6月号)。
しかし、ことはそれほど単純ではない。そもそも古代中国人アメリカ渡航説の元祖となったド・ギニューは十八世紀のフランス人である。
今まで見てきたように、現在における同説の主唱者も中国人、中国系アメリカ人のみならず、ヨーロッパ系アメリカ人、日本人などを含んでいる。スミサナなどは自らがネイティヴ・アメリカンの血を引くことを誇っているのである。
ただし、日本人の同説主唱者はいずれも中国人とともに倭人も太平洋を渡っていたと主張している。また、シャトランのようなヨーロッパ系アメリカ人にしても、中国人が太平洋を渡ったと主張するその同じ著書の中で、フェニキア人やケルト人が大西洋を渡った痕跡もあると説くのが常である。つまり、彼らはみんな中国人が海を渡れたのと同様、自分たちの同胞が海を渡ってアメリカに到達していたと主張したいわけである。
そして、旧大陸の古代人がアメリカに渡っていた文献的な「証拠」を探すには、一大記録民族だった中国人の残した膨大な文献が便利だということなのである。
また、自分たちがアメリカにいるのは、先祖の不当な侵略の結果なのではないか、との反省を迫られているヨーロッパ系アメリカ人にとって、コロンブス以前から旧大陸の文明人の新大陸での「土地登記」が済んでいると信じることは、その心理的負担を軽減する作用がある。先述の鹿島の主張とは逆に、古代アメリカ文明の旧大陸起源説を唱えることは、大航海時代以降のヨーロッパ人による新大陸の征服・収奪への免罪となりうるのである。
古代中国人アメリカ渡航説は、中国人、日本人、ヨーロッパ系アメリカ人のそれぞれの期待がからんで、続々と生まれ、流布してきたものである。それら個々の説は単発的で系統だった研究史が編まれることはなく、したがっていったん忘れ去られた説が「新説」を称してよみがえるということが繰り返されてきた。その歩みをたどることはたしかに不毛にも思えるが、後世の人が同じ轍を踏むのを避けるためにも、このあたりで徹底的に見直す必要があるのではなかろうか。
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