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共産党の機関紙・しんぶん赤旗日曜版は7月17日付けで「従軍慰安婦」の特集を組んでいる。
今日はその掲載された記事の中から特に重要と思われる部分、 従軍慰安婦としてレイプされ続けた中国人少女の証言とそして中曽根元首相の『慰安所を作った』という証言を抜粋して投稿しようと思う。
中曽根康弘元首相の証言
当時の階級 海軍主計中尉 1941年頃 フィリピン・ボルネオ方面を転戦
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものや博打にふけるものもでてきた。そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくったこともある」
(『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部より)
元従軍慰安婦 郭 喜翠(78)さんの証言 (中国山西省で被害)
「・・・十五才の夏の夜でした。・・・懐中電燈を持って日本兵が押し入ってきた。箪笥の間に隠れていたけど見つかり・・・・刀を首に突きつけられて部隊宿営地へ連れて行かれました。
・・・閉じ込められたその夜、隊長の部屋に連れていかれました。恐くて動けずにいると隊長は「座れ」とててまねきしました。いきなり上着とズボンを脱がされレイプされました。
終わった後、とても痛くて出血していました。まだ初潮もなかったんです。
その日から毎日、夜は隊長、昼は兵隊の相手です。
一人にレイプされている間、ほかの兵隊は周りで立ったり座ったりしてこちらをみていました。ニヤニヤ笑っている兵隊もいました。
食事は粟のおかゆや麺類の残りを時々もらうだけ。
20日ほどたったでしょうか。家族が50元の銀を日本兵に渡して、家に帰れることになりました。羊一頭が六元の時代、大金です。
(しかし彼女はまた部隊に連れ戻され、再び身代金を払い、しかしそれでも連れ戻され、計三回も性奴隷として拘束され続けた)
・・・帰宅できても五年間は寝たり起きたりでした。
いまでもしょっちゅう夢をみます。逃げても逃げても、日本兵に捕まってしまう。叫んで、目が覚める。
一生幸せな生活はできないですよ。