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(回答先: 「我こそは革命の王である!」 桓武天皇 【魔界遺産】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 31 日 20:32:38)
【日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真】
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm
昌泰3年(900)10月11日、文章博士三善清行は道真に書を送って、次のように勧めています。
明年は辛酉で変革に当るから運命を慎まなければならない。尊閤は学者から出身して大臣に昇り、寵栄、光華、吉備公(吉備真備)のほか、並ぶ人はいない。伏して願わくは止足の分を知り、職を辞して風情を烟霞にほしいままにしてほしい。そうすれば、後生も仰ぎ視て尊ぶであろう。
「暦の百科事典」(大修館)の「辛酉革命と甲子革令」の項において、担当者の安居香山氏は次のように述べています。
中国の未来預言書とされる『緯書』に出てくる予言で、辛酉の年に革命があり、甲子の年に革令があるということである。
『日本書紀』には、……神武元年が辛酉の年とされている。果たして誰が何を根拠としていつ頃日本の紀元(皇紀)を決定したかは異論も多い。
聖徳太子が、『緯書』の辛酉革命説の鄭玄(じょうげん)の注にもとづいて、推古9年(601)辛酉の年を起点として、1260年逆算して決定したとする那珂通世博士説が、一応定説となっている。
しかし鄭玄の注では、1320年逆算説も考えられ、安居香山説は、『緯書』研究の立場から、1320年説を採っている。
この安居香山説の1320年は、神武元年の紀元前660年から山上憶良が生まれた660年の間を意味することになるので、暗号「山上憶良」を問題にする立場からは見逃せません。
安居氏は、さらに次のように述べています。
この辛酉革命・甲子革令説を世直しの革命説として取り上げたのは平安中期の三善清行で、昌泰4年(901)が辛酉の年にあたっていたため、「除旧布新」すべき年であるとして、世直しのため改元すべきことを上奏した。そして昌泰は延喜と改元された。
三善清行が辛酉革命説を積極的に取り上げた裏には、ライバルであった菅原道真の失脚をねらったものであると考えられている。
しかし、日本の歴史のうえでは、辛酉革命説はこれ以後大きく取り上げられ、60年ごとにくる辛酉の年には、必ず改元がされ、明治に入って、一代一元号とされるまで、辛酉改元が行われた。
このように、辛酉革命説にもとづく改元が道真の失脚した年から始まったのであれば、神武元年を辛酉革命説にもとづいて紀元前660年に設定したのは、この年以後と考えられないでしょうか。
次回の辛酉の年(961)のちょうど10年前、天暦5年(951)10月、撰和歌所が置かれ、源順ら梨壷の5人が万葉集に訓点を施し、後撰集を撰集していることも、見逃せません。
特に、安居氏の次のような見解は、傾聴に値するのではないでしょうか。
『緯書』は、中国の前漢から後漢にかけて流行したものであるが、隋の煬帝が『緯書』を徹底的にに禁圧して以来散佚し、佚文としてしか残っていない。
そしてこの辛酉革命・甲子革令の説は、「易緯」や「詩緯」の佚文として残存しているのであるが、三善清行が革命勘文の中に引用したのが初めてで、それ以前の資料にも見られず、中国の残存資料にもない。
また中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本の暦の歴史のうえにに現れている特異な現象である。
したがって、この革命説にもとづいた日本紀元設定の問題も、多くの疑問を残している説である。
このよう状況ですから、菅原道真失脚後に、辛酉革命説にもとづいて、日本書紀の年代が定められたと考える余地は十分にあるわけです。
日本書紀は無視していますが、隋書には、文帝の開皇20年(600)、倭王で、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩ケ弥と号している者が、隋の都大興に使者を派遣してきたとあります。
憶良は、そのときから干支が1巡した60年後の660年に生まれています。そして、さらに、それから干支が1巡した60年後の720年に日本書紀が成立しています。
このことに注目すると、万葉集に9回引用されてはいるものの、名ばかりの偽書の可能性がある山上憶良の類聚歌林は、「類聚」の2字から類聚国史を連想し、道真を意識するように仕向ける方便に過ぎないのではないか、という思いにとらわれます。
もう一つ見逃せないことは、大宰府で没した天神菅原道真によって、万葉集にある語句「大君の遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国」を、邪馬台国の所在地に関するヒントにしているのではないかということです。
遠の朝廷は、「遠」を距離とすれば、大宰府ということになりますが、時間と見れば、遠い過去のこととなり、次の柿本人麿の歌が、かなり意味深長に見えてきます。
304 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門(山門)乎見者 神代之所念
「蟻通」の「虫」を無視すれば、義(意味)が通じ、「嶋門」の「鳥」を取り除けば「山門」となり、それを見れば、「神代之所」即ち、邪馬台国時代の大王の朝廷が思われる、と読めます。
このこじつけはともかく、「しらぬひ(不知火)」は、暗夜遠くに見える火を目指して船を進めると八代県の豊村に着くことができたので、その国を火国と名づけたという、景行紀の説話に登場することにこだわらずにはおれません。
この説話の後にある記事から、景行紀に記された邪馬台国所在地を示唆する直線が得られたからです。
ところで、万葉集の7首のうち2首が「も・の・は」3個の辞を闕く歌になっている沙弥満誓の歌に、筑紫の綿を詠んだ、次のような歌があります。
沙弥満誓詠綿歌一首 [造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也]
336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ
この筑紫の綿は、糸にできない屑繭から作った真綿のことらしいので、魏志倭人伝に台与の朝貢の貢物に、めずらしい模様の雑錦20匹があったことや、天照大神が神衣を織っていたという記事を想起します。
そこで、「大君の遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国」とある「しらぬひ」は、遠の朝廷=邪馬台国があった所が、筑紫の国ではあるが、大宰府のある筑前側ではなく、火の国に接する筑後側であることを暗示している、と解釈してみるのはいかがでしょうか。
なお、宋史日本国伝によれば、984年に東大寺の僧「然が宋の太宗に(日本)王年代記を献上しています。
私は、この王年代記とほぼ同時に、中国の史書が伝える倭国伝と相容れない、今日のような日本書紀が完成したのではないかと考えています。
それゆえ、菅原伏見陵に葬られた垂仁天皇の第三子が景行天皇であることと、道真の第三子が菅原景行であることは、偶然の一致ではなく、日本書紀が完成した時期に関するヒントと受け止めたいのです。
このような私の受け止め方は、まともに検討するに値しないものでしょうか。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm