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台湾でオランダと戦った浜田弥兵衛  (知られざる探険家列伝)
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投稿者 ルルルン 日時 2005 年 7 月 14 日 19:49:19: si3L7.Y5BxRDo
 

(47)台湾でオランダと戦った浜田弥兵衛

表題の、オランダと戦ったと言っても、第2次世界大戦ではない。もっと以前、なんと江戸時代初期、鎖国直前まで遡る。しかも所は台湾。台湾と言えば、日清戦争後に日本が植民地としたことは誰でも知っているが、それ以前の武力衝突は明治7年の「台湾出兵」くらいしか思いつかなかった(遭難して台湾に流れ着いた琉球人54人が先住民に殺され、その懲罰として派兵したもの。この事件が琉球の所属を日本に決定づけた)。実はその250年前にも日本は台湾に出兵しており、しかも相手がオランダだったのである。その事件に、浜田弥兵衛は幕臣ではないが、重要な役割を果たした。ただし、浜田事件を語る前に、ちょっと前近代の台湾史を解説しないといけない。

  大航海時代、新興の海洋国オランダは、1600年代に入ると台湾海峡の澎湖諸島を占領する。明王朝は、すぐに軍を送って駆逐しようとしたが、その過程で台湾なら占領してもかまわないと約束したらしい。つまり明は台湾を自国領土と認めていなかったことになる。そこでオランダは、台湾南部にゼーランディア城やプロヴィンシア城を築いて拠点としました。一方、戦国時代が終わり、朱印状貿易華やかなりし日本は、台湾とも貿易を行うほか占領の野心も持っていた。1609年には、有馬晴信の軍勢が台湾を攻めた。しかし悪病にやられて逃げ帰ったという。また1616年には幕府が長崎代官の村山等安に台湾を攻めさせる。こちらも失敗。そんな中でオランダが台湾を抑えたのだ。当時は台湾にも日本人町ができて、オランダの傭兵になる日本人も多かったとらしい。
  さて、オランダは外国船から10%の関税を取り立てようとした。中国商人はこれを受け入れるが、日本の商人は拒否した。そのため朱印船の積み荷の鹿皮や生糸を差し押えてしまう。その中に、長崎代官末次平蔵が派遣した商船があった。その船長が、浜田弥兵衛であった。オランダは、ピーテル・ノイツを台湾長官に任命し、日本に派遣し幕府と交渉することにした。1627年7月のことだ。問題は、ノイツが浜田弥兵衛ら現場の人間を無視したこと。これに怒った弥兵衛らは、先住民14人を連れて、ノイツのあとを追って平戸に入り、先住民に台湾全土を将軍へ献上すると言わしめた。末次平蔵は、先住民一行を台湾からの朝貢使に仕立てて江戸へ送った。そのため江戸では、ノイツらを正式な使節として認めず、将軍との謁見も拒否され、台湾へ帰らざるを得なくなった。一方先住民の一行は、将軍に謁見した。この当たりの策略はなかなか見事。
  ノイツは当然はらわたが煮えくり返る思いだっただろう。そこで翌28年、台湾に戻ってきた弥兵衛らに対し、武器を没収し、船員と先住民らを拘束し、また将軍からの賜品も没収した。そこで今度は弥兵衛が怒る。帰国さえ認めないため、6月29日、約170人の手勢で長官府を襲撃して占領、ノイツら5人を拘束した。ここに日本−オランダは、戦争状態に陥ったわけだ。
  その後お互い人質を5人ずつ出して、長崎で双方解放することで合意した。もちろん、没収されていた品や先住民も解放させた。オランダは通商を重視したのである。これで一件落着かと思いきや、肝心の長崎では付き添ったオランダ船の乗組員や提督まで、代官は囚えて大村の牢獄に入れてしまった。ここまでするのはやりすぎだろうが、将軍の賜品を没収したことに対する懲罰という名目である。まだまだ日本の鼻息は荒かったのだ。見方によっては、弥兵衛は国家間の戦争の引金を引いたと言えるかもしれない。彼は、商人と言っても戦国の世の名残を残し、水軍や倭寇に近かっただろう。
  その後もオランダ船はだ捕され続けて、220人以上のオランダ人が抑留された。そして平戸のオランダ商館も閉鎖された。結局解決したのは、平蔵が死去し、オランダ側がバタビアで職を解かれたノイツを日本に突き出したおかげです。それが1632年。4年に渡る抑留でした。ちなみに、ノイツはそれから5年ほど監禁されました。その内容からして、外交は日本の完勝と言って良い。ただ、この事件が幕府が鎖国に踏み切るきっかけになったとも言える。オランダは、国の面子よりも利益を重んじて、その後長崎・出島で貿易を再開した。

  実は浜田弥兵衛は、別のところにも名を残している。それは、望遠鏡と眼鏡。彼は台湾ばかりではなく、呂宋(ルソン)や安南(ベトナム)などにも行っていた。当時の日本は、東南アジア全体に雄飛していたのだ。そして呂宋では、レンズの製作技術を身につけた。そして長崎に帰ってから技術を伝え遠眼鏡(望遠鏡)や虫眼鏡、数眼鏡、磯眼鏡、近視眼鏡などを作らせたのである。これは日本で初めての記録。つまり望遠鏡や眼鏡の伝導者ということになる。彼の晩年はよく伝わっていないが、長崎ではちょっとした顔だったらしい。

  弥兵衛の経歴、戦前なら教科書に載せてもおかしくない武勇伝だ。戦国の息吹を残す鼻息の荒さが伝わるとともに、当時の日本は世界を相手に堂々とやりあっていた雰囲気が伝わる。そんな気風が、鎖国後急速に縮んだのはもったいないような気がする。
 
 
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